第23話ベアトリーチェ

色彩はヒルデに似ているが、存在感の重みがまるで違う。

艶々とした黒髪の豊かさは、後ろで綺麗に結い上げられていても伝わってくる程だ。

ミルク色の肌は弾力があり、赤いドレスから覗く胸は張りと弾力に富んでいた。

ルビーのような瞳に、血を塗りつけたように赤々とした肉感的な唇。

黒髪に赤い瞳というマルム王国の特徴を、よく表している女性だった。


「ご挨拶が遅れました、シュルツ伯爵夫人のベアトリーチェと申します。我らが麗しき緑の精霊の公女様、ならびに猛き紅の精霊の公女様、分別のつかない愚かな娘で申し訳ございません。どうぞお許し頂けますでしょうか?」


周囲を圧倒する存在感を持ったヒルデとアゼリアの母親である伯爵婦人は、頭を深く下げる。

謝罪という武器を振り上げられると、僕は許さざるを得なかった。

今の公爵家が貴族に示すべきは厳しさではなく、懐深い寛容さなのだ。


───劣勢な状況を分かって、この場を収めようとしているのか…したたかな人だ。


伯爵婦人は、美しい姿で人を惑わす魔性の蜘蛛のようであった。

放っておけば言葉という糸で、主導権の全てが絡め取られてしまいそうだ。

僕は寛容に頷き、微笑んで見せる。


「わたくしども公爵家も、皆様と合い争うつもりはございません。その謝罪は受け入れましょう」


これ以上こちらが糾弾すれば、公爵家に反発する貴族たちは態度を強固にするだろうことが、分かりきっていたからだ。

僕が謝罪を受け入れると、フロレンスも同じように頷いてくれた。


「…ローゼリンドがそう言うなら、私も従おう」

「ありがとうございます。公女様方の慈悲深さに感謝申し上げます」


赤い唇でにっこりと微笑んで見せる伯爵婦人を見て、僕の心は怯えにも似た恐ろしさに、絞り尽くされていくようだった。


震えそうにな手が、思わずフロレンスに伸びて指を握る。

戦いに明け暮れているフロレンスの硬い指から、嘘のない体温が染み込んでくる。

僕はようやく落ち着きを取り戻すと、心配する眼差しを向けるフロレンスを見上げて笑い掛けてから、椅子から立ち上がった。


「少し場を乱してしまいましたから、わたくしは先に失礼いたしますわ」

「なら、私も退散するとしよう。噂話をするなら、お邪魔になるだろうからね」


フロレンスが周囲を見渡すと、令嬢たちは居心地の悪そうに目を反らした。

面と向かって何も言うことのできないのでは、端からフロレンスの相手にはならないだろう。


押し黙る周囲への興味を失ったフロレンスが、手を差し出す。

僕は手を重ねると、二人で一緒に中庭から邸宅へと向けて歩き出した。

その背中に、伯爵婦人の気遣わしげな声が優しく投げ掛けられた。


「お待ちください、でしたらせめてお見送りいたしますわ」

「それでは、アゼリア様にお願いできますか?」


僕がアゼリアに笑い掛けると、アゼリアのくすんだ色の青い瞳が驚きに見開かれる。


「承知いたしました。アゼリア、お供なさい」

「はい、お母様」


慌てて立ち上がったアゼリアの手の甲の傷が露わになる。

皮膚が捲れた赤い痕跡は、母親である伯爵婦人の目にも映ったはずだ。

しかし、気遣う言葉の一つもない。

アゼリア自身も当然のように伯爵婦人の態度を受け入れていた。

アゼリアの隣に目を向ければ、ヒルデは先程までの勢いを失って、萎れた花のように下を向いている。

時折、伯爵婦人の顔色を伺うように盗み見る姿は、どこか怯えが含まれていた。


歪な関係が、昼日中の陽射しの中でまざまざと浮かび上がって見えた。


「お待たせいたしました公女様方、お見送りいたします」

「よろしくお願いいたします。アゼリア様」


アゼリアは僕たちの前で膝を折って挨拶をすると、先導して歩き出す。

後について踵をわずかに浮かせた僕は、まるで今思い付いたように装って伯爵婦人の方を振り返った。


「そういえば、伯爵婦人にお尋ねしたいことがありますの」

「ベアトリーチェとお呼び下さい、緑の精霊の公女様」

「では…ベアトリーチェ様、あなたが身に付けられている香水はどちらで手に入れられた物ですか?」


伯爵婦人であるベアトリーチェの目が、ほんの一瞬だけ鋭く細められ警戒を滲ませる。

瞳に宿る冷淡な光沢は瞬きをすると、まるで幻のように消え去ってしまった。

後に残るのは、熟れた果実のように甘い眼差しだけだ。


「私の母国の王室で育てられている、特別な花の製油から作ったものでございます」

「わたくしでもその花は、手に入れられるかしら?」

「いいえ、こればかりは…嫁いだ時に持ってきた物を、私の温室で育てておりまして。お譲りもできませんの」


僕は得られた返事に、思わず溜息を漏らした。

周囲からすれば、それは落胆の吐息と取れただろう。

だが、僕にとっては怒りと興奮、そして恐れを逃がすためのものだった。


「そう、初めての匂いだったから気になっていたのですが…教えて下さって、ありがとうございます」

「いいえ、とんでもございませんわ」


にこやかに微笑むベアトリーチェの顔に、僕は笑って応えた。

表情を必死に隠すようにして、今度こそアゼリアの先導でフロレンスと一緒に歩き出す。

一歩一歩踏み出すごとに、僕の頭の中に渦巻いていた薄ぼんやりとしていた疑念が、形を得ていく。


───ベアトリーチェのあの匂い…あれは母上を殺した、あの蜜の香り。そして、ヘリオスの愛人のものだ。


二つの繋がりが、僕に恐ろしい考えを植え付けた。

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