第2話 鉛筆

 老人達の住居部屋には、それぞれレースのカーテンと遮光性の重いカーテンが吊るされていたが、大友は、ほとんどどちらも閉めなかった。

それでも今朝は空一面が白く、いつもの射すような光は入って来なかった。

 垂れ込める雲の重さのせいで、すっきりとした目覚めがこない。

そう思った後で、このセンターへ来てから、すっきりと目覚めたことなどあっただろうか。と苦笑いする。

部屋の外は扉を閉めていても、朝食の準備の慌ただしい音や早番の介護士の挨拶の声などで騒がしい。

もうすぐ共同のリビング・ダイニングを隔てるドアを、担当介護士が開けて回るのだろう。

 テレビのリモコンを探し、スイッチを押す。

昨日は大きなニュースが無かったのか、知らない芸能人のゴシップが流れる。

「大友さん、おはよう」

 早番で来た若い介護士が、明るい声でドアを開ける。

カートをカラカラと音を立てて運び込み、伏せてある大友のコップにポットからぬるい茶を入れ、蒸しタオルを渡してくる。

人数の少ない職員で、センターにいる老人一人一人の洗面に付き合う訳にいかないので、口を濯ぐ事と朝の水分補給を同時にしているつもりなのだろう。

 最初は抵抗を感じ、部屋へ備え付けられている洗面台で身繕いしていたが、だんだん億劫になっていきセンターのシステムに慣らされていく。

そうやって、一つずつこだわりを無くしていくたびに、自分自身の何かがぼんやりと薄れていくような奇妙なもどかしさを感じてはいたが、どうする術も無かった。

 朝食を摂るために、車椅子でセンターフロアにあるダイニングテーブルへ行く。

いつ来てもここの匂いには、辟易させられる。

しかし、朝の蒸しタオルとお茶に慣れたように、いつしかこの匂いにも飼いならされていくんだろう。そう思いながら席についた。

 今朝のメニューは茶粥と味噌汁、卵焼きと訳の分からない小鉢だ。

ぬるくなった茶粥にスプーンを突っ込みながら、今朝は米粒があることに安心した。いつかの白粥は、昔母親が使っていた洗濯糊の出来損ないのように、全く米粒の形がなく、しかも水分が少ないとろけた団子状態で、とても食えたものではないと思ったからだ。

 居住者達の八割方が、席に付き食べ始めたころ、大友の斜め向かいで、いつもの二人組が大きな声で話し始めた。本人達はひそひそ話をしているつもりらしいが、けっしてひそひそ話しではない。

