03 聖心の影に

 教会には葡萄酒ぶどうしゅの大人びた酸味と殺伐さつばつとした重圧が、ともに閉じこめられていた。


 レッドカーペットにひざまずき、教皇と相見える。

 舞台にたたずむ猛禽類もうきんるいにも似た赤い瞳がクラウスを捉えて離さない。身にも心にも負担をかけさせる圧迫感が、脳髄にまでなだれこむ。この空気は17年間、1度も慣れたことはない。


 クラウスはこうべを垂れ、冷静に口火を切った。


「お召しにより参上しました。なにか御用でしょうか、教皇サマ」


 おぼつかない敬語が響くなり、教会は静けさにひれ伏した。

 教皇は言葉を交わすことなく舞台を低徊ていかいしている。彼女の身に羽織られた幾重いくえもの真っさらな外衣が、さーっと擦れ、鮮明に尾を引いている。


 彼女は身勝手にものを言うほど浅はかでも、身の程を知らないわけでもない。そう弁えながらも、クラウスはこの沈黙が苦痛でしかたがなかった。

 ただ再び訊こうとは思わない。深淵よりも深い孤独を感じながら、時の流れゆくままに身を委ね、その場をやり過ごす。ふとしたときに落ちる息づかいだけが、押しつぶされそうな静けさを柔らかくほどいた。


 教皇が口を開いたのは彼女を知るクラウスでさえ痺れを切らして、言葉を喉元にまで迫らせたときだった。


「孤児たちの世話をお前とアナスタシヤに任せて正解だった。特にお前は孤児でありながらも、私の期待以上の働きをしてくれた。礼を言うぞ、クラウス」


 数十秒も待って放たれたのは、なんの感情もこもっていない、もてあそぶような謝辞しゃじだった。

 クラウスには気恥ずかしさどころか慢心も生まれず、嫌悪感すら残る心をなんとかつつましやかでつくろって、さらに深く頭を下げた。


「だがお前も明日で18になる。名残惜しいだろうが、明日を以て、お前には孤児院を出てもらわなくてはならない。それが私の国のルールだ」


 教皇は靴音を響かせながらこう続けた。


「問題は、お前がこの先どうしたいかだ」


 クラウスは告げられる本題に顔をもたげる。教皇は2本指を立てた。


「選択肢は2つ。修道士として最期まで孤児の世話を担うか、労働者として権力者に這いつくばるかだ。私としては前者だが……どうだ?」

「俺は……」


 たった2つだけの選択肢が示されて、クラウスはひそかに唇をんでうなだれた。

 みずからが望む道はひとつ。それは、アナスタシヤの願いどおりに教会を離れることでも、教皇の望みどおりに修道士になることでもない。孤児としていつもどおり、孤児たちの世話をして生きる道だ。

 だというのに、教皇のまなざしがいつもより強く突き刺さる。


 クラウスは恐れおののき、反論どころか空論くうろんも浮かばない。


 知っていたからだ。みずからの願いは17年の恩を仇で返し、信仰と規定に泥を塗る行為になるのだと。

 恐怖していたからだ。教皇から下される、異端者への死刑宣告を。


 しぼりとった一滴の言葉に対して幾度いくどとなくためらいながら、クラウスは告げた。


「俺を、いえ、私をまだ、孤児のままでいさせてください」


 苦しまぎれの要求が、頬の冷汗とともにしたたる。教皇は一度だけ眉をひそめ首を傾げた。うつむきながら見やった怪訝けげんな表情に、クラウスは目を細めた。

 殺される。心は不可解にも冷静に、そう悟った。

 心臓がドクンと震えた。まぶたを閉じる。


 教皇は薄笑いを浮かべ、告げた。


「善処する」


 クラウスは顔をもたげ、目を見開いた。


「え」

「聞こえなかったか? 善処する、と。そう言っている」


 絶望から一転して、命を繋ぎ止めることができた安堵あんどと嬉々に、そっと胸を撫でおろす。撫でおろせる、はずだった。


「だが孤児のままでと言ったな。若気の至りか? それともお前には……修道士になりたくない理由があるのか?」


 唐突に告げられる疑問にクラウスは固唾かたずを呑む。


 異端審問だ。


 疑われている。教皇はみずからが神の存在を否定する異端者ではないかと、殺すべき人間ではないかと疑っている。

 繋がれたはずの生命線は、依然いぜんとして断たれる寸前。慎重に言葉を選ぶ。彼女を前にしては一切のごまかしも効かず、わずかな虚偽きょぎ死線しせんをまたぐに至る。再び下を向いたとき、レッドカーペットに汗が滲む。


「孤児院は、あいつらは私の存在意義です」


 口を衝いた言い分に、教皇は、ほうと息を漏らした。


 クラウスにとっての育児とは生きる動機であり、人生の主軸となるエゴであった。孤児という不遇な環境さえ誇りに思え、孤児院はいつしか、唯一の居場所になった。


「私はその反面で——」


 その反面で、戦災孤児たちと暮らすに連れて、神を疑いだした。


摂理せつりを愛せ、教えを拝せ、神をとうとべ。さすれば我らは救われる〟とミサのたびに教皇が連ねる聖書の記述を、まぎれもない虚構きょこうだと断じた。

 神がいるならば、なぜ子どもたちに永遠に残る傷を負わせた。なぜ聖戦に停戦すくいをもたらさなかった。そう考えるたび、神はいないのだと悟る。


 だからこそ彼は、修道士という敬虔けいけんな称号から目を背き、教会を去ることを拒むことで、みずからの存在を保ち続けていた。


「神を信じない私は、修道士になる資格はありません」


 教皇はクラウスの言い分を聞き届けたあと、すぐに冷笑を浮かべた。


「なるほど、そうか。変わったのだな、お前も」


 教皇の言葉を、クラウスは黙って受け入れた。

 しかしなぜ自身を殺さないのか、それだけが不思議でならなかった。この国にとって神を信じないものはことごとく異端者であり、死を以て裁かれるべき悪の枢軸すうじくだ。今までも数千人が殺され——聖戦もそのせいで起こったものだ。


「私を……殺さないのですか?」


 ごくり、と唾を呑む。すると彼女はこちらを見つめる。


「あぁ、殺さない。お前にはまだ教会にいてもらなくては困るのでな」


 教皇は再び、その場で低徊ていかいし、言葉をつづかせた。


「しかしゆめゆめ忘れるな。私たちは孤児を3つの苦悩から解放せねばならない」


 教皇のくるぶしまで続く赤髪を揺らす。腰にける金色こんじきの鞘に手をかける。


「1つ、孤児であるという劣等感。2つ、他とは違う環境に預けられた不安。そして3つ、過去がはらんだ負の感情。我々は、すべての子どもをそれらから、救わねばならない」


 クラウスはひそかに頷いた。

 教皇の口が「明日——」と言いかけるまでは。


 彼女は言いよどむも躊躇ちゅうちょするもなく、クラウスに勅命を下した。


「——貴様が孤児どもを殺すのだ」

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