2001年5月2日 夜

 大沼国立公園。道南の観光名所の一つである。

 函館駅から出発し、函館と札幌を繋ぐ国道5号線を北上し途中、国道338号線で曲って道なりに進むと、約1時間程度で到着する。

 大沼と言っても、大きな沼がただあるわけではない。活火山である駒ケ岳を間近で仰ぎ見る事が出来る、大小様々な湖沼郡一帯を総称して『大沼』と呼んでいるのだ。

 この湖沼の周囲をウォーキングしたり、沼の上にボートを浮かべたりなどして、日中は観光客で大いに賑わう。そして夏場はキャンプ場になり、冬には凍った湖に穴を開けワカサギ釣り場にもなり雪祭りの会場になるのだ。また、蒸気機関車が未だに走っている事でも有名であり、鉄道マニアが写真を撮りに来ることも少なくない。

 昼間はこのような事情で人気が絶えないが、夜になると雰囲気は一変する。

 街から離れた辺鄙な土地に人工的な光はなく、星の光と道路にある街灯だけが唯一の光源となり、見るものにどこか不気味な印象を与える。生き物が本来持っている、暗闇に対する恐怖を喚起させるのだ。

 湖沼の側には雑草や樹木が生い茂り、水分と草いきれの混じった臭いが鼻腔を満たし、風で木から落ちた葉が、水面に波紋を起こし静かに耳朶を打つ。

 市内からわずか1時間足らずで到着出来る、自然の宝庫だ。

 俊介らの乗った蒼い車はハイビームライトで路上の闇を切り裂きつつ、大沼公園駅前を走り抜けて、さらに先にある橋を渡ったところにある白鳥駅公園前でエンジンを止めた。

 シートベルトを外し、ドアを開けて俊介は車外に出る。隣にいたショウもそれに習う。

 後部座席に座っていた堀井は、不思議な顔をしながら外に出てきた。

「ここがそうなの?」

「ああ。見えづらいかもしれないが、同じような車が何台も停まっている」

 ほらあそこ、と俊介は指を指した。

 堀井は眼鏡の奥にある瞳を細めて見ると、なるほど確かに赤い車が停まっているように見える。闇に紛れて見えづらいが、他にも銀色の車や白い車もあるようだ。それが何かを待つようにエンジンを止めて静かに整列している。

「んー? なんでみんな停めてるの?」

「たぶん今、一般車が来ているかどうか確認しに行っているんだと思う。走り出すのは確認が終わってからだな」

「安全第一なんだね。……ところで、相川さんっていう人は来てるの?」

「いる。あの銀色の車だ」

 俊介が指さすと丁度ドアが開き、人影らしいものが車から降りてきた。ひょろりとした体格だがしっかりとした足取りでこちらに向かってくる。

 近寄ってきたことで、顔つきがだんだんと見えてきた。中肉中背で、人当たりの良さそうな柔和な笑みを浮かべている。

「やあシュン、それにショウ。それに――見ない顔ってことは、彼が話していた例の?」

 視線で問われて、堀井はどうもと会釈をした。

「いやぁ嬉しいな。走り屋うちらのことに興味持ってくれるなんてね。大学の学祭に使う映画にしたいんだって?」

「はい、今のところ頑張ってるのは僕一人ですけど、周囲を説得してみせますよ」

「とりあえず今日のところは、みんな軽く流す感じだから、そんなに緊張しなくてもいいよ。そろそろ……」

 相川の話を遮るように、遠くからエンジンの音が聞こえてきた。ちらりとライトが木々の合間を縫うように空を照らし、音は段々と近づいてくる。

 俊介は耳を澄まし、その車種とドライバーを言い当てた。

「あれは多分、照井さんのシビックか」

「正解~。それじゃみんな準備しようか。堀井君だったね。細かい話はまずは大沼半周コースに行ってからにしよう」

「はい」

 相川が手を叩いて合図すると、周囲に停まってあった車たちが一斉にエンジンをかけ、アイドリング音と共にライトで周囲を照らし出した。堀井はまぶしさの余り目を伏せってしまったが、その光景は狩りをするために猟犬たちが唸り声を上げているように見えた。