「ほら、あの人、またおむつ変えた手を洗わないで、ご飯食べさせてる」

「いつものことよね」

 益々減少していく食欲を無視して、スプーンを口に運ぶ。

さっさと切り上げて自分の部屋へ帰りたかったが、中途半端な事をすると、自分も介護士から、洗わない手で食べ物を口に運ばれるのではないかと恐れたのだ。

 とりあえず形になる程度食べ終わり、車椅子を後ろへ動かす。

ふっと車輪が軽くなり、背後に人の気配を感じる。

「大友さん、もうご馳走様なん」

 昨夜の西川がいつもの調子で話しかけてくる。普段はさほど感謝もしていないが、このタイミングで部屋へ戻そうとしてくれるのはありがたかった。

「ああ、ご馳走さん」

「テレビの前に行く?」

「いや、部屋へ帰りたい」

「食べてすぐは横にならん方がええよ」

「自分の部屋で、テレビを観たい」

「オッケー」

 そういうと、西川は、大友の車椅子を部屋まで押してくれた。

後ろの方からさっきの二人組の

「オッケーだって」

と笑い合う声が聞こえていた。

「大友さん。食後の薬は大丈夫?」

言いながら西川は、壁のカレンダーの書き込みを見る。

「ないよ」

「じゃあ、帰るね。なんかあったら誰か呼んでね」

 部屋のドアは開け放たれているとはいえ、自分のスペースに帰ってくると少なからずほっとする。

帰ろうとする西川に

「あ、何か書くものが、欲しいんだが」

「鉛筆でいい?」

 そう言うと、西川は詰所から2Bの鉛筆を持ってきてくれた。


 雨は止んでいた。

車椅子からずり落ちそうになっていたひざ掛けを引き上げると、備え付けの小さなテーブルに向かう。

日記を書くためだ。

ここへ来るまで、日記なんて書いたことはなかった。

しかし、あまりにも単調な生活に、記憶はどんどん欠落していく。そのことに恐怖を覚え、せめて天気だけでも書き、この世に自分をつなぎ止めて置きたいと思いだしたのだ。

鉛筆で字を書くのは久しぶりだ。


そしてまた、麗羅との記憶を引きずりだしていた。

麗羅は小学生になり、自分で家の鍵を開け閉めできるようになっていたが、それを良いことに麗羅の母親は、ますます家にいないことの方が多くなっていた。

麗羅は、学校から帰るとテレビをつけて一人でごろごろし、夜になるとボリュームを下げ、大友の帰って来るのを待つようになっていた。

大友が玄関で鍵を探し、自分の部屋のドアを開けるのと

「おじちゃん、お帰り」

 と、麗羅の家のドアの開くタイミングが一緒だった。

大友の方も麗羅のトントンと廊下を走る足音を聞きながら、わざと音を立てて鍵を探していたふしがある。

「おう、一人か」

 解っていてそう言うと

「うん、行ってもいい?」

 期待に満ちた顔が返ってくる

「おう」

返事に、にっこりする。

 麗羅が来るようになって、大友は自炊を始めた。田舎では母親が、長男である大友を溺愛し、家の手伝いなどさせてくれなかった。

その反動なのか、母は妹のまゆこには随分きつく、女は嫁に行くからと、まだ幼かった妹になんでもさせた。大友は、妹が可愛かったので手伝ってやろうとしたが、それが発覚した時の母親のまゆこに対する折檻が酷く、父と自分で母をなだめたが、聞き入れられることはなかった。

 そんな大友が、テレビの料理番組を観たり、職場で女性の同僚の夕飯の会話に入っていったりした。

生活感の無かった大友が、自分から世帯臭い話題に入っていくので、ついに結婚する気になったのかと噂になっても、敢えて打ち消すこともせず流していた。

大友にとって結婚する時は、田舎へ帰り家を継ぐ時で、しかも気性の激しい母親と上手に暮らしていってくれる女性を見つける自信など、はなからなかった。

 今は自分のためにというより、麗羅のために食事の用意をすることが楽しかった。

初めて会った夜、弁当のおかずよりカップ麺を選んだが、後になってそれしか選べなかったことを知った。

母親と二人の暮らしになってからの麗羅は、インスタント食品しか食べたことが無かったのだ。

 一緒に食事をしながら、そういえば入学時、あれほど嬉しそうに祖母から贈られたランドセルを見せてくれたのに、学校の話を聞いた事がない事を思い出した。

「麗羅、学校どうだ」

 それまでテレビを見ながら、嬉しそうに箸を動かしていた麗羅の手が止まった。

「行きたくない」

「えっ、友達は」

 黙って首を振るとうつむき、泣きそうな顔になる。

「れいら、ダメな子なんだって」

 そう言うと、堪えきれずに顔をくしゃくしゃにした。慌ててティッシュで、涙を拭いてやりながら、

「そんなことないぞ、麗羅は、ダメな子なんかじゃない」

「だって、れいらだけなの。字が読めないの」

 そういえば、麗羅が絵本を読んでいるところは見たことがない。

そもそも、麗羅の家に絵本などあるのだろうか。

ため息を一つつくと、今現在可能な限りの優しい声で

「麗羅、ご飯を食べたら、お家から教科書とノートを持っておいで」

と言った。

 その夜から大友は、夕飯の後片付けは麗羅が帰ってからすることにして、テーブルの食器を流しに置くとすぐに、字を教えることにした。

ゆっくり話しを聞くと、驚いたことに学校に行く前日の、時間割表に合わせて教科書やノートを準備する事すらできていなかった。

大友との楽しい時間を勉強に割くことを最初は嫌がっていた麗羅も、字を書く事を教えるために、大友が膝に載せ、鉛筆を持つ小さな手を上から包み込むようにそっと添えて、ノートにゆっくりと書いていく作業がすこぶる気に入り、一文字一文字声をだして、嬉しそうな目で大友を見上げた。


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