序章 はじまりの日

1-1.命数未判明

 目の前には、黒々とした広大な森が広がっている。

 そこより先に進んではいけないと言われた場所より踏み込むことはなく、けれどそのぎりぎり境界線の場所にある太い木の枝の上。そこに座って森を眺めるのが、スキアにとって一番の贅沢ぜいたくだった。

 先に進んではならないのは、その先からは世界樹の領域だからだ。とはいえそれはスキアの一族が奉じる神とはまた別物で、あまり口にするものじゃないよと可愛らしい顔をした世界樹の番人が言っていた。

 手にしたリンゴのつややかな赤色は、服のところでこすれば輝きを増すようにも見えた。一口かじればしゃくりと音がして、甘味と水気が多い。

 今日も良い天気ではある。けれど、どこか気が重い。


「……父様は、フロレアの目をニュクスに捧げ終わったのかな」


 歯型のついたリンゴの白い部分に視線を落として、つい言葉を落としてしまった。別にそれが間違っているとかそういうものではなくて、ただこれはスキアの気持ちの問題でしかない。


「スキア? またそんなところにいたんだね?」

「あ……」


 木の下から声がして、そちらへと視線を向ける。

 頭の高い位置で二つに括られた長い薄紅色の髪が、まるで風に揺れる垂れたウサギの耳のように見える。何時いつだってそんな風に思える少女が、紅色の目でスキアのいる枝を見上げていた。


「エデル。エリヤは?」

「エリヤ? エリヤなら世界樹のところだよ。今日はネズミ退治の日」


 エデルはこともなげにするすると木を登って、スキアの隣までやってくる。二人分の体重をかけても、太い枝はびくともしない。

 彼女から視線を外して前を見る。黒々とした森の中、天を貫くほどに大きな樹が一本そびえ立っている。

 あれがどういうものなのか、スキアはエデルや彼女の双子の兄であるエリヤの話でしか知らない。世界を支える大樹と言われても、それはスキアの知る神話とは違っていた。


「根っこかじってるとかいうネズミ?」

「そう、それ」

「エデルは手伝わないの?」

「エリヤが、『おれひとりで良い』って言うから。だから僕は暇になって散歩に出てきたんだ」


 内緒だよとエデルがいたずらっぽく笑っている。

 エデルは見た目はふわふわしていて砂糖菓子のように可愛らしいのに、口調が少年のようでもある。それはエリヤの影響なのかもしれないが、聞いたことはない。


「スキアは浮かない顔だね」

「そうかな」


 しゃくりともう一度リンゴをかじる。そうしてしゃくしゃくとかじって食べ尽くして、芯は森の方向へと放り投げた。もしかしたらリンゴの木が芽吹くかもしれないし、あるいは森の獣が食べるのかもしれない。

 別にどちらでもいいのだ。そんなものは。


「五日前に、ニュクスから託宣たくせんがあったんだ」

「ああ、君のところの神様」

「うん……それが、災いが外からやってくるから、にえの目をささげよ、って」


 神は人の呼びかけに答えたりはしない。けれど気まぐれに、託宣たくせんとして人に言葉を与える。

 求めたのが命ではなく目であったということは、その災いも人々が滅んでしまうほどのものではないということなのか。それでも、神の求めるものはささげなければならない。


「君たちのところの神様っていうのは、血なまぐさいね。目なんて貰ってどうするんだか」

「さあ……」

「ところで、誰の目? にえの子?」

「うん、にえの子」


 神とはにえを求めるものである。

 ささげものを求めるものである。

 そのささげたものの大きさはつまり、神が人間に与えるものの大きさでもある。神というのは理不尽で、不公平で、けれども残酷なまでに天秤てんびんを水平につり合わせる。


「そっか。にえの子、フロレアだね……目が見えなくなるのか、あの子。じゃあ今までみたいに、外に出られなくなるね」


 フロレア・アピス・メリッタ。それが現在ニュクスにいるにえの子、つまり神へのささげものである少女の名前だった。年はスキアよりも二つ上、じきに成人だ。

 成人を待たずして、フロレアの目は神にささげられることになった。そのためににえの子はあり、そのためだけにフロレアは生かされている。

 いつか彼女の命も、ニュクスは求めるのだろうか。

 ニュクスにささげるにえの子は、いつでも清らかなる少女である。それはニュクスが処女しょじょ神であり、自分に仕えるものも、何かを与えるものも、自分と同じであることを求めるからだ。