「堀井、乗れ」

 俊介が短く告げる。

「ごめん、すぐ乗るよ。ショウはどうするんだい?」

「俺は相川さんところに乗るよ」

 そう言ってショウは相川の銀色の車の方へ向かっていった。堀井が助手席のドアを開けて席に座る頃には、俊介はシートベルトを締めているところだった。

「四点式シートベルトって言うだっけ? それ」

 俊介のシートベルトは、肩からかける一般的なものではなかった。両肩と腰の左右からベルトが伸び、腹部で固定するタイプだった。

「ああ、ついでに言うと、座っているのはバケットシートってやつだ。普通のシートから交換してある」

「勉強になるなぁ」

 堀井は呟きつつ、眩しさに目が慣れてきたのでウインドウ越しに周囲の様子を見やる。

 車は見える範囲で7台あった。俊介と相川、それに見回りに出た者を含めれば最低でも8人の走り屋がこの場に揃っていることになる。これが多い人数なのか少ない人数なのはわからないが、周囲から聞こえてくるエンジン音が鼓動と同調して気分が高まってくるのを感じた。

「相川さんが出たら俺たちも出る」

 前方から眩しい光が見えた。偵察隊の車が戻ってきたらしい。それは一直線にこちらへ走ってくると、何度かヘッドライトを点滅させた。パッシングライト。ゴーサインだ。

 周囲のエンジン音がよりいっそう高まった。どの車も走り出すためにアクセルを軽く踏んでエンジンを温めて車体を揺らす。いつでも走れるように準備が整った証拠だ。

 マフラーから排気音と共に何かが弾ける音がした。それが未燃焼ガスがマフラーから溢れ外気に触れた瞬間に起きるアフターファイアーという現象ということを堀井は知らないが、胸の高鳴りは最高潮に達してきた。

 ――これだ! これだ! 僕の探してきたものはこれだ!

 内心で歓喜の声を上げる。走り屋という生き物は、きっとこの瞬間が一番好きに違いない。隣で冷静そうな顔をしている俊介だって、今ももう走り出したくてたまらないはずだろう。

 安全確認した車はこちらを通り抜けて後ろへ抜けて言った。同時、相川の乗る銀色のがゆっくりと頭を車道へ移動させ、マフラーから爆音を立てて急発進して行った。

「さすが相川さんのFCだな」

 俊介は見事なスタートダッシュを見せた相川を賞賛した。同時に、負けられない、という強い意識が心の中に芽生える。

 ハンドルを回し、路肩に停めていたS15の先頭を車道へ向ける。車全体が車道へ乗った時点でアクセルを踏んでいた右足にさらを踏み込み、左足でクラッチを踏みつつ左手でシフトレバーを1速から2速へ。エンジンの回転数を目と身体で確認しながら淀みない動きでさらに3速へと引き上げる。

 心地よい加速度が全身に押し掛かってくる。

 ひぃっと隣で悲鳴が聞こえたような気がしたが、気にせずに四速まで上げた。

 わずか20秒足らずの加速で最初のコーナーが見えてきた。だがここは四速でも曲がりきれる緩いコーナーだ。

「ここは大沼の半周コースと俺たちは呼んでいる」

「え? へ?」

「片道大体5.6キロの道で往復すると11キロちょいのコースだ」

「峠と違って起伏がないから、あまり厳しくない。今度連れて行くけど、函館山や城岱しろたけに比べたら初心者向けだ」

 喋りながらも俊介の運転には全く乱れがない。

「走り易いと言っても、簡単なわけじゃない。走りのイロハを覚えるのに必要な難しさが――初心者が超えるべき難しさがある。だから函館で速さの基準を決めるのは、函館山でも城岱もなく、ここなんだだ」

「……そうなのかい」

「それに安全を確認し易いし、人に迷惑がかからない。それに、こんなところまで警察ポリもこない」

 堀井の首が急にがくっと曲がった。Rの厳しいコーナーに突入したのだ。

「言い忘れていたけど、ここのCの字カーブは首に気をつけた方がいい」

「早く言ってよそれ!」

「ちなみに本気で走っている場合は、ここで120キロぐらいは出す。今は70キロぐらいだな」

 そう言いつつも、コースは緩やかな曲線のものに変わっていった。目をこらすと遙か先に光が見える。おそらくは先行した相川のテールライトだろう。

 追いかけてやろうか――と少しだけ考えて、俊介は苦笑いで否定した。素人を隣に乗っけているのに、ここで本気を出すわけにはいかない。コースの説明や車の解説しながら走ってやろう、そう決めた。


 ※


 俊介なりに気を遣いながらで走って、およそ10分後。

 彼の乗るS15は大沼コースの中間地点で折り返し、スタート地点から遙か後方にある大沼公園駅までやってきた。

 スタート地点にはUターン出来る場所が無いので、そこを走り抜けて大沼公園駅でUターンするのが定番となっている。駅なので自動販売機もおいてあり、一息つくのに向いている場所だった。

