ジトラステア〜罹患する非情な世界について〜

架空 心理

第1章 散水

第1話 播種

 森を進む車の中で、一つの生命が小さく揺れている。その中には運転手の他に、最前列で目を閉じている"それ"がいた。


 車内はそこまで広いわけでもなく、人を送るくらいであれば問題ない、という程度の一般的な広さである。


 車内で揺れているそれはまだ目を覚ましていないのか、膝の上にすらりとした手を重ねて置きながらも、座席の背もたれに軽く身を委ねていた。


 分かることと言えば、今現在、それはどこかに送られている途中であるということ。何にせよ、それは人形のように静止していた。


「そろそろ着きますよ、降りる準備をしてください」


 運転手からそう言われなければ、恐らくそれはずっと目を覚ますことはなかっただろう。運転手の声に反応したのか、それはゆっくりと目を開ける。瞳は鮮やかな紫色で、開き方は半開き、どことなく気だるげだ。


 それは窓から射す陽射しを受けて一瞬だけ眉を寄せるが、手でその光を遮ると、これまたゆっくりと周辺を見渡し始めた。


 とは言っても、そこにあるのは閑散とした車内の様子と、窓の外の木々の様子くらいである。見るからに鬱蒼とした森の中だというのに陽射しは通ってきているというのが少し不思議に思えるが。


 車内ではラジオや音楽が流れているわけでもなく、響くのはがたがたと言う振動だけ。特にこれと言った特徴もない殺風景な車内は、実に静かで退屈な印象を受ける。


 辺りを見渡したところで大した情報は得られないと判断したのか、それは指を一本ずつ折ってみたり、自身の喉元を右手で触ったりして、違和感がないかを確かめているようだ。


「──あー、あー」


 問題なく声が出ることを確認する。声は中性的で、どちらとも取れない印象を受けるが、少なくとも聞き苦しくはない声だろう。それは運転手に問いかける。


「私は何処に向かっているのですか?」


 その言葉を聞いた運転手は「えっ」と驚きから声を漏らしたあと、軽く咳払いをしてから、今度はさらに明確な驚きを滲ませて声をあげた。


「何も知らないんですか!?」

「はい、何も」

「あの人は何を考えてるんだ…?」


 それのことを不審に思ったのか運転手は思わず小さな声でぼそりと呟くが、それは続けて問いかける。


「あなたの言う『あの人』についてお聞きしても?」

「……これから行く施設のお偉いさんですよ。あなたを連れてこいと言ったのもその人で……僕もあまり知らないので、後は自分で聞いてください」

「成る程。分かりました」


 お互いに言うことも無くなったのか、そこから先、運転手の言う目的地に着くまで二人は喋ることもなく、ただ沈黙の時が流れるのだった。


 ──目的地に着いて初めて見えたものは、起きた頃よりずっと視界に映っていた森林と何ら変わらないものであった。


「着きましたよ、これから頑張ってください」


 運転手が道を間違えたのではないかとも思えたが、迷いもなくそう言われたことでその可能性が否定されてしまう。


「頑張れ、と言われましても。私はどこに行けばいいのでしょうか」

「降りたらまっすぐ進んでください、万が一、木にぶつかりそうになってもまっすぐに。そうすれば着きますよ」

「なるほど、まっすぐに。わかりました」


 目的地への行き方を聞くなりすぐに立ちあがり、すたすたと車を降りて言われた通りにまっすぐ進もうとする。


 それにしても、一切表情が変わらない。質問はしてきても、それが困惑や疑問から来ているのかが何一つわからないのだ。


「あ、ちょっと待ってください!」


 一連の行動が全くの逡巡なくして行われるので、今度は逆に運転手の方がそれを呼び止める。


「はい、何でしょう」

「名前を聞いても?」

「名前──蕾。それが私の名前です」

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