2001年5月4日 夜

 俊介が働いているガソリンスタンドは、短時間の勤労者がほとんどだった。8時間フルタイムで働く者もいるが、それ以外は5時間から6時間程度の勤務で終わる。

 俊介もその一人だ。表向きは折を見て就職活動するので、ということにしているが、実際は夜に走るのに都合が良かっただけだ。

 それに時折、走り屋の仲間が顔を出してくれるこの職場は、思ったよりも居心地が良かった。アルバイトということで、危険物取り扱いの試験を受ける必要もなかったのも気楽でいい。

 しかし、と額に浮いた汗を腕で拭い、制服の帽子を深くかぶり直しながら俊介は思った。

 結局のところ、自分は楽な場所に流れていっただけなのでは、と。

 相川打倒という目標を抱えてはいるものの、ヒロシのように身体一つで内地に働きに行くような行動力が欠けているのではないだろうか。

 今更、働いてお金を集めても、プロのレーサーにはなれない。その諦めが心の中に澱を生んでいる。だから何事にも積極的になろうという気が起きない。

 17歳になった頃、本気でレーサーになろうと思ったことがあった。そして調べているうちに変えようのない現実の壁にぶつかったのだ。

 函館にはカートチームがない。もしあったとしても、やっていけるだけの金もない。

 国内のカートレースに全て出るつもりならば、年間1000万という単位で資金が必要になるのだ。それがプロになりスポンサーが付くまで続く。もはや子供の趣味で済ませられる範囲の金額ではない。

 函館という地方都市の、しがないタクシー業の息子である自分には、どう足掻いてもとても叶うはずもない夢。

 そのことを知った時には、既に何もかもが手遅れだった。

 カートの経験もない、ただ公道で人よりちょっと早く走れる程度の人間が、サーキットで走れるほどプロは甘くない。

 一流のドライバーを育てるというのは、オリンピックの選手がそうであるように、幼い頃からの英才教育がものをいうのだ。そして俊介はその機会を逸している。

 夢に挑戦する機会はおろか、挑戦する権利自体が与えられなかったのだ。

 この現実が、俊介の心に陰を作った。

 もちろん何事にも例外はある。

 20歳を超えてからカートを始めたという佐藤琢磨は、瞬く間に頭角を出しており、そう遠くないうちに日本人としては七人目のF1ドライバーとなるだろう。そういった意味ではカートの経験自体というのは、才能よりも重要なものではないのかもしれない。

 だが佐藤琢磨は、自動車競技で数々の記録を持つほどのアスリートであり、元から体力的な面では問題なかった。加えて父親は弁護士であり、母親は舞台女優という比較的裕福な家庭に生まれている。だから佐藤琢磨は途中で大学を中退し、途中からカートを始めるということが出来たのだ。そもそも、日本人で二人目のF1レーサーになった鈴木亜久里ですら、父親が日本カート協会の実力者というコネがあったのだ。

 これが、俊介と同じ環境であると誰が言えるのか。

 恵まれた環境もなく、資金もない。

 苦渋の末に俊介が光を求めて見つけたのは、ドリフトキングと呼ばれる土屋圭市の存在だった。彼はカートの経験のないプロレーサーだ。

 ただ彼は峠を攻めた。ひたすら走った。公道で腕を磨き、アマチュアでも参加できるレースに参加、幾度も優勝してスポンサーを得て、そして最終的には世界三大レースと呼ばれるル・マン二24時間耐久レースに参加し、輝かしい栄誉を手に入れた。

 俊介はその生き様に希望を見た気がした。

 走り屋でも報われる事があるのだ、と。

 だから今でも俊介は走り続けている。走り続けていたのだが。

 それは自己満足でしかないのではないか。

 函館に帰ってきたヒロシは、青い車に乗りながらそんな疑問を俊介に叩きつけたのではないかと思える。

 ――俺はどうして走っているだろう?

 ガソリンスタンドにやってきた車にガソリンを入れつつ窓を吹き、灰皿の中身を捨てて、頭を下げて車を見送ってから、俊介は空を見上げた。

 空はまだ明るい。だが少しだけ西の空が紺色に染まっている。もう少しすれば日没なのだろう。

 視線をずらして、ガソリンスタンド内の事務所にある時計を見た。時間は17時を少し超えていた。

 左右に頭を巡らせ、客が来ないことを確認してから俊介は、同僚や上司に挨拶をして退勤した。ここの職場は残業代を出せないということで、定時での退社を進められている。同じようにシフトが終わった者たちも、事務所の中で制服を着替えてすみやかに帰路に着く。