 窓を開けて外気を取り入れながら、俊介は隣にいる堀井に視線を送った。

「これがまあ、俺たちの普通のコース。函館山は道が狭いし視界が悪いからあんまりいかない」

 堀井は俯いたままだった。乗り物に強いと豪語していたが、さすがに今回は堪えたらしい。

「それであの、モーターライフの試合で使われるのもここだな。さすがに当日にはきちんと交通整備して、もう少し深夜にやるらしい」

「ちょいと待って」

 息も絶えだえになった堀井が何かを言ってきた。

「今、メモをまとめているから……」

「メモ?」

 覗き込むと堀井は小さなメモ帳になにやら一生懸命書き込んでいた。おそらくは走っている最中に話したことだろう。具合が悪くなったと思っていたが、あの走りの最中にメモを取っていたなら本当に乗り物に強い体質なんだ、と呆れるように感心した。

 その時、聞き慣れないエンジン音が近くを通り過ぎていった。知っている車種のものではない。俊介はおそらく他のところで走っているやつが、たまたま大沼まで遠征に来たのだろう、と自分を納得させた。

「そろそろコースに戻るか」

「ん。いいよ」

 先程聞こえたエンジンは何の車種だろう、とハンドルを握りながら俊介は思った。独特の吸気音からターボ車だろうとは予測している。

 駐車場で車を旋回させ、アクセルを踏む。加速を緩やかに感じるほどの速度で、スタート地点へと向かう。

 ほぼ一直線の道程で、俊介の視界にまばゆい光が見えた。同時に妙な違和感を覚えた。残っているすべての車がライトを付けない限り、あんなに眩しくは見えないはずだ。

 段々と近づくにつれ、違和感は確信へと変わっていった。

 何か起きているのだ。走り屋たちが騒ぎ出すほどの何かが。おそらくは先ほど聞こえたエンジン音の主が原因だろう。

 スタート地点へとたどり着いた時、周囲の車に囲まれライトアップされた光の中に青い車を見つけた。

 S15のブリリアントブルーとは違う、晴天を思わせるスカイブルーの車。

 俊介には一目で解り、思わず息を呑んだ。

 ――ランサーだ。

 ランサーエボリューション。国産でも屈指の高性能を誇り、国際のラリー競技でも使用されるほどの名車。

 だが俊介が息を呑んだ理由は別にある。

 大沼でもランサーエボリューションに乗っている者はいる。だがそれは同じランサーでも、ランサーエボリューションⅢだ。

 しかしこの車は、真っ青なこの車は、

「ランエボⅦなのか……」

 思わず呟いた。

 2001年3月に発売されたばかりの最新の車だ。

 まさかそんな新車が大沼にあるなんて。

 周囲の走り屋たちも同じ心境だったのだろう。思わず周囲を取り囲み、ライトで照らし詳細をよく見ようとしていたのだ。

 一人事情が判らないのは、車に詳しくない堀井一人だった。補助席で、

「なんだいありゃ? 空色の車だね」

 などとを言っている。

 俊介はシートベルトを外すと、ドアを開けて車外へ出た。コンクリートの路面を蹴り、小走りに歩み寄る。

 ライトが眩しすぎるあまり、ドライバーの顔はよく見えない。だが、ここへ来たのなら一言くらい挨拶はあるべきだろう。

 気配に気付いて隣を見れば、同じように相川とショウも近寄ってきていた。興奮したように息を弾ませながら、誰が乗っているのかを確かめようとしている。

 相川が右手を上げて周囲に合図すると、周囲を取り囲んでいた車のエンジンが止まり、同時にライトも消えて闇に包まれる。ただ、スタート地点としての目印となる街頭の光だけが唯一の光源となった。

「もしもし、いいかい? 新顔かな?」

 静まった空気の中、相川が口を開いた。

 すると青い車のドアが開き、ジーンズを履いた脚が車から伸びて、ドライバーが身を乗り出してきた。

 俊介は、二度目の息を呑んだ。

 知っている顔だった。

 細身の体に浅黒い肌。かつて幼さを残して顔は頬骨が少しだけ浮き上がり、精悍な顔つきになったように見える。ジーンズにTシャツというラフな格好のドライバーは、照れたように笑顔を浮かべ頭を掻いていた。

