第3話「告げる」

 目を覚ますと、知らない天蓋が見えた。

 小さな女の子が憧れるような、レースそのものの天蓋だ。

 どうやら寝台に寝かされていたらしく、シルディアは温かな布団に包まれてる。

 着替えた覚えも、寝室に案内された覚えもない。


(あれ? わたし、謁見の間で……?)


 まどろんでいた意識が一気に覚醒する。

 起き上がろうと横を向き――浅い呼吸を繰り返す美しい男がそこにいることに、初めて気が付いた。


 十人いれば十人が振り返り見惚れてしまうほどの濃艶を醸し出している男が今、シルディアと同じ寝台で横になっている。

 真っ黒な絹のような髪。薄い唇。頬の輪郭まで流麗な彼は、ガルズアース皇国の皇王である。

 十分な睡眠を取れていないのか、形のいいはずの目元には酷いクマができていた。

 深く刻まれたそれは、彼の苦労を物語っているようで少し胸が痛む。


「痛っ、ぅ」


 痛々しいそれに手を伸ばそうとして、首元が痛んだ。

 心当たりは一つ。


(わたし、皇王コイツに噛まれて……)

「おはよう。俺の白百合」


 痛みに呻いた声を聞かれたのだろう。

 今まで寝ていたとは思えないほどすっと目覚めたオデルのとろけるような笑顔を向けられた。

 目の前にいる男がシルディアを噛んだ張本人だとは誰も信じないだろう。

 なぜなら彼からは敵意が一切感じられないからだ。むしろ、溢れんばかりの恋情が表情に現れているといえるだろう。


「白百合……?」

「君が名前を教えてくれないからだろう?」

「だから、わたくしはフロージェだと言っているではありませんか!」


 勢いよく起き上がる。

 どくどくと嫌な音を立てる心臓を無視して、取り繕う。

 妖精姫の名を傷つけないよう細心の注意を払って、シルディアは優雅に微笑んだ。


(やっぱり、私とフロージェの入れ替わりに気が付いているのね。でも、私だって正体がバレるわけにはいかない)

「困ったな。うーん、そうだ。嘘をつく口は縫い付けてしまおうか。それとも喉を潰す? そうすれば、君のその鈴の音のような美しい声は永遠に俺のものだからね」

「そんな……お戯れを」

「君はそればかりだねぇ。本当に戯れか、試してみる?」


 起き上がったオデルがシルディアの喉に手をかける。

 力を込められてしまえば、簡単にシルディアの命は潰えるだろう。

 生殺与奪の権を握られている感覚。

 悲鳴が出なかったと褒めたいほど、張り詰めた空気に包まれている。

 しかし、シルディアはせめてもの矜持に笑顔を絶やすことはしなかった。

 そんな内情を探るようにルビーのような瞳がシルディアを捕らえて離さない。

 ほんの少し、首を掴む手に力を込められる。


「っ」


 ピクリとシルディアの眉が動いたのを見逃さなかったのだろう。オデルは満足そうに口角を上げた。


「誰が優位に立っているのか、理解はできた? 君を殺すのはとても容易いんだ。自分の立場をよぉく考え直して?」

「……はい。皇王陛下」

「だめだめ。俺達はもう夫婦なんだ。名前で呼んで」

「オデル様……?」

「様はいらない」

「お、オデル」

「よくできました」


 首を握られている状況で拒否できるほど、シルディアの知るフロージェは強くない。

 フロージェは心優しい普通の女の子だ。皇王に手を上げたりするような野蛮な行動はしないだろう。

 そのためシルディアが影武者である以上、彼女がしない行動は慎まなければならないのだ。


(我慢するのよ。わたしは今、品行方正なフロージェなの。今すぐ掴み返してやりたいけど、やってはいけないわ)


 反撃できないと高を括っているであろうオデルは、いまだ手を離す素振りがない。

 それどころかシルディアを品定めするかのように眺めている。

 なぜだかそれがシルディアの癪に障った。


「オデル。そろそろこの手を離していただけませんか?」

「やはりいいな」

(我慢よ。我慢)


 にこにこと笑うオデルは、清々しいほどにシルディアの話を聞いていない。


「聞いていらっしゃいますか? オデル?」

「君の可愛らしい唇から紡がれる言葉はずっと聞いていたくなるな」

(いや、話通じてないんだけど。これが皇王? それこそ嘘でしょって、いけない。つい口に出そうに……我慢よ、シルディア。今わたしはフロージェなの。あの子はこんな文句言わない)


 一文字一文字丁寧に発音し、シルディアはオデルに問いかける。


「あの、言葉は通じていますでしょうか? オデルの言葉は理解できるのですが、会話になっていないと言いますか……」

「困惑する顔もまた可愛いね。俺の白百合はどんな顔も可愛いんだろうな」

(――あぁもう)


