2001年5月3日 朝

目が覚めて真っ先に気づいたのは部屋の外から響いてくるテレビの音だった。それが意味する事に気づいて俊介は顔をしかめる。

 ――まだ仕事に行ってなかったのか。

 心の中で毒づきながら布団から身を起こし、携帯電話のメールを確認する。ディスプレイには着信有りの表示

 昨夜帰ってからすぐに、安藤にメールをしたのだ。返事が来ているかどうか、少しでも早く知りたい。

 文面を目で追っていくうちに、俊介は自分の頬が緩くなっていくのに気付いた。

 安藤からの返事は二つ返事で快諾だった。

 どうして事故を起こしたのか全く聞かずに、無条件でこちらの要望を引き受けてくれたのが何より嬉しかった。

 俊介はすぐにでも出かけたい気分だったが、おそらく居間にいるであろう存在のことを思うと気が重い。

 携帯電話を握りしめたまま部屋の隅にある目覚まし時計に視線を走らせると、デジタル式のそれは13時と報せていた。

 ――仕事が休みなのか。

 ならば一日中家にいるだろう。趣味というものを一切持ち合わせてないあれは、休日の日は寝ながらテレビを見て過ごす。どうやっても顔を合わせなければならない。

 意を決して立ち上がると、ドアノブを回して部屋を出た。

 俊介の家はけして大きくはない。

 居間と台所を除けば部屋は二部屋しかない。函館のさして土地が高いわけでもない普通の土地に、平屋が建っているだけなのだ。

 まずトイレに行き、用を足した。それから居間へ向かう。

 洋式の部屋とは違い、和室のそこは間仕切りのガラス戸で遮っているだけで、テレビの光と音と、そしてその前で横になって寝ている人物をぼんやりと映している。

 ガラス戸を開けた。

 真っ先に見えるのは、仏壇だ。そこに今は亡き母親の笑顔が飾ってある。写真の前には香呂が置いてあり、火が付いて短くなった線香の匂いが鼻をくすぐる。

 俊介はまっすぐに仏壇の前に経つと、マッチで線香に火を付けて香呂に立て、両手を合わせて拝んだ。

 それから初めて、俊介はテレビを見ている男に声をかけた。

「今日、休みなんだな」

「ああ」

 これがこの男――速見敬司はやみけいじとの挨拶だ。普通の家族のように、おはよう、お休みと気軽に声を掛け合う関係は何年も前に崩壊した。そして、もう一度それを作り直そうとする努力も最初からしなかった。

 それがこの男だ。俊介はもう、父親とは思っていない。

「お前――」

 寝そべったまま、こちらの方を見向きもせずに言ってきた。

「あの傷はなんだ」

 車の事だろう、とすぐに察した。だが話す理由はない。無言で踵を返し、居間から出ようとする。

「まだバカな暴走族をしているのか」

「迷惑はかけてない」

「お前、今年で幾つになった」

 ――自分の息子が去年、成人式に行ったことも忘れているのか。

「いい加減、大人になれ。暴走族の真似をしても生活出来ん。いつまでも親のすねをかじるな」

 ――かじる甲斐性など最初から無かったくせに何を言う。

「金が貯まったら出て行くよ」

 言い捨てて居間から出た。部屋に戻り、着替えてから玄関へ向かう。

 ドアを開けると、外から暖かい風が舞い込んできた。

 函館はゴールデンウィークを迎えた頃に、ちょうど桜が満開になる。気温も上がり昼間ならば重ね着する必要はなくなる。札幌まで遊びに行った時に量販店で買った、無個性なジャケットを羽織ると丁度良いくらいだった。

 俊介は家の目の前にある駐車場に行き、愛車の前に立った。そして昨夜ついたばかりの傷跡を改めて見つめる。

 日の光の下で見ると、昨日は気付かなかった傷があるかもしれない。

 だが結果的に新しい傷は特に無く、ボディカラーであるブリリアントブルーの一部が剥げているのが気になった。S15を買った最大の理由は、FR車でドリフトに向いているということもあったが、何よりもこの色を気に入ったからだ。