「ヒロシじゃねえか!」

 ショウが親しみを込めた声で歓声を上げた。笑顔を見せながら、ヒロシと呼ばれた男の肩を叩く。

「いつ函館に戻ってきたんだよ! 内地ないちで仕事してたんじゃないのか」

「帰ってきたばかりッスよ」

 ヒロシは恥ずかしそうに俯き、それでも口元に笑みを浮かべながら答えた。

「2年間の契約期間が終わったんで、新車と一緒に帰って来たッス」

「君がまさかエボⅦのドライバーとは驚いたよ!」

 相川も話の輪に混じり、談笑を交わす。

「いや大変でしたよ。内地の仕事。おかげで新車のコイツを買うことが出来ました」

 北海道に住む人は、本州をさして内地と呼ぶ。就職難により地元で仕事を見つけられなかったヒロシは、内地に出稼ぎに出た大勢の若者の一人だ。

「そうかあ。よく頑張った。トンネル掘ってたんだっけ?」

「掘る事もありましたけど、保全とかもしてたッス」

 言いながらヒロシは優しい手つきで愛車のボンネットを撫でた。多くの走り屋は自分の車に愛着を持つものだが、特に苦しい仕事をして手に入れた新車だけに、その思いはひとしおなのだろう。

 俊介もゆっくりと車を眺めた後、ヒロシの前に立った。

「ヒロシ。すごい車買ったな」

「はい!」

 俊介は口が達者な方ではない。だがそれは無口というより、伝えたいことがあり過ぎて、結果的に最小限の言葉しか出てこないのだ。それはここにいる誰もが知っていた。

 その俊介が車を褒めたのだ。ヒロシは数年ぶりの再会にも拘らず、俊介の人間性が変わっていない事に胸が熱くなった。

「シュンさんもお久しぶりッス!」

 二人は握手を交わした。お互いにこれだけで心が伝わったような気がする。走り屋というアンダーグランドな世界に生きる者同士、これで十分だった。

 笑顔のままでヒロシが尋ねてくるまでは。

「で、シュンさんの方は調子どうッスか? ついに相川さんを超えました?」

「……」

 痛い質問だった。

 2年前、ヒロシが旅立つ時にこう言っていた。

 ――俺はすっげぇ車買って帰ってきますから、シュンさんも相川さん超えてくださいよ。そうしたら函館最速目指して戦いましょう、と。

 俊介の顔が苦渋に歪んだ。返す言葉が、見つからない。

 ヒロシが旅立ったあと、自分は相川の打倒を目指していた。だが、それは未だに達成されていない。2年間、ただの一度も勝てなかった。大沼で走っても。函館山でも。城岱でも。

 口の中に苦い味が広がるのを自覚しつつ、俊介は答えた。

「いや、まだだ。函館最速はまだ相川さんだよ」

「そう……ッスか」

 目に見えてヒロシの調子は下がった。笑顔が消えて、声も明るさをなくしている。

「じゃあこの2年間、シュンさん何やってたんスカ」

「毎日にのように走っている」

「そうじゃなくて、毎日走ってる以外に何かしてました?」

「アルバイトだよ。ガソリンスタンドの」

「まだバイトやってたッスか? あの頃のシュンさんはもうちょっと野心があったというか、函館から出て未知のところで走ろうって言ってたじゃないッスか!?」

「まぁまぁまぁ」

 柔和な声で相川がすっと間に入り込んできた。笑顔を浮かべたままで、

「帰ってきてすぐけんか腰は良くないよ。俊介には俊介の事情があったんだからさ。ほら、軽く半周コース流してみんなにエボⅦの凄さを見せてくれよ」

「イイッスけど……」

 そこでヒロシは口籠もった。だが目だけを動かし、俊介を視界に捉える。

「一人で走っても性能の違いが分からないから、一緒に走る相手が欲しいッス。――シュンさん、相手して貰えませんかね?」

 俺か――?

 俊介は戸惑いを覚えた。エボⅦの性能を間近で見られるのは嬉しい。だが、今のヒロシは様子がおかしい。自分にだけ攻撃的にも思える。

「大沼は二人並んでレースをやる道じゃないだろう?」

「でも今月7日の、モーターライフのアレには出るんスよね?」

 俊介の言葉をヒロシはあっさりと返した。

「実は俺、エボⅦ乗ってるおかげで、モーターライフの人から声かけられてるんスよ」

「……本当か」

「マジッス。エボⅦの性能を見たいライターさんから、レースに出てくれって頼まれてます。まあ特別枠なんで勝っても負けても特にないですけど」

 特別枠だが、モーターライフの人に声をかけられている。その事実を聞いて俊介の眉根が上がった。かつて自分の事を慕い、付いてきたヒロシが今や、自分の目指したい場所にいる。どうやらヒロシは車を買うだけではなく、新しい人脈も一緒に手に入れたようだ。