 神にもいろいろとあるのだ。隣のヘリオスが求めるのは、少年であることの方が多い。


「君たちのところは大変だね。十三もの神がこの狭い土地でうごめいてる。一応それぞれ根差してる場所は定まってるけど、きっちり線が引かれてるわけでもないし。この前も小競り合いしてなかった?」

「この前はクレプトと土地の奪い合いになったとか、そんなことを聞いたよ。ニュクスはヘリオスとは兄妹だからそれなりの関係だけど、他とは関わりがほとんどないし、少ない方だって父様が」


 この辺りの土地には、十三柱の神がいる。それぞれの神を奉じる一族が寄り集まり、そうして集団を作っているのが現状だった。

 スキアの一族が奉じるのは月と狩猟の神であるニュクス、東隣に暮らしている一族が奉じるのは太陽と芸術の神であるヘリオスだ。そして西隣、魔術と商売の神であるクレプトを奉じる一族がいて、そことつい先日小競り合いを起こしたらしい。

 らしいというのは、スキアがそこに立ち会ったわけではなく、父から伝え聞いた話でしかないからだ。


「ふうん。まあ、僕は別に世界樹の森が巻き込まれなければそれで良いけど。そこはきちんと線が引かれてるから」

「『世界樹の森の外がどうなろうと、僕らには関係ない』?」

「そうだよ。何せ僕とエリヤは、世界樹の番人だからね」


 世界樹とは、世界を支える大樹とは、決して枯らしてはならないものである。エデルはそう言うけれど、やはりスキアには馴染まない。

 エデルが言うには「君たちの言うニュクスみたいなものだよ」というものだが、本当のところはどうなのだろう。

 ふとエデルが笑って、両手の親指と人差し指で長方形をつくる。彼女はその長方形の向こうから、スキアの顔を覗き込んでいた。


「……命数未判明。うん、まだ大丈夫だよ、スキア」

「それ、エデルはいつもやってるね」

「こうすると、その人の命の残りが視えるから」


 エデルだけではなく、エリヤもやっていることがある。そうしていつも、命数未判明と言って、二人は安堵あんどしたような顔で笑うのだ。


「スキアはまだ十五だもんね。それで命数が決まってても困るか」

「……エデルはいくつなの?」


 エデルは同じくらいか、それかもう少し下か、それくらいに見える。けれども彼女もエリヤも、話す内容や表情がその外見にそぐわない。

 ふとエデルは笑みを浮かべて、口の前で人差し指を一本立てた。


「内緒」


 言うつもりがないことを、根掘り葉掘り聞こうとは思わない。だからスキアはただ、「そっか」と言うだけに留めた。

 この世には不可解なことも不可思議なことも、いくらでもある。そういうものだ。


「さてと、僕はそろそろ見回りに戻ろうかな。またね、スキア」

「うん、またね」


 枝のところで立ち上がり、エデルはそこから地面へと飛び降りる。ふわりと風が巻き上がって、エデルはそれに乗るようにして軽やかに地面に降り立った。

 ひらりと手を振った彼女に手を振り返して、スキアはまた世界樹の方を見る。

 そうしてただぼんやりと眺めていた視界の端に、赤銅色が踊った。見たことのない少年が、もう一人黒髪のぼさぼさ頭の少年と連れ立って歩いてくる。ただ彼らの向かう先には世界樹の森があって、そこから先はエデルやエリヤの許可なく立ち入れば災いが降りかかるとエデルが言っていた。


「ねえ、待って。そこの人たち」


 止めなければと、頭の中にあったのはそれだけだった。


「そこから先は、入ったら駄目だよ。そこから先は、別の神の土地だから」


 スキアを見上げた彼らの目は、それぞれ色合いは違うもののどちらも黄金の色をしている。

 それは、未だかつてスキアが見たことのない色だった。

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