第十八話 翠の少女と猿の化け物


 太い枝にぶら下がっていたのは猿の如き妖獣。


ただの猿の妖魔あやかしじゃねぇか」

「最悪……」


 玃猿かくえんは女にとって最も出会いたくない妖魔あやかしである。


 玃猿は成人男性と同程度の背丈で全身を青黒い毛皮で覆われていた人と同様に直立歩行する。雄しか存在せず好んで人の女を攫って犯す。子を孕めば無事に人里に帰してくれるが、女は呪いを掛けられ子を無事に育てなければ死に至る。


 しかし、子を無事に育てても妖魔の子を産んだ女がまちでどのような扱いを受けるかなど考えるまでもない。


 女にとって玃猿に捕えられれば生きるも地獄、死ぬも地獄なのだ。


「へっ、安心しなって、こんな猿くらい俺様がすぐに退治してやるからよ」


 この時ばかりは翠蓮も心の底から路干を応援した。

 彼の勝利に一分の可能性も無いと分かっていても。


 路干の勇武之達ゆうぶのたつは術者の身体能力を向上させ、あらゆる武技に精通できる。その強力な賜術ならあるいはと翠蓮も願わずにはいられない。


「あらよっと」


 いつもまちの男達を翻弄している特殊な歩法で一気に玃猿との間合いを詰める路干。並の相手なら彼が突然目の前に現れたように見えただろう。


「いっちょ上が……」


 そして、次の斬撃で勝負は決する筈だった――相手が並なら。


「なっ⁉」


 しかし、玃猿はすれすれで路干の剣を躱した。


「ちっ、運の良い奴!」


 今のが偶然と思った路干は躍起になって剣を振るった。だが、そのいずれも玃猿を捉えられなかった。それどころか玃猿は笑いながら両手を叩いて路干を馬鹿にし始める始末。


(やっぱダメか……)


 翠蓮は天を仰いだ。


 玃猿は妖魔あやかしとしては決して強くはない。ところが人間相手には比類ない強さを発揮する。


(玃猿が人の心を読むって本当だったのね)


 どんな強力な神賜術でも読まれてしまっては勝負にならない。


「くそぉ何で当たんねぇんだ!」

「ギャッギャッ、オマエ弱スギ」


 玃猿の無造作に振るった拳が路干の腹を捉えた。


「路干!」


 吹き飛ばされ地に転がった路干を翠蓮が助けて起こす。


「このままじゃまずいわ。守りに徹して森の外へ逃げましょう」


 翠蓮は一番可能性のありそうな提案をしたが路干は怯えて首を振った。


「む、無理だ。こんな化け物相手じゃ逃げ切れねぇ」


 翠蓮は舌打ちした。あんなに自信満々だった癖に路干の心はもろかった。


「ギャギャ、オマエ逃シテヤロウカ?」

「ほ、本当か?」

「男ヨウナイ、女オイテケ」

「わ、分かった好きにしろ」


 だから容易たやすく玃猿の誘いに乗った。


「そら!」

「きゃっ⁉」


 そして、路干は玃猿へ向けて翠蓮の背中を突き飛ばす。


「あんた⁉」


 翠蓮の非難の声にも路干は振り返らず、その姿はあっと言う間に闇の中へと消えていった。


「最低!」


 自分で連れてきた癖に我が身可愛さに一人で遁走とか、どれだけ恥知らずなのか。


「来イ」

「いや!」


 今度は玃猿の青黒い手に腕を掴まれ引き摺られた。力差は歴然で翠蓮が幾ら抵抗してもびくともしない。


 これから青黒い毛むくじゃらの恐ろしい玃猿に犯されるのだ。そんな自分を想像して翠蓮の瞳から涙が零れた。


「どうして私だけがこんな目に……」


 自分が聖人君子とは思わないが、こんな理不尽な目に遭う程に悪業を重ねたつもりもない。


 嘆く翠蓮を見て玃猿がわらった。


「オデノ子ヲ産メバ帰シテヤル……サッキノ男ハ生キテ帰レナイガナ」

「それはどういう……」

「うわぁぁぁあ!!」


 聞き返そうとした翠蓮の声をつんざくような悲鳴が遮った。それは路干の声のようで、翠蓮は恐怖に顔を強張こわばらせ体を震わせた。


「な、何?」

「血ノ臭イヲ嗅ギツケタノハ、オデダケジャナイ」

「――ッ⁉」


 他にも妖魔あやかしが近くにいる。どうやら玃猿はそれを知っていて路干を逃したらしい。


蜪犬とうけんダ」


 蜪犬は人喰いの青い犬だ。一体だけなら路干でも倒せるだろうが、蜪犬は妖魔あやかしとしては珍しく群れる。


「路干を囮にしたのね!」

「何ヲ怒ル?」

「助けると言っておいて酷いじゃない!」

「オマエヲ売ッタオトコダゾ?」

「そんなの関係ない!」


 確かに路干は嫌な奴だ。独りよがりで身勝手で、何より自分が原因を作っていながら翠蓮を見捨てて逃げ出した卑怯者だ。だからと言って死んで欲しいとまでは思っていない。


 しかも玃猿は安心させておいて騙し討ちしたも同然なのだ。


「人をもてあそんで喜ぶなんて妖魔は妖魔ね」

「オマエラ人間ダッテ……」

「その子を解放しなさい」


 突然、翠蓮と玃猿の言い争いにわかい女の声が割って入った。

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