灼け落ちた記憶

PROJECT:DATE 公式

秋の香り


マスク越しに鼻をすん、と鳴らす。

すると、いつからか変化していた

風の香りをそっと掴む。


まだまだ暑いことには

変わりはないのだけど、

9月に入ったことで

秋だという感触が大きくなっていった。


これまで「暑いから外に出たくない」

だったのが、

これからは「寒いから外に出たくない」

へと変わっていく。

それを何度も繰り返してきたはずなのに、

まだ全然慣れていない。


陽奈「…。」


あ、鱗雲。

自然と手を伸ばす。

指の隙間から見る空は

青く染まっていた。

ちらちらと指の縁と、

その先にある私の目を照らす。

青が差し込む。

青眩しい。

青が。


魅入られるようだった。

足がぴた、と止まっては

ぼんやりと空を見続けた。

浅く、浅く呼吸をする。


もしかしたら、今であれば。

今だったら、何か言えるかもしれない。

声が出るかもしれない。

そんな予感に乗せられて、

自然と口を半分開いた。


すぅ。すぅ。

空気が通っていく。

今なら歌えると思い、

もっと強く息を吐いてみる。


陽奈「……ーー…。」


掠れた息が、すぅ、と鳴った。

髪を僅かに揺らすほどの風が吹く。

吐息よりも生温い風だった。


鱗雲、その奥には

どんよりと積もりに積もった雲の層。


陽奈「…。」


私は明日、雨に打たれるのだろうか。

あの晩のように、

声を失ったあの日のように。


雨はいつまで降り続けるのだろうか。





***





陽奈「…。」


ゆっくりと上体を起こす。

いつの間にか眠っていたようで、

内心焦りながらも、

その焦りがバレないように

のそのそ時計を確認した。


壁掛け時計はもうすぐ12時半を

指そうとしていた。

先生が数式をつらつらと書いている。

黒板を鳴らしている間、

生徒たちは必死に板書していたり、

はたまたさっきまでの私のように

ぐっすり眠っていたり、

スマホをいじっていたりと様々だ。


うつ伏せて寝ていたからか、

手の甲の一部が真っ赤になっている。

随分と長いこと眠っていたのかもしれない。

じんわりと指先が

痺れるのを感じ始めた頃。

先生はいきなりこちらを向いて、

数式の解説をし出した。


何ひとつ頭に入らない中、

ふと夢の内容を思い返す。


現実のような夢だった。

それこそ、目覚めなければ

夢だとわからないくらいには。


陽奈「…。」


ちらと外を確認する。

空には雲がびっしりと広がっており、

辛うじて雨は降っていないものの

今にも泣き出しそうな顔をしていた。


陽奈「…。」


帰る時に降らなければいいな、と

思うばかりだった。


あっという間にチャイムが鳴り、

あたり一体は一瞬にして

話し声で埋まっていった。

クラスの中でも上位とされる人たちは

きゃっきゃっと笑いながら

机に座ったり足を組んだりして

昼食を食べだしていた。

他の人たちも、そこまで騒ぐことはなくとも

お弁当や買ってきたパンを取り出して

口にしている姿が見える。


私は1人静かにお弁当を手にし、

そそくさと教室を後にした。


声を失って数日間は

教室でお弁当を食べていた。

当時仲良かった友達と

2人きりで机を囲って。

けれど、私が声を失って以降

気を遣わせる回数が猛烈に増えた。

食べている間に筆談するにも、

1度お箸を置いてから

ペンを手に取るしかない。

両ききだったらそんなことせずとも

もう少し楽にコミュニケーションが

取れたのかもしれないけれど、

生憎私は器用じゃなかった。


友達がずっと会話を

回そうとしてくれるけれど、

私にペンを取る手間が気づいてからは

はいかいいえで

答えられる話しかしなくなった。

それに、愚痴を言って共感を誘うような

こともしなくなっていった。

きっと、声を失った私を前に、

自分の愚痴なんて言えなかったのだと思う。

目の前に苦しんでいる、

凄絶な体験をしている人がいるのに、

自分の苦しみったらなんと軽薄か、と。

優しい子だからこそ、

幸福のみならず不幸も

比較してしまったのだろう。

段々と無言で昼食を取るようになった。


…そして私はある日、伝えたのだ。


『気を遣わせ続けているのは私に取って心苦しい。』


だから、お昼は別々に

取るようにしないかな、って。


こんなことせずとも、

