第三十五夜 革命前夜

 耳を掠めた斬撃。既にこちらの声は、【女王】には届かないようだった。ほんの少し前までの穏やかさは、今は完全に死へ呑まれている。呼び込むような。伸び迫る死人の腕が爪を立てて。


 彼女の生気の余韻に未だ戦闘へ完全に切り替わらない海月かづきの回避が一拍遅れた。


 異形の爪が海月へ至る寸前、衝突音とともに赤色が視界を横切って。痛覚を持たない死体の、甲高い人の真似事が鼓膜に轟く。


「……海月、」


 立ちはだかるように、創造した槍を海月の前で構えた紗世さよが見上げる。胸元のリボンは武器に吸われ無色に揺れていて。戸惑いと、躊躇いと、それらを覆い隠す覚悟の表情に背筋が伸びた。


「――うん、ごめん。……ありがとう」


 ただそう一つ。さすが、元傭兵。紗世の背。かつて己を殺しかけた狂人の影が、今は酷く頼もしい。


 繰り返される嘆きの声。葬儀の開始の、それが宣戦となった。


 *


 身体にかかったG。軽い加速度病に似た吐き気を催して。浮つく不快感にそれでも着地は猫の如く。大人の落ち着きを纏っておきながら、人をぶっ飛ばすような荒業を涼しげにやってのける相棒の大胆さに改めて嘆息。


 巻き上がる砂埃を厄介そうに払いながら、叡士郎えいしろうは鼻を鳴らした。


「……痴話喧嘩は済んだのか?」

「君も割と腹立つよね、叡君」


 りんの副作用により立ち位置。彼の行動の意図を察し、握ったままの拳銃を構え直して。冷えきった威嚇に叡士郎は同じ温度で顎をしゃくる。


「まぁ待て。ったく元気だなぁお前らは」


 その程度で彼が怯むはずもなく。なんの躊躇いもなく握られたそこ。己に向いた銃口を握り込み獰猛に笑う叡士郎を燈莉とうりは嫌そうに睨んで。さらりと波に攫われる砂の城のように塵へ溶けだしていく様に舌打ち。


「相変わらず上手だよね。常識人ぶるの」

「丸くなったと言ってくれよオト」

「……、どの口が」


 銃から手は離し、敏捷びんしょうに足を振り上げて。主作用に上乗せされた威力と嫌悪が真っ直ぐに。しかし叡士郎は平然とそれをいなす。


「聞けよってクソガキぃ。喧嘩なんてしてる場合か?後ろに仕事は山積みなんだぜ?」

「君らが邪魔しに来なかったら僕らはとっくに次に行ってたよ。それにクソガキは、アラサーに使う言葉じゃないと思うね」

「つれねぇこと言うなよ、手伝いに来てやったんだろ?お前ならわかってくれると思ったんだが。あと悪いな。俺はお前らより十と二年多く生きてんだ」


 知能年齢の下がった生産性皆無の言い争い。その一方通行に水を差すように、燈莉のポケットでスマートフォンが震えた。着信。表示された相手の名は大和やまと


「…………」


 応答はしかしせず。やがて燈莉はどこか威嚇に似たため息を吐き捨て身を翻す。


「――次は邪魔しないでよ。僕、今の正義曲げるつもり無いから」






 銃声。細く過ぎる風が皮膚を裂くように。玲於れおの手から錆びた鉈が弾かれ、黒の手袋から血が噴いた。カランと金属の落下音。


「――慈悲をどうも、葛谷くずや君」

「勘違いするな。相棒が人殺しは世間体が悪いだろ」

「……っはは、いいね。そこ気にするんだ」


 撃ち抜かれ痺れるその手で、一筋血液の垂れる首筋をぬるりとなぞって。顔に出さない不愉快。渇いた二回の咳払いの後で玲於は立ち上がった。


「あーあ、傷が残ったらどうするんだってね。……葛谷君、乙帳おとばりに伝言だ。やっぱり猟犬はお前には勿体ないと伝えてくれ」

「……痴話喧嘩に巻き込むのはやめていただきたい。面倒だ」


 淡々とした臨の物言いに無邪気な高笑いが響く。


「君も結構言うんだな。好きだよ、そういうの」


 どこか演技っぽく、白々しい視線を向けた玲於にやはり臨は無関心に言い放った。


「妻がいるので」


 *


 生ぬるい満腹感に口を拭う。その傍ら、優しい無表情を湛えた紗世が握っていた武器を払い消した。


 死体の、本能による最期の足掻き。しかしそれ以外に目立った抵抗を見せず崩れ行く彼女の表情は、不謹慎にも美しかった。呆気なく終わったの葬儀。


「……お友達、探したら早く出よう。長居は良くないと思う」


 了承。並んで歩くバラついた歩幅。死屍守の脅威はなくなり、ただの廃墟となった廊下を行く。


「――紗世ちゃんの副作用独特だよね。使いこなすの難しそう」


 ぽつり呟く。〝漂白〟。紗世の患った副作用。触れ、奪った〝色〟を物質化し武器に変換する、前衛に似合う症状だ。だが。


 彼女のその本来の作用は触れた対象の〝色〟を奪うであった。さすが後天性らしく、その効果一つで成せることは残念ながら無いに等しい。雑に言えば食らうだけで終わる己のものに対し、葬儀屋であるには不向きな、粗悪とも言えるそれ。


