第3話 閻魔大王の嫁のこと

「久鬼だ。お互い名で呼んだ方が夫婦らしい」

「はい、では久鬼様」


 私がその名前で呼ぶと、久鬼様は袖を口元に当ててクスクスと微笑みだす。


「ふふっよいよい。叔父もそのように呼んでいたのを思い出す。さて、問題があるのだが、夫婦とは何をすればよいのかとんと俺にはわからぬ」

「地獄には婚姻の儀はないのですか」

「ない。そも、あの世は命の果ての果て。命生まれることも死ぬこともないゆえに、夫婦や番ができることなどない。どうすればよい」

「えっとどうしましょう」


 そうでした、ここにいる人みんな死んでました。

 そもそも婚姻とはお互いの血を引く子供をつくること。摂政様もそうして自身の娘とを帝に婚姻させ、祖父として政を差配していた。女の役割とは政治の道具、けど子を作る必要もないから、久鬼様も私も役割がなくなった夫婦のすることなど、とんと知らない。

 ここで日長ぼんやりするというわけにもいかないし。


「何かお手伝いできることはありますか。お掃除とかできますが」

「掃除か。ふむ、できるかななにせここは地獄、汚れる仕事が多いが」九鬼様は切れ長な目を伏せて思案すると「そうだな。今日の裁判も終わったことだ、地獄を案内しよう」


 彼が立ち上がると同じく立ち上がろうとすると、慣れない椅子に腰が上がらずその場にちょこんと居座ってしまった。


「手を取れ、我が妻」


 戸惑っていたところを久鬼様が手を差し伸べてくれた。その手を取ると椅子にへばりついてしまった腰がようやく持ち上がった。こんな童のようにされるの恥ずかしい。


「お手を煩わせてすみません」

「じき慣れる」


 ふふっと微笑む久鬼様。しかしその優しさは新妻の初々しさとは異なるような気がする。


***


 久鬼様に案内された場所は、私が死人たちといっしょいた裁判の場だった。私がいた時と異なり獄卒も死人たちもいなくて閑散として、赤く塗られた床が寒々しい。


「裁判の間。閻魔庁の目玉だな。死人の生前の罪を裁く場所にして、罪状を記録する場所だ。閻魔庁は死人の判決だけでなく罪の管理をもする」

「宮中のような場所ですね」

「篁も最初そう言ってた。もっとも裁判は俺が基本するから、獄卒たちは衆人の罪状をまとめた巻物を管理するか、衆人たちの掃除が主だ」


 衆人の掃除? この広い閻魔庁の掃除なら一日かけても追いつかないのは思いつくが、衆人死人という言葉が最初に出たのがひっかかった。


「掃除とは主に何を」

「ふむそうだな。ここの汚れの原因は主に、衆人が汚したものだからな。啼泣の痕に引きずった痕、それから拷問で流した血の痕。あとは獄卒たちが喧嘩して、血を流すくらいだな。死なぬからやりすぎることが多々あるからな」


 ふと裁判の前に死人の頭が潰された光景を思い出してしまい、血の気が引いた。

 目を凝らして赤い床に注視すると、液体が飛び散ったような痕跡がうっすらと浮かんでいる。もしかして、閻魔庁が赤一色なのは血の色を隠すため……


「その掃除は私には……ちりほこりなどでしたら」

「だろうな。なら資料室へ行こうか。そちらなら掃除のほかに雑用が多いから道子の役に立つことがあるだろう」


 裁判の間を後にして、長い廊下を進む。

 廊下は柱の隙間から閻魔庁の外の様子が一望できる。地獄の地面は黒い岩肌がむき出しで、畑のような青々としたものは微塵も生えていない。空も血のような赤黒い雲で覆われて、太陽の光が入らない。遠くに山のようなものが見える。おそらく話に聞こえる針山地獄。ここからは死人たちの叫び声は聞こえない、おそらく刑場はここより遥か遠くにあるのかもしれない。

 死人の悲鳴を毎日聞くのは精神が参ってしまいそうだが、閻魔様や獄卒たちは平気なのだろうか。


 ぼんやりと壮大な地獄の様子を眺めていると、二つの人影がこちらに向かって来る。


「いやだぁ。極楽へ行くんだ!!」

「待てぃ。逃げ場などないぞ」

「また衆人が逃げ出したか。まあ、逃げようにも判決が出た以上逃れる場所などないがな」


 袖口を合わせて鷹揚に構える久鬼様。死者がだんだんと暴言を吐きながら迫ってきても彼の態度はまったく変わらない。

 そして死人が彼の横を抜けようとしたとき、死人の体が宙を舞った。久鬼様が足を出して、死人を転ばせたのだ。宙を舞った死人は顔面で床に着地し、死人の鼻血と肌の削り節が閻魔庁の床に飛び散る。


