第20話ヒルデ

剥き卵のような滑らかな白さの首筋に汗を滲ませるアゼリアの姿は、シュルツ伯爵によく似ている。

親子なんだな、と妙に納得させられると僕は思わず微笑みながら、アゼリアに話しかけた。


「ご機嫌よう。なんのお話をなさっていたの?」

「え、あっ…あの」


驚いたように唇をはくはくと動かすアゼリアは、上手く言葉を出せずにいた。

どうやら随分と緊張するたちのようだ。


───急に話かけて、悪いことをしてしまったな。


僕が取りなそうと唇を開いた瞬間、ヒルデの高慢な声が差し込まれる。


「申し訳ございません、ローゼリンド様!私の妹ったら汗っかきで緊張症なのよ。まったく、誰に似てこんな風にとろく生まれたのかしらね?」


ヒルデは、妹を馬鹿にするように真っ赤な唇をしならせる。

周囲に座るヒルデの取り巻きも、同調するように嘲笑するのだから、僕にとっては不愉快でしかなかった。

傍らのフロレンスからも、ちりちりと肌が焼けるような怒りに満ちた熱気が伝わってくる。


───昔のフロレンスなら、もう怒り狂っていただろうな。


紅の精霊の象徴するものは、守護と断罪だ。

未来に起こる罪さえも焼き払う力がある。

そんなおとぎ話のようなことが真しやかに囁かれるほど、紅の精霊の血筋は罪悪に対しての嫌悪感が強い。

僕たちが幼い頃、家格が下の子供を虐めていた貴族令息たちを叩きのめすフロレンスの姿が、今でも目に浮かぶようだった。


だが今は、フロレンスにも僕にも立場がある。

穏便に済ますために僕は縮こまってしまったアゼリアに視線を向けると、大丈夫だと語り掛けるように笑ってみせた。


「いいえ、わたくしが急に話しかけたせいで驚かせてしまったようです。ごめんなさい、お気になさらないで」

「はい…、あの…ありがとうございます。ローゼリンド公女様」


アゼリアの蚊の鳴くような細い返事をそっと包み込むように微笑み掛けると、ようやくアゼリアの強ばっていた肩から力が抜けていく。

空気が和らいだタイミングで、今度はフロレンスが場を取りなすように口を開いた。


「改めて、お喋りに混ぜて貰って良いかな?」

「そうですわね、なら…香水の話しでもいたしましょうか」


ヒルデの言葉に、僕は表情を強ばらせた。


香水の話題は、エスメラルダ公国においてはいつだって話題の中心だ。

常春のエスメラルダ公国では、香水の原料となる種子や草花の精油を、いつでも抽出することができる。

国の主要な輸出品の一つであると同時に、恋人への贈り物として、また家を象徴する香りとして、同じ香りをベースに工夫を凝らしながら代々身につけることもある。


自然、香水は貴族令嬢の話題の中心になりやすい。


だが、フロレンスに対してこの話を持ち出すのは暗黙の了解として、避けられていた。

フロレンスは紅の精霊の加護を受ける者として、戦に駆り出される。

貴族令嬢が身に付けるもの全てを、手放さなければならなかった。


香水もその一つだった。


ヒルデの赤い唇が、毒々しく撓る。


「フロレンス公女様はどんな香水をお使いになっていらっしゃるの?」

「っ…、…」


フロレンスの心に土足で踏み込むようなヒルデの言葉に、僕の胸の内から怒りが一気に沸き上がってくる。

ローゼリンドに成り代わっていることを忘れて、怒鳴り出しそうになっていた。

それでも、喉元まで出掛けた言葉を吐き出さずに耐えられたのは、フロレンスの穏やかな態度のお陰だった。


「私は香水は身に付けないのですよ。戦場においては邪魔になりこそすれ、不要ですからね」

「あら、公女様ともあろうお方が…戦うことしか考えていないなんて、恐ろしいわ。呼び名は戦火の魔女、炎の悪魔…でしたかしら?」

「…名誉なことです。それだけ私がこの公国の守護者として戦場で恐れられている証拠ですから」


───他国がつけた蔑称でフロレンスを呼ぶなんて、なんてことを…っ!


軋む心を圧し殺し、怒りを堪える。

ここで僕が怒鳴り散らせば、貴族同士の対立を生む可能性がある。

悪くすれば、感情を抑えることもできない公大子妃として、妹の能力を疑問視されるかもしれないのだ。

穏便に済ませようとするフロレンスの努力を、僕が無駄にするわけにはいかなかった。

ヒルデの唇がますます意地悪く捻り上がって、再び開かれようとした瞬間。

大きな声が響いた。


「っ…ローゼリンド様はどんな香水をお使いになっていらっしゃるんですか!!!」

「へ…?」


全員の視線がそちらに集まる。


「アザリア…っ」


ヒルデの苦々しい声が、誰の言葉だったか教えてくれた。

ぎゅっ、と握り込まれたアザリアの両手が、微かに震えているのが分かる。

フロレンスを助けようとなけなしの勇気を振り絞ってくれたアザリアの姿に、僕の心は柔らかく解きほぐされるようだった。

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