 そのお気に入りの色が傷物になっている。

 見つめていると罪悪感が湧いてきた。自分がもう少し冷静であったなら、こんな傷は付けずに済んだのだ。

 早く直してもらおうと、車のキーを差し込みドアを開ける。

 車内に入り、シートベルト締めてから俊介は車を発進させた。

 俊介の自宅がある時任町ときとうちょうを出発すると、すぐに五稜郭タワーが見えてきた。

 桜の名所でもあるである五稜郭には花見の客が市内外構わず訪れ、桜の下にブルーシートを敷いて人が集い、ジンギスカンを食べ、酒を飲み、陽気に振る舞う。

 その時だけは誰もが、幸せでいられるのだろう。

 車を運転することもあってか、俊介は成人しても酒はほとんど飲まなかった。昔から酒を飲んでいたショウに勧められてビールやウィスキーを飲んでみたものの、美味いとは思えず、自分から進んで酒を飲むことはない。

 酒を飲むと幸せになるものだろうか。

 いや、なれないだろう、と俊介は思う。

 父親がそうだった。妻を亡くしてからしばらく、酒瓶を放せない生活を送っていた。その有り様は酷く、子育てすら満足に出来なくなり、俊介は父方の祖父母の家で中学の三年間を暮らすことになった程だ。

 俊介は申し訳がなかった。祖父母に迷惑をかけているような気がして、せめてお金だけもと思い、新聞配達を始めたのだ。

 幸運なことは、そこにショウがいたことだ。

 唯一無二の友と出会えたのは、間違いなく自分にとって幸せの一つだろう。

 ショウは顔が広かった。走り屋であった相川を教えてくれたのもショウだ。そして相川と出会った事で、自分も走り屋になったのだ。

 想い出に浸りながらS15は国道5号線に乗り、北上していく。

 目的の安藤の家は、函館市内でなく、北上したところにある七飯町ななえちょうにあるのだ。厳密に言えば函館市と隣接した町となる。

 大沼コースの途中にあるために気軽に立ち寄ることも出来、俊介のみならず大沼を攻める、相川やショウも度々顔を出す。

 安藤は俊介同様、S15に乗る男だった。大沼が近いということもあり、主にそこを走っていたが、ストイックに大沼に集中している俊介とは違い、安藤は面白そうだと思ったらなんでもやった。冬は滑る路面を利用して積極的に雪山でドリフトを楽しみ、夏場は釧路まで出張ってラリーレースなどにも参加していた。

 同じ車に乗っているという共感、そして当人の明るい性分なども加わり、俊介は安藤に対して信頼があった。

 雑誌社とのレース対決があると話が持ち上がった時も、リーダーである相川は俊介と安藤を選手として選んだ。だが実家の農作業があるという理由で、安藤はやむ無く辞退。以前から好敵手と思っていた彼が参加出来ないと聞き、俊介は肩を落とした。勝つにせよ負けるにせよ、あの賑やかな男がいないのは寂しい気がしたからだ。

 走りながらウインドウの外に視線を送ると、市街地から抜けて一面、鮮やかな緑色の畑が映えていた。2016年には新幹線が通るということで、周囲の開拓が始まっているという話だが、今のところは目につくような大きな建物はない。

 桔梗駅、次いで大中山駅を抜けると辺りは一面、大きな畑に民家が点在するようになる。

 安藤の家も、その農家の一つだった。

 実家を出てから30分ほどでたどり着いた。

 自分の家が猫の額のように思えるほど広く、大きな家だった。居間だけでも十二畳はあるのに、町の会合で主婦たちが集まっても問題なく使える台所のほか、部屋がさらに4つはある二階建ての家だ。

 車を止めるスペースが敷地内にあるので、勝手知ったる様子でゆっくりと車を入れる。

 ドアを開けて外に出てると、安藤家で飼っている秋田犬が尻尾を振ってきた。

 俊介は近づいて頭を撫でながら首を巡らせると、ネギを育てているビニールハウスと泥がついたままのトラクターが目に入った。丁度、仕事が一息ついたところらしい。

 改めて玄関の前へ立つと、呼び鈴を鳴らしてからドアを開けた。少しの間待つと、安藤の母親が出てきた

「こんちわ。安藤、居ますか?」

 母親は微笑み――血筋なのだろう笑顔が安藤に似ている――を浮かべながら、息子は裏にいると告げてきた。礼をして玄関を出てると、先ほどの犬の前を通り、畑の方に足を向ける。