自然のうちに離れれば良かったと

言う人もいるだろう。

けれど、何せ狭い世界だもの。

自分のことばかり考えてしまって

変な噂が流れるのは嫌だった。

それに加えて、曲がったまま

伝わってほしくなかった。

友達のことを嫌いになったから

離れるわけじゃないよって

ちゃんと伝えたかった。


その子は「わかった」と

小さく言っていたっけ。

それでも、授業の合間の休み時間とか

放課後帰る直前とかに

少しだけでも話しかけてくれるのは

とてつもなく嬉しかった。


陽奈「…。」


ぱっと顔を上げる。

いつもの教室にたどり着いたのだ。


そこは、保健室の隣にある

特別教室だった。

知的障害や不登校の子など、

色々な事情があって

教室で授業を受けづらい子が集まる教室。

この特別教室は何故か2つに

別れて配置されていて、

保健室の隣だからか

主には障害を持った方々というよりも

不登校の子がふらりと寄れる

教室になっていた。

とは言え、多くの人は

保健室の方へと足を運ぶものだから、

昼休みの今は大抵誰もいない。


いるとしても、たった1人だけ。


からからと扉を開き、

中を確認する。

教室の中は普段私が

使っているような広さがあり、

何が違うかと言えば

植物が飾られていたり

席数が少なかったりするところだ。

大して大きな違いはないが、

それでも人がいないと言うだけで

心が安らぐものがある。


入った瞬間、冷房特有の香りが鼻を突く。

ふと瞬きをする。

そこには、1人の背中があった。


開いた扉の音に反応して、

ゆったりとこちらへと振り返った。

私が来るのはもう慣れたみたいで、

待っていたよと言わんばかりに笑った。


そこにいたのは、

前々から知り合いだった古夏ちゃんがいた。


古夏「…。」


古夏ちゃんは小さく手を振った。

私も手を振りかえし、

扉を閉めて彼女の前の席へ向かう。


彼女は早めにきていたのか

机を向かい合わせるようにして

待ってくれていた。

お弁当袋がひとつちょこんと置かれている。

対面に座り、ふと顔を上げた。


陽奈「…。」


古夏ちゃんは笑って手を合わせ、

軽く屈んで口をぱくぱくと開いた。

私も真似をするように

同じ動作をする。


彼女は、いつからか声を失ったらしい。

昔は自由に話せていたらしく、

境遇は私とほぼ一緒だと

耳にしたことがあった。

だから、口を開閉しているのも

音を知っており、

「いただきます」と言っているのだろうと

容易にわかった。


ご飯を口に運ぶ間、

外からは楽しそうな笑い声が

遠く、遠くから聞こえてくる。

まるで森の中で2人

ご飯を食べているみたいで、

なんだか夢のようとすら思った。


お互い事情があって

言葉を使えない同士、

話すことに意識を向けなくて楽だった。

お箸が進む音、冷房の音、

時折しゃき、という

歯応えのいい咀嚼音が響くだけ。


陽奈「…。」


古夏「…。」


陽奈「…。」


古夏「…。」


陽奈「…。」


古夏ちゃんは食べるのがゆっくりで、

少しずつお弁当の中身が減っていった。

私の方が先に食べ終わってしまうけれど、

彼女が食べ終わるのを待つ。

その間は、壁にかけられた時計の音に

耳を澄ませている。

彼女は始めこそ申し訳なさそうに

手話で謝っていたけれど、

ぼうっとする時間も好きだと、

待つことは苦に

思っていないことを伝えて以降、

食べ終わってから「ありがとう」の

手話をしてくれるようになった。


今日も彼女のお弁当の中身が

少しずつ減るのを眺めていた。


声を失ってから3ヶ月弱。

手話クラブに入って

ボランティアをしていたこともあり、

多少は知識はあった。

けれど、いざ生活してみると全然違う。

伝えたいことがぱっと出てこない。

口を使っていた時と

そう変わらないと言えばそうかもしれないが、

考えても動作がわからなかったら

そもそも伝えようがない。

初めは手話を全て覚えなければと

半ば危機迫るように

覚えようとしていたけれど、

ある日それに気づいた古夏ちゃんは言った。

無理をするくらいなら筆談でいいって。

そう紙に書いて渡してくれた。


それ以降、「ありがとう」や

「おはよう」といった

基本的な手話はもちろん頭に入れたが、

それ以外は無理して

覚えることもしなくなった。

努力することをやめたわけじゃない。