 いくら声をかけても噛み合わない会話に、シルディアはとうとう我慢の限界を迎えてしまった。

 衝動的に自身の首に添えられている手を掴み返す。

 驚きに目を見開き、やっとシルディアを映したその赤い瞳を睨んだ。


「少しは人の話を聞け!!」


 勢いよく押し倒し、オデルの両腕を押さえつける。

 流れる白い髪が寝台に散らばるが気にしない。

 呆気に取られているオデルに気をよくしたシルディアは淑女らしさの欠片もない笑みを浮かべた。


「やっとわたしを見た。白百合、白百合って言うなら、少しはこっちにも気を配ってほしいものね?」

「き、みは……」

「わたし? わたしは……妖精姫フロージェ、です……」


 名乗ろうとして我に返ったシルディアはさぁーと全身の血の気が引いていくのを感じた。

 視線を彷徨わせながら内心やらかしたと暴れまわる。


(や、やっちゃった……。だ、だって全然、わたしのこと見ないから……って言い訳じゃなくて、どうすれば……)


 背中に伝う冷や汗と、自身がオデルを組み敷いている状況に頭がくらくらとしてしまい、思考が回らない。

 今にも泣きだしそうなシルディアは気が付いていなかった。彼女の下でオデルが肩を揺らしていることに。


「ぷっ」

「へ?」

「あははは!! 今の、完全に名前を口に出す場面だったでしょ!? それなのに、あはははっ!! 腹痛ぇ!」

「ちょっ、そんなに笑うことないじゃない!」

「気の強い君も大歓迎だけど……この体勢はいささか男の沽券に関わると思わないかい?」

「? きゃっ!」


 会話が成立するという当たり前のことに感動していれば、瞬く間に押し倒された。

 シルディアは全体重をかけて両手首を押さえつけていたというのに、いとも簡単に拘束から逃れられてしまった。

 垂れ下がっていた白髪が、今度はシーツに散らばった。

 オデルは妖艶な微笑みを浮かべ、シルディアを見下ろしている。


「形勢逆転だね?」


 その言葉に答えるようシルディアは強気に笑う。


「それで? ここからどうするつもり? 確かにわたしは嫁いできたけれど、まだ正式に婚姻を結んだわけじゃない」

「どうかな?」

「皇国で一番重要視されるのは、地位でも、血筋でもない。婚姻を結ぶ相手が【つがい】かどうか。そうでしょう?」

「君は勉強熱心なんだね。皇国のつがいに関してはなかなか信じがたいところもあっただろうに」


 優しく頭を撫でられてしまい、シルディアの顔に熱が宿る。


(誰かに褒められたの、初めてだわ)


 シルディアは、フロージェになるためどんな教養でも貪欲に学んできた。

 それはできて当たり前のことで、称賛されるほどのものではない。事実、フロージェよりもシルディアを贔屓していた王妃にも、もっと努力をしなさいと口酸っぱく言われていた。

 そのため十八年生きてきた中で、褒められたことは一度もない。


(あら、でも一度だけ……)

「誰のこと考えているのかな?」


 気が付けば、シルディアはあと少しで唇が触れる距離にオデルの顔があった。


「っ!?」

「ねぇ。今純潔を奪われるのと、名前を教えるの、どっちがいい?」

「え? ……え?」

「あれ。聞こえなかった?」

「い、いや、聞こえてるけど……」


 妖美な笑みを浮かべるオデルと目が合い、シルディアは背筋が凍った。

 顔は笑っているのに目は笑っていない。


(この目は本気だ。この人は、絶対やる)

「選ばせてあげてるんだから、早く決めてね? 俺はどちらでも構わないから」


 そう言うとオデルは、噛み跡の付いた首元に唇を寄せた。

 何をするのかと身構えていれば、ぬるりと生温かい何かが噛み跡をなぞるように這う。

 それが彼の舌だと気が付き、咄嗟に自身の名を口にする。


「シルディア。わたしの名前は、シルディア・アルムヘイヤ。フロージェの双子の姉」


 このままでは本当に純潔散らされてしまう焦りから、思わず口から出てしまった。


「シルディア。そうか、シルディアか。いい名だ」


 オデルは起き上がり、口の中で何度もシルディアの名を繰り返す。

 その様子に安堵したからか、シルディアの目が潤んだ。

 シルディアが気が付くよりも先に、彼女の涙に気が付いたオデルは恍惚に顔を歪めた。


「まいったな。泣かせるつもりはなかったんだが、その顔もそそる」

「ひゃっ!?」


 舌で涙を舐め取られ、シルディアの口から変な声が漏れる。

 赤色の瞳が三日月型に歪み、唇同士が重なる寸前。


「~っ! 調子に乗るな!!」


 シルディアの頭突きがオデルの額に吸い寄せられ、盛大に決まった。

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