 更にそれを使いこなす紗世の技量に感嘆すると同時に、その半端な症状さえも武器にさせた雨音あまねの教育に再度身体が冷える。人知れず、命ある己を褒めたたえて。


「……難しい、よ。――雨音、凄いでしょ」


 得意げな上目遣い。思考は読まれていたようだ。ふふ、と微笑した紗世にそっと目を逸らして。そうだった、と頬を搔いた。己にとってただの難敵である雨音は、彼女にとって敬愛する恩師である。



 しばらく歩き、ふと近くに人の気配を嗅ぎ取った。進んだ先瓦礫の死角。二人の男女が守り合うように身を寄せている。怯えるように、隠れるように顔を伏せて。声をかけると大袈裟な程に肩が跳ねる。


 出血はない。ただその足に痛々しい変色を認めた。見上げられた顔と視線が交じる。


「……もう大丈夫。歩けますか?無理なら僕が……」


 体温が残っている方の腕を二人に差し出して。しかし拒絶するように女が首を振る。


「あと二人いるんです。まだ帰って来ないの、だから……」

「…………」


 頬が引き攣る。彼女の言う二人とは。急なこちらの無言に彼女は落ち着きなく二人の特徴を述べる。耳を塞ぎたくなった。もしかしたら、の希望も打ち砕かれるほど、彼女の言うそれは少なくとも【女王】と完全に一致して。


 黙り込んだ海月と紗世を、彼女は不安そうな表情で覗き込んだ。彼女らには、彼らの死を知る権利があって、こちらには話す義務があった。けれど言葉は詰まるばかりで。


「……怪我、手当しないと」


 漸く紗世が言った。は消えたといえ、現場となったここにゲンガーが留まるのは危険が伴う。今は無理やりにでも連れ出すのが得策だった。再度、一歩歩み寄って、次にヒッ、と息を呑む音が聞こえた。その理由を悟る。暗く染った己の制服に縫い付けられた女の視線。


「来るな!!」

「――っ、」


 男の方が怒鳴る。その圧に思考が停止。びく、と隣で紗世の肩が震えた。


「なんなんですか、あんたらは。何が大丈夫なんですか、友人が帰ってきてないんです!置いていくっていうんですか!?」

「──っ、ちが、」


 反論は浮かばず。一方的な憎悪を受け入れ立ち尽くす他ない無力感に喉奥が締まる。



 ふと。


「亡くなったんです」


 ぴしゃりと。独り言に似た。静かな声だった。しかしそれは時期外れの冷たさの空間に響くように、男の怒声を遮るようによく通った。声の主は紗世。


 半笑いの乾いた反応が返った。聞こえていないのかと錯覚するほど、限りなく無反応に近いそれに紗世は構わず続けた。包み隠すことなく、これまでに起きた全てをただ淡々と。


 己の情けなさより先に、冷静すぎる紗世にゾッとした。冷静と言い表すのすら間違っているような、機械じみた口調に。


「……ころしたの」


 やがて、その呟かれた問いが訪れた静寂を打つ。消え入るように静かな。それでいて突き刺すように鋭利に。訂正を求めるように海月を見つめる彼女の双眸が揺れる。怒りか、悲しみか、あるいは困惑か。視線に含まれる感情を、海月には読み取れなかった。


「うそ」


 無言は回答となって彼女に届く。答えられなかった。仕事だからと。彼女を、死に囚われた彼女を救うためだと。この正義に間違いは無いはずなのに。


 ただ。葬儀屋ではない彼らの目には、戦いを、平和の裏の暗闇を知らない彼らの目には、それがどう映るかなんて。





 ――ひとごろし





 ど、と鼓膜に心音が轟く。痛みすら感じるほど、汗が冷たく背筋をなぞる。静かな声だった。囁くような、伝える意思のないか細さの。それでも締め上げるように、それは確実な悪意を持って身体に突き立てられた。


「……、」


 何か言わなければ。否定しなければ。正しいと。胸を張って誇れる正義だろう。なのに思考する度粘ついた罪悪感が張り付いて。


 いつもなら笑い飛ばせる悪意だった。けど今は。何も言わないのを良いことに、女はタガの外れたように呪いを吐く。その双眸には苦しそうな涙が浮かんでいた。


「なんでよ。返してよ。約束したんだよ、一緒に帰るって」


 申し訳程度の男の制止も、もはやなんの意味もなく。あるいは彼の思考も、少なからず女と同じなのであろう。


 誰にもぶつけられない憤りを投げつける、彼らにとってこちらは都合のいい対象であった。それに対し文句を言う権利も、海月には無く。己も同じだったから。彼女の気持ちが、痛いほど分かるから。だからこそ耐えるように沈黙を貫いて。


