第7話 東京大地震

 いつものように部屋に閉じこもって、親が作ったお昼ご飯を食べ終えた時、いきなり、下から突き上げるような衝撃があり、その後、大きな揺れが襲った。東京直下型大地震だったんだ。


 私の家は吉祥寺駅の北側にある一軒家で、周辺は住宅地だったから、多くの家が倒壊した。


 でも、都心のビル群では、ビル自体は残っていても、ビルのガラスが割れ、地面を歩いていた人々に凶器として襲いかかったり、ビルの壁が外れ、上は吊り下げられていても下はパカパカと外に開いてしまうことで、高層ビルから多くの人々が堕ちて行った。


 また、高速道路では、対策を講じてきたはずの橋が横倒しになり、多くの車が地面に叩きつけられた。


 わずか2分程度の揺れであったけど、私には、永遠に続く揺れのように思える時間だった。その後、同じぐらいの大きな横揺れが3回ぐらい続いた後、なんとか落ち着いてきた。


 地震の後は、火災が起きるということを聞いた記憶があったので、まだ火災自体は見えなかったけど、できるだけ広い、でも歩いていける公園として、善福寺川緑地に避難することにした。


 その時点では涼の両親は不在だったので、1人で、お金と、若干の食糧と水等を持って避難していくことにした。


 道路では、車が塀にぶつかっていたり、壁が崩れていたりと素直に歩ける状態ではなかったから、なんとか着いた頃には1時間半ぐらい経っていて、その時点でいくつも煙が見えた。


 吉祥寺の繁華街では、レストランの厨房から火が出たり、地震で、一時的に電気が止まり、復旧した際に、急激に電気が流れたことで火花が飛び、それが周りのカーテンに引火したこと等が原因で火事が起こったんだと、後で聞いた。


 一方、東京湾近辺では、液状化現象のみならず、コップを揺らすと、中の水が右に行ったり、左に行ったりするように、何回も大きな津波が襲い、回数が増えるたびに津波が高くなることで、多くの人々を飲み込んでいったらしい。


 さらに、火が住宅地を覆い、火災旋風としていくつも火柱がたち、広々とした公園に避難した多くの人々を襲った。


 私がいた善福寺川緑地は、広いものの、川に沿って細長く、窪んだ公園であることが幸いしたのか、火災旋風には巻き込まれず、火災は周辺でも起きていたけど、なんとか災害に巻き込まれずに1夜を過ごすことができた。


 この周辺では、大きな火事は収まったものの、まだ火が燻っていて、数日は、公園で避難しておくしかなかった。その中で、優衣という女性が、突然、話しかけてきた。


「あれ、涼じゃない。そうだよね。私、優衣だよ。覚えているでしょう。」

「ごめん。数年前の事故で、思い出せないことがたくさんあって、覚えていないんだ。優衣さんだったっけ?」

「そうなんだ。私達、中学の同じクラスだったじゃない。あの頃は、涼は女性から人気者で、私も憧れていたんだけど、忘れられてしまったのか。少し、ショック。でも、災害の中で再会したんだから、一緒に助け合うっていう運命なんじゃない。いいよね。」


 どう対応していいか、よく分からなかったけど、とりあえず私の名前を知っていることから嘘でもないだろうし。また、一緒に助け合うことが何かは別として、災害で一人きりの女性を突き放すのもどうかと思ったので、しばらく一緒に過ごすことにした。


 数日が経つと、おおよその被害の状況はわかってきた。耐火策が進んでいるとは聞いていたけど、山手線の内側はほぼ焼け野原になり、千代田区、港区、江東区等では津波の被害で瓦礫の山となっていた。


 この辺も、かなりの範囲で建物は焼け落ち、生き残った人たちは、どうやって暮らすのか呆然とする状況だった。


 私は、自分の家に戻ったけど、家は焼け落ちていて、そこで暮らすという状況ではなかった。そこで、まず、瓦礫とかを敷地の片隅に寄せて、まずは、コンクリートの土台で座ったり、横になったりと、敷地内で過ごすことはできる状態にした。


 優衣も自分の家に行ったらしいけど、暮らしていたマンションは、筐体は残っているものの、床が抜けたり、いつ倒壊するかわからず、住人は入らないでくれと言われているとのことだった。


 そこで、優衣からは、私の敷地で一緒に暮らしたいとの申し出があった。親はすでに亡くなっていて、女性一人だけだと襲われたりしても怖いし、気心が知れている私と一緒にいるのが一番安全だと言っていた。


 優衣を信じない訳ではなかったが、念の為、優衣のマンションに行ってみると、確かに、ここに住むのは厳しいなという状況であり、そこまで言われると断りきれず、なし崩し的に共同生活が始まった。


 その頃になると、他府県や外国から支援物資が届いて、一時凌ぎはでき、さらに、季節としては、外で寝ても凌げる気温だった。


 そこで、晴れていれば、支援された毛布を下に敷き、枕で寝たり、公園で支給されたカップラーメンにお湯を入れたりして、なんとか生きていけることはできた。


 一方、私の両親は、都心に買い物に出ていて、この時点で、連絡が取れないことから、生存は絶望的であった。女性の時の両親からも連絡がなかった。


 1,300万人ぐらいの人口だった東京では、この地震で1,000万人が亡くなったと報道されており、死ということが身近になっていた。

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