 私服に着替え終わった俊介が、ガソリンスタンドの裏手に停めていたS15に乗り込むと、喜久子との約束を思い出した。

「迎えに行かなくちゃな」

 携帯電話を取り出し、画面を確認する。喜久子からはまだメールはなかったが、俊介の方から『あと30分ほどで着く』と書いて送信する。

 そして車を走りださせる。

 頭の中では、先ほどの疑問が渦を巻いていた。どうして自分は走っているのだろう、この答えが晴れない限りは、俊介は先に進めないような気がしていた。

 様々なことを考えつつ、だが運転は正確無比に函館方面に向かって車を走らせていく。

 国道227号線を函館方面に向かって下り、100号線にぶつかったら真っ直ぐ南下。

 午前中、時間を潰していたゲームセンターの辺りで、携帯にメール着信があった。

 相手は喜久子だった。

『ありがとう。こっちも丁度のタイミングで終わりそう。店の外で待ってるね』

 飾り気のない返答だったが、俊介の覚えている七崎とはそういうタイプだと改めて思い出した。必要以上のことをあまりベラベラと喋る性格ではなかった。

 少しだけ気分を良くして車を走らせる。

 メールをもらってからほぼ三十分後、S15は大きめのビデオ屋の前に辿り着いた。開いている駐車場を発見したので、そこに止めておく。

 キーは挿しっぱなしにしたままで、俊介はドアを開けて周囲を見渡した。

 喜久子がいた。来た時と同じように両腕でダンボールを抱えている。俊介が右手を上げて目線で呼びかけると、喜久子は小走りで近寄ってきた。

「また荷物多いな……」

「そう? 来た時よりも軽いくらい」

「後ろに載せておいてくれ」

「うん」

 喜久子は素直に後部座席に荷物を置くと、改めて助手席側に座り、シートベルトを締めた。

「お疲れ様」

「速見君もね」

「七崎、帰りは急いでいるか」

「ううん。特に。そのまま帰ってもいいって言われてるくらい」

「そうか。それじゃちょっと海岸線でも走ってもいいか」

「いいけど、怖いのは無しで」

 不安を帯びた声に俊介は苦笑いをした。どうやら走り屋はみんな暴走族のようなものだと思っているらしい。

「街の中じゃ普通に走るよ。一部例外はいるけどな」

 そう言って俊介はアクセルを踏んだ。戻るだけならば来た道を引き返せば良いが、海岸線に出るとなると、100号線を下りきって、278号線に合流しなければならない。

 道を下って行くとダイエーがあり、根先公園というラグビー場にもなる大きな公園もあった。それらを抜けて初めて、漁火通いさりびどおりとも呼ばれる278号線にたどり着くのだ。

 イカの漁業が盛んな函館では、津軽海峡に船を浮かべてイカを釣り上げる。大きいライトはイカを誘き寄せるためにあるのだが、海岸から見れば光の船が沢山浮かんでいるように見える。だから漁火通との名前がついたのだろう。

