セカイとセイカイ

星野 驟雨

セカイとセイカイ

 私の妹の目が見えないとわかったのは、生まれてすぐだった。

 だから、彼女は世界を知らない。

 世界がどんな色をしているのか、どんな形をしているのか。

 どれほど小さく、そして大きいのかを。


「ねえ、マリ姉ちゃん」

「ん、どうしたシノ」

「空、何色?」

 点字で書かれた本をなぞりながら、私の方を見る。

「んー、青」

「アオ、かあ……」

 ──青って、どんな色なんだろう。

 憧憬のような色を滲ませてシノは零す。

 シノが生まれて16年、私が生まれて22年。

 私は、未だに彼女に色を説明することが出来ずにいる。

 一方のシノは、辛いことを多く経験してもなお、どこまでも純粋なまま。

 しかし、その性格故に怪我することも多い。

 事実、今だって──。

「足を骨折しといて呑気ね」

「なっちゃったものは仕方ないじゃん。見えないんだもん」

 いつものやり取り。

 怪我をするたび、シノはこうだ。

 怪我したと聞く度に心乱される私のことも考えてほしいものだ。

 ……まあ、”見えない”ということを胸の奥に仕舞いこんでいないのは良いことだけど。

「はあ……」

 思わずため息が漏れる。

「ねえ、マリ姉ちゃん」

 私の溜め息なんかよそに、続ける。

「ホントに今の空って青色?」

「んー?」

 そう言われてもう一度空を見やる。

 快晴というほどではない。雲もあるが、それでも青色だ。

「青だよ。ちょっと雲あるけどね」

「晴れてはいるんだよね?」

「うん、雨雲みたいなのもないね」

「んー、じゃあ外に出たい」

「足折っといて?」

「うん。せっかく晴れてるんだし」

 シノはいつも外に出たがる。

 夏場も時々エアコンのある部屋から出て外の空気に当たりにいくことがあった。

 暑いからやめとけと言っても麦茶があるから大丈夫といって聞かなかった。

 きっと今回も折れないだろう。

「はあ……じゃあ羽織来ていくよ」

「やった、ありがと」

 我ながら甘いと思う。

 でも、部屋の中に閉じこもっているよりはマシだろうし、何よりも出来る限り希望は叶えてあげたいと思うから。


「うーん、思ったよりも肌寒いね」

「まあ、秋だからね。もう10月だし」

「10月ってことは、紅葉の季節かあ」

「まあ、完全になってるわけじゃないけどね」

「今どれくらい?」

「んー、明るい緑がまばらにあって、同じぐらい赤と黄色があるね」

「なるほどぉ」

「私がもっと上手く説明できればいいんだけどね……。それより寒くない?」

「んー、欲しいかも」

「そ」そう言って羽織っていたカーディガンを着やすい形で渡す。

「でも、説明するのは難しいと思うからいいよ」

 器用にカーディガンを着ながら、そう呟く。

「だってさ、見える人の世界は私にはわからないわけだし、でも何となく色のイメージは掴んでるからそれで十分だよ」

 その言葉に含まれるものは、姉妹だからこそわかる。

 そこに含まれているのは、憧れと諦めだ。

 

 ──じくりと心が痛む。

 シノが外に出たがるのは、それが完全には知りえない世界だからだ。

 雨の匂いや風の感触、モノの肌触りは知りえたとしても。

 彼女の世界に色はない。カタチはない。

 それを知りたくて、だけど知ることは出来なくて……。

「ねえ、シノ」

 努めていつも通りに。

「何? お姉ちゃん」

 彼女はこちらを見ない。

「青って、どんなイメージ?」

「アオ、かあ」

 暫し唸りながら、自分の中の答えを探しているようだった。

「……本で読んだのは、空とか水、悲しい気持ちみたいな」

「うん」

「でもさぁ、色々経験する中でアオにも種類があるってわかったんだよね」

「うん」

「例えば、水よりも氷は澄んだ色のイメージで、空のイメージも夏より春の方が澄んでるイメージ。艶やかな青は、高級な着物とか。一番暗い青は、ネガティブな気持ち。……あ、でも水は透明なイメージなんだよね」

