第8話 ここから始めて、もう一度

「あれを森に放ったのは、あなたじゃないんですか?」


 その言葉を放った張本人である伊坂いさか つとむは、それを酷く後悔しているようであった。


 伊坂は十三年前まで、いつでも欠伸が出せる程度には平和に過ごしていた。


 特に勉学や運動において困ることもなく。柔らかな人柄から、人も自然と集まってきた。


 母、父、自分、そして妹の四人家族で、家族仲も良好、それぞれがそれぞれの為に動くことのできる、仲睦まじい家族。少年は自分のことを、そして家族のことを誇りに思っていた。


 クラス委員としての仕事が長引き、いつもより帰るのが遅れたその日。それらは全て破壊された。一瞬の間に、跡形もなく。


 あの日の光景を、今でも夢に見る。


 捻れた体、こぼれた命。ただ存在した怪物。


 全てを奪われた。だから全て殲滅する。


 そうして、このジトラステアで働くことになったのだ。他でもない、神谷かんだに 陽子ようこの紹介によって。


 伊坂を助け出したのは陽子であり、彼にとっては陽子も恩人といえる。彼女の性格は受け入れ難いものではあるが、信頼はしている。


 だからこそ、その恩人を疑うという行為が、心の容器にぐずぐずとゼリー状の黒いものを残してくる。


 違うと言ってほしいという願望、正直に言ってくれという哀願。いつもと同じように「秘密」でもいいから、とにかく否定してほしい。



「ああ、そうだよ」



 そんな希望的観測は呆気なく崩れ去り、容器からこぼれ落ちた黒いものがそのまま体にのしかかってくる。


 目の前がぐらりと揺らぐほどに重い、明確な絶望感だ。


「どうして……何のために」

「試験みたいなものだよ、あの程度のやつにやられていたら一日と持たないだろ。厳密にいうとそれだけではないけど」

「そんな……」


 そんなことのために、あれを外に出したのか。


「聞きたいことはそれだけかい。蕾くんに話すことが残ってるんだ、話が終わりなら──」

「僕は、カルトロンを……奴らを倒すためにここにいるんですよ」

「そうか、今日も倒せてよかったな」

「そうじゃなくてっ……!」


 陽子はどこまでも一本調子で、伊坂の言いたいことが分かっているのに、それをのらりくらりと躱している感じだ。こうなった以上、話を広げるつもりはないのだろう。


 信頼はしていた。していたつもりだ。


 無機質な金属製の白い壁が、今となっては息苦しい。どんどん狭くなってくるような圧迫感、いつの間にか監獄にいたようだ。


「──もういいです。最後に一つだけ聞かせてください」

「ああ、どうぞ」

「……貴女は、何故ここにいるんですか?」


 無理やり聞くこともできたかもしれないが、そんなことはしたくないと伊坂は心から思っている。


 伊坂の真っ黒で、それでいてまっすぐな瞳が陽子を見つめる。陽子は前髪を少し整えながら思考しているのか「うーん」と小さく声を出した後、伊坂に向かって指をさしながら言った。


「大部分は君と同じ、以上っ!」


 伊坂のまっすぐな瞳に比べると、その目は澱みが多く、とても誠実には見えない。ただ彼には、その瞬間の陽子の瞳は、とても嘘をついているようには見えなかったのだ。


「信じていいんですね?」

「それは君が勝手に決めればいい、私は今の話で嘘をついたつもりはないよ」


 陽子が続けて話そうとした時、彼女の白衣のポケットが浅い光と共に揺れだした。どうやら着信が来たらしい。特に設定もしていない、デフォルトの着信音。


 スマートフォンを取り出す。液晶フィルムにヒビの入った、使い古されたものだ。「今日は連絡するなって言ったのにな……」と心底嫌がりながら電話に出る。


「──もしもし。ああ、今は第一実験地区の方に……はあ?今日は行けないって連絡して……分かったよ、行けばいいんだろ」


 そうして電話を切った。わざとらしく、大きな舌打ちをしてから。


「……てことで、急用ができたから。蕾くんのことは任せたよ」

「えっ、ちょっと!」

「そんじゃっ、あとよろしく。マニュアルはもう作っといたから!」


 スマートフォンをポケットにしまうなり、陽子はすぐに走り出す。


「誰に呼ばれたんですかっ!?」

「ははは!誰だろうねっ!」


 またね、そう言って手をひらひらとさせながら、陽子はあっという間に走っていってしまった。茶色の長髪、癖っ毛で流れから外れた髪が、それぞれ跳ねていた。


 結局そこに残っているのは珈琲の香りのみ。取り残されて伊坂が呆気に暮れていると、後ろの戸が静かに音を立てて開き出す。


「あ、蕾さん。どうでしたか、何の話を──」


 なぜしわだらけの服を着ているのか。なぜ室内でわざわざレインコートを、それも半透明の……とにかく、ツッコミどころが多い。


「多少は有益な情報をいただけました」

「何ですか、その服……」

「陽子さんに着替えろと言われましたので」


 ──レインコートまで着る必要はなかったのでは?


「どうかしましたか?」

「……いや、何でもないです」


 伊坂はそう思ったが、それは言わないことにした。彼はため息をつきながら、髪をかきあげて天井を見る。


(これまで僕がしてきたことの意味が分からなくなった気がする……十三年の積み重ねが、数十分で。それだけではない、一体何で──)


「天井に何か?」

「あ、いや……少し、考え事を」

「そうですか、ところで……それは?」

「え?」


 蕾がいきなり伊坂に指をさしてくるので、一体なんだと思って視線を下げてみる。


「うわ、なんだこれ!」


 伊坂の手には、文庫本くらいの大きさの、比較的新しい本が一冊……表紙に「看守の掟」と書かれたものが握られていた。おおかた陽子の仕業だろう。


「ちゃんと手で渡してくださいよ……」


 ため息をまた一つ。今日だけで人生全ての幸せとやらが逃げていきそうだ。


 いや、あの日から既に幸せは無くなっていたようなもの。ここまで来たら落ちるところまで落ちるべきなのかもしれない。


 ただ、それは今ではない。


「何か問題でも?」

「……いえ。蕾さん」

「はい、何でしょうか」

「改めて、これからよろしくお願いします!」

「……ええ、よろしくお願いします。伊坂さん」


 二人は、固い握手を交わしたのだった。

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