ただ、ちゃんと伝える方が

大切だと思ったのだ。


思えば声を失ってから

伝えることの大切さを知った気がする。

それから行動が変わったようにも思う。

例えば、これまで一緒に

お昼ご飯を食べてくれた友達に

「一緒に食べるのをやめよう」と言ったのも。

古夏ちゃんに

「ゆっくりでいいよ」と言ったのも。


声を持っていた私なら

おどおどして終わっていたんじゃ

ないだろうか。

伝えることを恐れて、

周囲の評価だけ目に入って

いたのではないだろうか。


今でも周囲の目は怖い。

声を失ってから

可哀想、心の病気とかわからないなど

思われてるのだろうと思う。

けれど、行くとこまで

行ってしまったと言えばいいのか。

これ以上はないような気がしたのだ。

それなら割り切るしかない。

私が過ごしやすい環境を

作ってもいいのかもしれない。

周りばかり見ずとも、

もう少しわがままになっても

いいのかもしれない、と

ふと思ったのだ。


文字で話して、伝えて、受け取る。

声を失ったのはもちろん嫌だ。

もう歌えない。

好きなことが、生活の大切にしていた

大部分が削られた。

けれど、悲観してばかりじゃ

どうにも進めないことに

気づいてしまったのだ。


陽奈「…。」


だから、変えなきゃって思った。

雨鯨に入った時は変えてもらった。

今度は自分から変わらなきゃ。

そう思ったのだ。


古夏ちゃんが最後の一口を食べ、

お箸をケースにしまった。

そして2人で一緒に手を合わせる。


今の生活に満足しているとまでは

言えないのかもしれないけれど、

不満足ではないと言えるようになりたい。

そんなことを思いながら、

残りの時間は2人で図書室に向かい

本を読んだ。


お互い好きな席に座って本を読み、

時間になったら一緒に図書室を出る。

時々美月ちゃんがいて、

声をかけることはないけれど

手を振り合う関係が続いた。


心地いいな、と不意に感じたのだった。


それから時間は溶けるようだった。

午後の授業はあっという間に終わり、

放課後になってすぐのこと。


鞄の中でスマホをこっそりと見る。

先生は早々に教室から

出ていったものだから

隠すことはないのだろうけど、

念の為と思い画面を光らせる。


たまにはTwitterでも見てみようかな。

すぐに帰れば良かったのだけど、

今日は少しだけ学校に

残っていたい気分だった。

ふとTwitterのプロフィールを開くと、

DMのところにマークが付いていた。


どくん、と心臓が跳ねる。

いつからだろう?

しばらくTwitterを開いていないものだから

長い間放置していたことに

なるかもしれない。

申し訳なさを既に感じながら

DMの欄を開くと、

そこには一昨日こころちゃんから

「遊びにいこう!」と連絡が来ていた。


一昨日の連絡であることに

ほっとしながらも、

それでも返事が遅れてしまったことに

申し訳なくなった。


彼女の予定では、

あの巻き込まれたメンバー全員を誘って

どこか遊びに行こうとのことだった。

夏休みは終わってしまったけれど、

どうしても思い出作りをしたいという。

こころちゃんはこんな私にも

連絡をくれるのか、と感謝が湧き上がる。

きっと友達が多いんだろうななんて

ぼんやり思いながら

「うん、行きたい!」と

元気そうに見える文面で返した。


みんなを誘う。

…ともなれば、茉莉ちゃんも

いるかもしれない。

茉莉ちゃんとは全く会っていなかった。

いつ以来だろう。

5月末に一緒に学校から

駅まで歩いて以来じゃないだろうか。


陽奈「…。」


そっか。

声を失って以来会ってないのか。


雨鯨の声明を出したあの日を思い出す。

茉莉ちゃんには一切記憶のない

声明となってしまったけれど、

私にってあの日は

大きな境目となった。


少しだけ気まずいと感じてしまう。

罪悪感を感じているのかな。

それとも、茉莉ちゃんが

罪悪感を感じているかもしれないと

危惧しているのかな。

…何もかも忘れている彼女と

対面することが怖いのかな。


何故なのか。

ふるり、と身を震わせた。


もう1度スマホの画面を見る。

しっかり「遊びに行きたい」と

意思表示をした足跡が残っていた。

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