勿来の関

 クラファンを始めたばかりで手慣れていないころに少部数だけキンコーズで刷ったという、彼女の名前と電話番号しか書かれていないシンプルな名刺は、米びつのうえの、桁がさびしい預金通帳やマイナンバー通知カードといった大切なものを保管する戸棚にしまってあったから、連絡を取ろうと思えば難しくなかった。しかし、ずっとなんの逡巡があるのだろう、思い切ることができない。金額の大きさをいえば、それは大きな要素だったかもしれない。が、彼女は冬馬くんに心臓の欠損があることは知ってくれていて、手術費用の援助を申し出てくれたこともあったのだ。結局のところ、私が首を縦に振るだけの話ではある。そこに踏み切れない。冬馬くんには何の責任もないし、夏美はなおさらだ。なのにどうしてここまで拘ってしまうんだろう。昔から、愁香より私のほうが好き嫌いがはげしく、納豆や子持ちししゃもをよく食べてもらったっけ。

 へたくそに箸を割るような区切りで、高校野球の甲子園大会が終わるのを待つことにした。すこし日の落ちるのが早くなったような気がする昼下がり、いつものようにだらしない格好のまま寝そべったベランダで、目をとじると、音のだれた野球中継がモノラルのラジオからあふれてきた。決勝戦は、大会前から優勝候補といわれ春夏連覇がかかった大阪代表vsいままで全ての試合をたったひとりのエースの力投と僅差の競り合いで凌いできた福島代表。奇しくも東西対決である。野球留学が一般的となり、大阪の子が他県のベンチ入りメンバーに顔を揃え、出身中学と県が記載される週刊朝日を見ながら「第二大阪代表」だとか果ては「第七大阪代表」とまで囁かれることもある昨今だが、福島代表はみな地元の子で構成されていた。福島県は、面積でいえば日本で三番目に広く、ふたつの山脈で東西に会津・中通り・浜通りというみっつの地域に分かれ、それぞれ独自の文化や風土があるという。十年ちかく連続で夏の甲子園に出場するなど、福島で圧倒的に野球が強い高校は、中通り、それも、県都・福島市にあるが、今年の福島代表は、その高校を決勝の再試合で破った浜通りの新興校であった。浜通りは文字通り太平洋に面し、いまさら甲子園の話題には上らないけれど、かつての津波の被災地であり、今なお原発事故の避難は続いている。往時は「アトミック打線」という今となっては冗談にならない異名の強力打線で知られたその高校も、今大会は「相双のダルビッシュ」と称される長身の絶対エースを中心にした守備力で勝ち上がっていた。バッティングは最新の機械やトレーニングやデータ分析の導入でどんどん進化するけれど、ピッチングの進化はせいぜい筋力強化に限られ、最後の背番号42とメタリカの「エンターサンドマン」で知られたマリアノ・リベラのカッター以降魔球らしい魔球は出てきていないし、いわゆる打高投低の傾向はルールの変更が示唆されるぐらいメジャーリーグでも見られる。それでも打者有利と投手有利はそれぞれの進化が他方の進化を呼ぶ形で流行を繰り返し、今大会の甲子園は「数年前に清原のホームラン記録が破られたことを反省して飛ばないボールに変えたんじゃないか」と疑われるほど、継投のものも含めればノーヒットノーランが複数回生まれる、歴史的な「投手」の大会になっていた。決勝も、らしい投手戦で進行した試合は終盤に動く。大阪代表の高校生離れした速くて重い打球をさばくうち、福島代表にも疲れが出たのだろう、県大会では一度もエラーがなかった堅い守備に連鎖的な綻びが出て、ふたつのファンブルと記録はヒットのエラーもどきから三失点を喫する。さらに八回表にはラインドライブでレフトポールを叩くソロホームランでの失点があり、四点ビハインドを追いかけての最終回裏の攻撃となった。大阪代表は、クリンナップを打つ遊撃手でもあり、抑えのエースでもある二刀流で知られたピッチャーをマウンドに送った。地元・阪神タイガースがドラフト一位指名をほのめかしている人気選手の満を持しての登場に、甲子園は今日いちばん沸くものの、超高校級の選手が集まる大阪代表とはいえ、まだこんがり日焼けした顔立ちにもあどけなさが残る未成年らしいといおうか、さすがに緊張していただろう、捕手がミットを伸ばさないほど高めに外れた初球のナックルカーブをはじめ、彼の制球が定まらず、死球と四球でのノーアウト1・2塁から、マウンドに集まって相談した結果か、ストライクを取れない変化球を嫌って入れにいったストレートを狙われ、左のプルヒッター用のシフトで空いた三塁線をゆるいゴロで破る不運なツーベースがあり、リードはわずか二点へ。ここで百戦錬磨の大阪代表の監督は、右翼で腕をまわしアピールしていたエースをマウンドに戻す名采配を見せる。ぼてぼての内野安打と内野ゴロふたつで一失点はしたものの、2アウト一塁の一点差からラストバッター。超満員の観客席にはブラスバンド部の演奏するチャンステーマ「鉄腕アトム」が夏のさいごを彩るように鳴り響いていた。週刊朝日の一ページ目をフルカラーで飾る大会ナンバーワンピッチャーの百十六球目、暑すぎて節電要請が出された夏の五百十三球目、しかし疲れはなかったはずだ、びたびたのバックフットスライダーを見送らせて0―2に追いこんでから、とりわけ深く挟みこんだ渾身のフォークボールは、ふらふら目の高さに浮かび、大会前に「甲子園取れたら、震災後、って言葉を使えるようになるんじゃないかって」とはにかみながら地元新聞にだけ語ったことのある大熊町出身のキャプテンであり、思い出代打のバットは、ずんぐりした全身がひっくり返るようなフルスイングで、差し込まれ気味ながら真芯で捉え、交代したばかりの右翼手はまぶしそうに空を見上げたまま足を止め、バックスピンのかかった打球は浜風に押し流されず、たかく、たかく、白河ならぬ「来る勿(なか)れ」に由来する勿来(なこそ)の関を越え……。


<なこそとは 誰かはいひし いはねども 心にすふる 関とこそみれ                       和泉式部>


――「来ないで」なんて誰が言ったのかしら。あなたが心に関を作って会いにこないだけよ。

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