「んー、水よりも氷は綺麗……みたいな?」

「うん、そんな感じ。ラムネにあるような清涼感っていうか、それがあるから氷は水より綺麗って感じ」

「なるほどね」

「あー、でもあれかも。私がそんなに透明を好きじゃないからかも」

 気付きを得たように。どこか納得したように。

「ほら、無色透明っていいイメージあるじゃん? でも、それって色を知ってる人からしたイメージなんだよね。その点私は何もわかんないから、無色透明が寂しいと思うんだよ。何もないって感じでさ」

「暗いとも違うの?」

「うん、寂しい。そこにあるものが消えちゃうとか、あるはずのものがないって感じが嫌だな」

 その言葉の裏にあるのは、諦めとは逆の感情。

 ──執着。

 シノの世界にはないからこそ、否、シノは無いことを良く知っているからこそ、執着するのだろう。

「だってさ、私にとっては感触とか匂いとか、そういうものが世界に自分がいるって知る方法でさ。……初めからなかったからこそ今みたいに受け入れられてるけどさ」

 声音は明るい、でも私にはわかる。


「……ねえ、シノ」

「なぁに、お姉ちゃん」

 ほんの少しおどけたように見せるのは、シノが泣かないようにしている時。

「んー、上手く言えないけどさ」

「……うん」

「私は、あんたに世界の広さを知ってほしい。どんな色をしてるとか、そういうことも知ってほしい。それで、自分の世界を好きで埋め尽くしてほしい」

 シノは少し俯いて何も言わない。

「……私なんかは見えちゃうものが多すぎてさ、嘘を見抜くことも出来るようになっちゃったし、逆にホントのことがわかんなくなることもある。でも、あんたにはそれがない。あんたはあんたの世界を好きなだけ

 自分が正しいことを言っているのかはわからない。

 でも、せめて家族である自分たちぐらいは。

「もちろんあんたは見えないからこそ騙されるかもしれない。嘘に気づけないかもしれない。傷つくことも多いと思う。……だとしても、あんたを好いてくれる人はいるし、私があんたを守る」

 

 だからさ──。

「私も、あんたに色をもっと具体的に教えられるようになりたいって思ってるんだよ……?」

 ──泣かないでよ。


「……うん」

「……だけど、言葉じゃ限界があるとは思うから、その言葉から何を感じるかが大事。それがあんたの世界。あんたが描ける自由な世界」

 ……なんでか私まで声が震えてるし。

 でも、それぐらいあんたが大切だから。

「……わかった?」

「わかった……」


 それからは二人して黙ったまま歩いた。

 痛みを痛みとして噛み砕く時間。

 黙りこくって二人して歩く大切な時間。

 

 言葉なんて陳腐で、嘘っぽくて、だけど力強くて、優しくて。

 だからこそ、私達は言葉を使う。

 

 傷つきながら、それでも前を向く。

 痛みを知り、より優しくなる。

 無力を知り、だからこそ力になろうとする。

 無いからこそ、生み出せる。

 歪めるのではなく、描き出す。

 もし、この世界にそんな本物があるとすれば、それは嘘によって生み出されたもの。

 だが、だからこそ人は生きていくのだ。

 誰かを愛し、自らのすべてを賭してでも守ろうとするのだ。


「……ありがとね、お姉ちゃん」

 病院内へ戻ろうかというところでおもむろにシノがこちらに顔を向ける。

 目元が赤い、しかし心からの穏やかな笑顔。

 

 ──この笑顔の為なら。

「いいの。私達姉妹でしょ」

 たくさんの本物を一緒に創っていこう。

 世界が、たとえ美しくなかったとしても。

 たとえ、嘘でまみれていたとしても。

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