 俊介は普通に運転していたが、やがて喜久子が何も言わなくなったのが気になり、

「七崎、CDでもかけるか?」

「え、うん、いいよ」

 俊介は左手をダッシュボードに手を伸ばし、とりあえず再生ボタンを押した。

 数秒後、流れてきたメロディを聞いて、喜久子は口元を手で抑えた。笑いをこらえる肩が震えている。ギャップの違いに涙が出てきた喜久子は、笑いを噛み殺しながら、

「速見君、これって演歌だよね。最近流行ってる……」

「え? あ、ち、違う! これは俺の車じゃなくて借り物で」

 笑いを堪えている喜久子。車内に流れてきたのは、最近デビューして人気が急上昇している氷川きよしの『箱根八里の半次郎』だった。

 慌てて速見はスイッチを切った。

「安藤のやつ、どういう曲聞いているんだよ……」

 呆れ半分、速見は呟いた。

「走り屋って怖い人たちかと思ったら、演歌も聞くんだね」

「あいつは別格だ」

「面白い人が多いって先輩が言っていたけど、本当ね」

 俊介は苦い顔を浮かべた。七崎の中の走り屋の定義が、面白い人たちの集団になってしまっては困る。自分もその面白集団の一人と間違えられてはイメージダウンだ。

「あ、綺麗……」

 観光客向けのホテル街を抜け、津軽海峡を一望出来るようになってから、ウインドウ越しに窓を見ていた喜久子が声を上げた。

 俊介は速度を落とすと、視線を喜久子に向けて何を見ているのか尋ねた。

「空。それと海」

 完全に速度を落とし、路肩に車を止めると、俊介も同じよう水平線を見つめた。

 夕陽が落ち、空は既には星が見えていた。真っ白な水平線を挟んで、空の蒼と海の群青が混ざりあった鮮やかなブリリアントブルーが視界いっぱいに広がっている。

「この車と、同じ色……」

 喜久子の呟きが、静かに俊介の耳朶を打つ。

 ブリリアントブルー。S15を買うきっかけになった色。

 心の奥が疼いた。

 この色には心惹かれるものがあった。それは何故だろう。

 景色に心を奪われている喜久子の横顔を見ると、亡くなった母親の面影が見えるような気がした。

 ――違う。七崎は、オフクロじゃない。

 心では理解しようとするが、頭が想像することを止めない。

 母親と同じで、三つ編みを一本のおさげにしているところが似ていた。

 遠くを見て微笑む顔が、子供の頃に優しく自分に接していた頃に似ていた。

 忘れていた。忘れようとしていた。

 ブリリアントブルーを見た時の、あの感情を。

「速見君……?」

 心配そうに喜久子が顔を覗きこんでくる。

「具合が悪いならハンカチ使ってね」

 親切にも手渡してくる。

 それを握りしめながら、俊介は気力を振り絞って喜久子と、ブリリアントブルーの水平線から目を離した。別の何かを見ようとして反対側の車道を見る。

 普通のファミリーカーのステップワゴンが走っていた。

 運転席には男、助手席には女、後部座席には子供――おそらく親子連れだろう。

 子供はウインドウに両手をついて、喜久子のように水平線を見つめていた。

 その目は、輝いていた。

 俊介の脳裏に、色鮮やかに過去が蘇ってきた。完全に捨て去ったと思っていた、幼年期の記憶。


 ※


 父と母と一緒に出かけられるだけで俊介は嬉しかった。それが港祭りだというのだから尚更嬉しい。出店でどんなものを食べようか、どんな遊びをしようか、それだけを考えるだけで胸がいっぱいだった。

 父が運転する車はいつだって安全運転で、そして一緒に母もいれば何もなくても満ち足りていた。

「ほらご覧、シュンちゃん」

 いつもの三つ編みをしている母が、5歳だった時の俊介に語りかける。

「水平線、綺麗でしょう」

 母親に指を指されて、窓から外を眺めた。丁度、津軽海峡を一瞥出来る漁火通を走っていた車からは、陽が少し落ち、紺色に染まりつつある蒼い空と、深い青に染まった海が見えた。空と海の境界を縁取るように白い水平線以外は、ただ吸い込まれそうになる程に広い。そして空と海といえば青いクレヨンで塗っていた幼い俊介には、その蒼色が持つ深さをなんと表現すればいいか分からず、ただ首を縦に振るだけだった。

「うん!」

「そうだ、綺麗な色だろう。いつか俊介も、ああいう色の車も乗るようになる」

 その時、その言葉が幼い心に刻み込まれたのだ。

 ただ幸せな、時間と共に。

「本当! 僕乗る! あの綺麗な青色の車に乗る!」

「そうかそうか。じゃあお父さんもっとお仕事頑張るよ。俊介に車を買ってやらなくちゃな」

 俊介はウインドウに両手を当てて、いつまでもいつまでも名前も分からない深い色の空と海を見つめていた。


 ※


「速見君!」

 喜久子の声で俊介は意識が戻った。

 見れば喜久子は片手で俊介の手を握り、もう片方の手を目の前で振っていた。

「ああ、ごめんごめん。ちょっと目眩がしたんだ」

「本当、大丈夫なの? 無理させてごめんね」

「いや、いいんだ。七崎が悪いわけじゃない。ただちょっと昔のことを思い出したんだ」

「昔のこと?」

「さあ出発しよう」

 やや強引に俊介は出発した。それからは特に話もなかった。

 七崎から何か話しかけても、俊介は短く答えるだけ。

 沈黙の中、走り続けてドライブは終わり、喜久子の勤め場所であるビデオ屋の前で駐車した。

「今日はありがとう」

「いや、いいさ。今度はまともなCDかけるよ。好きな曲あれば言ってくれ」

「ドビュッシーは、ドライブには合わないよ」

「洋楽なのか?」

 七崎は首を左右に降って、

「クラシックだよ。ほら……ドライブ向きじゃないでしょ?」

「そうかもな、それじゃあ」

 喜久子が店内に戻っていくのを確認してから、車を発信させた。そして昭和町のゲームセンターの裏にある、一部の走り屋たちが警察からの逃げ場として使っている駐車場に停める。

「くそっ」

 喉の奥から絞るように俊介は唸った。固く拳を握り、膝に叩きつける。涙が出てきた。だがそれは痛みのせいではない。

「俺は……俺は……、昔に戻りたくて走ってたのかよ!」

 絶叫。

 S15に惚れたのはボディカラーが、ブリリアントブルーの車だったから。

 そして、その色は、かつて自分が幸せに満ちていた頃を象徴する色によく似ていたからだ。

 俊介は無意識のうちに、過去にすがってしまっていたのだ。

 この車で走っていれば、いつかまた家族と幸せな時間を取り戻せると信じて。

「違う! 俺は!」

 拳を振り上げて、コンパネに叩きつけようとする、が直前で借り物の車だということを思い出し、拳をほどいた。

 座席に全体重を預け、呆けたように呟く。

「じゃあ俺は――何のために走っているんだ?」

 滲んだ視界で両手を見る。未来に絶望して、過去にすがって走っていた自分は、どこへ向かうべきなのだろう。

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