 そこにはトラクターやら農具をしまう納屋が3つほど並んで立っていた。このうちの1つを、安藤は改造して車のガレージにしてしまったのだ。

 納屋の一つに俊介と同じブリリアントブルーの車が置いてあった。安藤のS15だ。

「よぅ安藤。来たぜ」

 俊介は目を細めながら納屋の中に瞳を凝らした。日差しが強いせいで中の見通しが悪いが、代わりに、

「おう、シュンか。ちょっと待ってけろ」

 という声が中から返ってきた。

 少しだけ待つと、オイルでところどころが汚れたつなぎ服を来た男が出てきた。暖かい日差しの下、農作業で日焼けした顔に、穏やかな笑みを浮かべている。

 軍手をはめてトルクレンチを片手に持ったまま、安藤は俊介を見て白い歯を見せた。

「お。よく来たな。待ってたぞ」

「悪いな、相川さんとこだと順番待ちになるんだ」

「いいって、いいって。気にすんな。……そんで、車はどこよ?」

「駐車場にある」

 二人は揃って駐車場の前に移動した。昨晩の相川と同様に膝をついて、傷のあたりを検分する。

「はは、やっちまったなシュン。こりゃおめェ、修理が必要だわな」

 言いながら助手席側のドアを開け、内側の様子も見ていく。次いで、フェンダーに出来た凹みも同じように見る。

 腰に手を当てて俊介は口を開いた。

「相川さんの見立てだと、フレームは歪んでないらしい。簡単な板金と塗装で直るって話だ」

「んー。そんなところだべ」

 同じ道南で育ったたとは思えないほど、安藤は訛りが強い。だがそれがかえって彼らしさになっていた。

 一通り見た安藤は、顎を撫でながら答える。

「ま。こんくらいならオレでも大丈夫だべ。へこみは叩き出しでなんとかなるべさ」

「……助かる」

 安堵のため息を吐きながら俊介。

「同じ車だからな。塗料もあるし直し方もバッチシよ。じゃあしばらく預かるから車の鍵をくれ」

「ああ」

 もちろんだ、と俊介は愛車のキーを安藤に手渡した。受け取った彼はまず自分のガレージに行くと、置いてあった自らのS15を発車させて、それから俊介のS15をガレージに入れる。

 一緒にガレージに入ると、見慣れているが何度見ても驚くような設備があった。ちょっとした修理工場のようである。

 安藤は実家の仕事を継ぐために農業高校に入った。

 農業高校とは知識だけを学ぶ場所ではない、実際に扱う機械の操作から修理まで一通り覚える部門もあるのだ。安藤はそこでトラクターの操作や直し方を学び、また溶接などの技術も親戚から教わって身につけた。そうして農業のかたわら、覚えたすべてを車のメンテナンスや修理に活かしているのだ。

 笑顔の裏には努力があり、その努力を惜しみなく車に注ぎ込む、生粋の車バカだった。

 そんなバカが嫌いになれるはずがない。

 お人好しで、なんとかなるべ、と人の車のメンテナンスも引き受ける。そんな安藤だからこそ、今回も俊介は頼ったのだ。

「あーそうそう。修理している間、乗る車必要だよな? オレのイチゴーでいいか?」

「……いいのか? それじゃ安藤が走れないだろう」

「大丈夫大丈夫。どうせゴールデンウィークの農家にそんな暇ないからな」

 北海道の農業は4月末から5月頭の頃に繁忙期を迎える。畑作専業農家の安藤も例外ではない。だがそれを踏まえた上で安藤は引き受けたのだ。

「ありがとう」

「事故ったら弁償してもらうけどな」

「二度は事故らないさ。馬鹿にすんなよ」

 お互いに笑いあった。


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