「衆人を逃がしてしまいました。大王様のお手を煩わせてしまい申し訳ございません」

「出したのは足だがな。構わんいつものことだ。だが、あの宙に舞ったのはちょっとした余興になったかな」


 え? 余興。死人はまだ血がどろりと床に流れ続け、ぴくぴくと指先を痙攣させていた。死ぬことはないけど、痛みはあるはずだし重症であるには違いはない。

 その様子をクツクツと笑う久鬼様の笑みが、恐ろしく感じる。


「道子、どこか汚れてはないか」


 足を上げると、足袋に死人の血が少しついていた。


鬼林きばやし私の妻の足に衆人の血がついてしまったようだ。拭け」

「はっ、どうぞ足を上げてください」


 獄卒の鬼林様が一瞬で私のひざ元にまで接近して、足袋を手に乗せるようにと手を差し出していた。


「いえ、これぐらいは」

「もらえ、お前は地獄の最高権力者の嫁だぞ」

「どうぞ。遠慮なく、私の手でお支えしますので」


 たぶん鬼林様このまま引き下がらないだろうからと、彼のお手に汚れた足を置いた。そして久鬼様に目を向けるとまたクツクツと面白いものを見るように笑っていた。


***


 次に案内された部屋は、四方の棚の中に巻物で積み上げられた部屋だった。棚自体も天井が見えないほど天高くあり、棚の一番上がまったく目視で見えない。


「ここが閻魔庁で裁かれた衆人の罪を管理している図書室だ。衆人の記録は毎日記入されているから、途方もなく仕事は続く」

「死人は毎日出ますからそうなりますね」

「記録したものはとにかく積み上げる。上へ上へとな」


 すでに棚の下は巻物が隙間なく埋まっており、獄卒たちが梯子を使って空いている棚の中に手を伸ばして入れていた。そんな獄卒たちの合間を縫うように歩いていると、久鬼様は眼鏡をかけた角二本の獄卒を呼んだ。


「鬼庭、彼女に今日の分の巻物を入れるのを手伝ってほしい」

「はっ、獄卒ではなさそうですが」

「私の妻だ」

「奥方……」


 鬼庭様がしげしげと眼鏡の奥から私を見つめるその横で、久鬼様は何か好奇心のような目で眺めていた。その時久鬼様が口にした「余興」という言葉を思い出す。

 もしかして久鬼様は私と婚姻して周りの反応を面白がっているのだろうか。久鬼様自身も妻を持ったことも例もないと答えていた。

 もしも久鬼様が婚姻に飽いたら、私は地獄をさまようかもしれない。


「わかりました。ではこれを今日の日付がある空いている棚にお入れください」


 鬼庭様から受け渡されたのは三本の巻物。

 よしっと着物をたすき掛けに引き締め直し、梯子に足をかける。ここでお役に立てる。万が一捨てられてしまってもここでお手伝いできれば。


 棚の一段一段の日付を確認してギシギシ音を鳴らしながら、上へ上へと昇っていく。今日の日付はまだない、まだ今年の三か月前だ。けっこう昇っているはずなのに、まだ到着しないなんて。一方隣では私と同じく巻物を五本も携えている獄卒の方は、ひょいひょいと私の倍ほどの速さで梯子を駆け上がっていく。この巻物一本だけでもなかなかの重さなのに、あんなに動けるなんて。

 隣との差に項垂れるとうっかり下を覗いてしまった。

 下にいた久鬼様たちが人形のように小さく映るほどで、頭がぐらりと揺れてしまった。


「危ない」


 目を開けると久鬼様の顔が目の前にあった。私はいつの間にか梯子から手を離してしまい、助けられてしまったようだ。


「申し訳ございません。私、つい下を見て」

「なんともない」

「ええ、そうですとも。死ぬことはございませんから、それに大王様のお力はこの程度微塵ともございません」


 私が落としてしまった巻物を鬼庭様が拾い上げながら、誇らしげに久鬼様のお力を自慢した。


「ここも難しいな」

「またもう一度お願いします。今度は下を見ないようにしますので」

「何度でもするというのならよいですが、怪我をするのは当たり前だと思ってください。我々でもうっかり落ちることもあります。この間も足から落ちた鬼がおり。その者大腿骨が折れて、遅れて頭部が床に衝突して血を噴き上げて」

「鬼庭、道子が震える。だが今日はもう休んだ方がいい」


 鬼庭様の話を聞いてひえっとしたところで、また久鬼様はクツクツと笑い出した。やはりこの方、他人が苦しむお姿が好きなへきなのかもしれない。


 その後用意された部屋で、私は死んだようにぐっすりと眠れてしまいました。もう死んでいるのに。

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