 函館から一歩も出なかった、自分には決して手に入らないものを。

「ヒロシそれ本当か? すごいじゃないか!」

 相川の歓声も遠く聞こえる。この2年の間、ヒロシはどこまで進歩したんだろう。車の事だけではない、人間として成長もだ。

 先を越されたという根拠のない焦燥感を感じ、俊介は下唇をかんだ。両の拳は固く握りしめられ震えている。

「本当にたまたまだったんスよ。エボⅦを買ったら、ライターの人に声をかけられて、地元が函館って伝えたら、今度そこでレースやるから出てくれって。話を聞けば相川さんとこのチームじゃないッスか。そりゃあ引き受けますよ」

 そこで一度ヒロシは深く呼吸をし、わざと視線を俊介から外しながら続けた。

「みんなが、2年前に比べてどんだけ早くなってるのか、すげぇ楽しみだったんス。……だけど、俺の思い込みみたいでしたね。昔のまんま相川さんが最速って事で変わってない。ガッカリしました」

 その一言が、俊介の脳に突き刺さった。

 俊介は顔を上げ、鋭い眼でヒロシを睨み付けた。腕の震えは止まった。代わりに心の底から熱いものが滾ってくる。走り屋としての闘争心が牙を剥く。

「いいぞ。ヒロシ」

 正面から睨み付けながら告げる。

「相手になる。ちょっと待ってろ」

 言うやいなや、俊介は自分のシルビアS15に戻ると乱暴に助手席のドアを開け、中から様子を見ていた堀井に降りろと告げた。

「え? 何? 何かするの?」

「一人乗ってるとその分遅くなる」

 答えになっていないような返事をし、彼の手を無理矢理引いて外へ引き出す。

 あっけにとられる堀井をよそに、俊介はバケットシートに座ると左右から伸びているシードベルトを伸ばし、腹部で装着した。

 アクセルを踏むと、狩りを待ち望む肉食獣のようにどう猛な唸りがマフラーから吹き出てくる。

 ハンドルを握り、視界を左――エボⅦの方へ差し向ける。

 ヒロシも車に乗り込んだところだった。ウインドウ越しに目が合う。俊介は顎でスタート地点に行くように指し示すと、自らも車を動かしスタートラインに向かった。

「ちょ、ちょっと! 来週を控えてるんだから、レースは勘弁してくれよ!」

 悲鳴のような相川の声。だがすでに車に乗った二人にはそれは聞こえない。

 青い空を映したようなボディーカラーのランエボⅦと、蒼色をした車が、白鳥駅公園前のスタート地点にたどり着く。

 周囲で見ていたギャラリーたちも、にわかに活気づいた。

 引くに引けないと悟った相川は、両車の間に立ち両腕を上げた。

「レース前だからな、お前たち本気で走るなよ! 事故だけは絶対に起こさないように!」

 返事の代わりに返ってきたのは、モーターが唸る音と、マフラーからの爆音。それでも声が聞こえている信じ、相川は言葉を続けた。

「両腕を下ろしたらスタートだ。いいか、絶対に無茶な追い越しはするな!」

 フロントガラス越しに、俊介も、ヒロシも、相川を見つめていた。お互いにアクセルを踏み、エンジンの回転数を上げてスタートダッシュが出来るように準備しながら、その両腕が振り下ろされるのを待っているのだ。

「レディー……」

 相川が声を張り上げると、ギャラリーのざわめきが止まった。その脇にいる堀井は熱心にメモにペンを走らせている。

 嵐の前の静寂。風が止み、周囲に生い茂っている樹木すらその時を待ち望んでいるかのように動きを止めた。ただS15とエボⅦの爆音だけが夜の静寂を打ち破っている。

 緊迫感に包まれたまま、相川は両腕を勢い良く振り下ろした。

「ゴーーッ!!」

 同時、俊介の左腕はシフトレバーを操作、ギアを一速に入れて左足でクラッチを切り、右足でアクセルを踏み込んでスタートダッシュを決める。タイヤから白煙を立てながら、S15は獲物を狙う肉食獣を思わせる獰猛さで走りだした。

 アクセルをそのまま踏み続けエンジンの回転数を上げると、即座に2速にシフトアップ。エンジンからの唸り声が大きくなり車内が震えた。俊介の身体にビリビリとした衝撃が走り、スピードはますます上がっていく。悪くない出だしだ。

 だが視線を横に送ると、ヒロシの乗るエボⅦの方が僅かだが先んじていた。エボⅦは大型化に伴い重量が増し、運動性が落ちたなどと雑誌には書いてあったが、まるで当てにならない。

 心の中で舌を打ち、俊介の視線は先を見つめた。最初の大きなカーブ前に4速までシフトを上げて、出来るだけ追いつかねばならない。

 スタートしてわずか10秒にも満たない最初の攻防は、最新鋭の車であるエボⅦに旗が上がったようだ。

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