 返してと、繰り返される罵声に手遅れだと分かっていながら、せめてと海月はそっと紗世を引き寄せその耳を塞いだ。


 仕方ないと自分に言い聞かせるように、彼女らの奥の壁を睨みつけて。


 ひとごろし


 人殺し。


 酷い気分だった。己の罪の深さを再認。解消されたはずの自己嫌悪が顔を覗かせて。





「取り消してください」


 その時、その言葉とともにふわ、と安心する気配が香った。目線を上げる。耳馴染みのいい高めの男声。間に入るように、未遥みはる真実まさねがこちらに背を向け立っていた。


 ハル、と呼んだ海月の声は潰れたように掠れて。それでも通じたようで、ちら、と一瞬交わった彼の茜色が優しく笑う。


 大丈夫、と言われた気がした。


「……っ、だれ」


 女が怯えた声で問う。それに真実が答えた。


「葬儀屋です。あんたらを助けに来ました」


 お世辞にも礼儀正しいとは言えない彼の敬語に、どうしようもなく心が落ち着く。


「そうぎや……?」

「はい。……詳しい話は後でたっぷりしてやりますから、一旦出ましょう。ここは危ねぇので」


 淡白な、事務的な物言いに勢いをくじかれ男は押し黙って。しかし女がぽつりと呟いた。


「……私、行きません。……ごめんなさい。あなた達を、信用出来ない」


 震えた声の拒絶。納得は出来た。故に呼吸が浅くなる。


 しかし。はは、と真実は嗤った。


「ヒトゴロシ、だからですかお姉さん」


 息が詰まった。その態度に、ではない。


 ちり、と彼の手のひらが熱を持って淡く光る。感情の起伏により火力が変わる彼の副作用。よって平生、彼の感情は首輪により無理矢理一定に矯正されていて。それでもなお副作用が滲み出るほど彼は今。


「……っ」


 表情は未だ穏やかで。それでも隠しきれない威圧感に女は口を閉ざす。真実の、治めようと握りこんだ拳から血が滴っていた。


「まだ言いますか。自分らの意思で来たわけじゃないといい、人間様は随分我儘ですね。死にたいなら送ってやりますよ。得意分野なんです、火葬」


 あくまで笑みは崩さないで。それが却って彼女を脅かしていることには、残念ながら気が付かないようだった。完全に言葉を失った女に畳み掛けるように真実は続けた。


「おれらの仕事を人殺しと言うのは別に好きにしてください。そんなの、もうとっくに慣れてます。……けど、おれの大事な友人を人殺しと言うのは、何があっても許さない」


 聞いた事のない低音だった。しんと静まり返った空気を誤魔化すように、真実はそっと息をついた。


「分かったら黙って従ってください。信用しろなんて言ってません。救える命を救いたいだけです、おれたちは。それが正義なんで」

「……っ、ごめ、なさい」


 萎縮した女の謝罪に、今度は真実は酷く優しい声色で笑った。


「おれに言ってどうするんですか。それに言いましたよ、おれは許しません」


 思わず笑いが漏れる。慌てたように再度向けられた彼女らの謝罪を、海月は敢えて少し置いてから受け入れて。


「――よし、海月、紗世ちゃん。一旦〝家〟戻るよ。二人は蒼樹そうじゅさんに預ける」


 *


 ビルの二階。酒場の上という不釣り合いな場所に位置する蒼樹の診療所。ほとんど彼女の研究室と化したそこに珍しく家族が集う。


「二人とも、感染はしてなかった。私の研究にも協力してくれるらしい。しばらくお預かりだな。……それにしてもやけにすんなり話が通じたんだが、なんかしたか?」


 二人のゲンガーを寝かせた部屋の扉を後ろ手にそっと閉め、覗き込むように言った蒼樹に、解答権を投げられた海月と真実は黙秘を決め込んで。いいや、と鼻を鳴らし、次に真剣な表情で定位置の椅子に腰掛ける。


「……教団は再興した、か。最悪だな」

「ヤバいのは何となくわかるけど。……ぶっちゃけどんくらい?」


 心奥の怯えを隠すように軽く。けれど蒼樹の表情は変わらなかった。ゆっくり、薄く形のいい唇が動く。


「……あんまり言いたかないが……最悪、戦争が起こる」


 戦争。喉が、胸が冷える。分かりやすく黙った海月を気遣うように、真実が調子よく笑った。


「確率はかなり低いよ。あくまで最悪。目の前の仕事頑張ってれば回避できるレベルのアクシデントだね」


 真実の言葉に唯葉ゆいはが続いた。


「昔の教団にいた教祖がヤバいやつでさ。随分前に殺されてるから、今言われてるのはあくまで模倣の団体だよ。ただ、前の戦争も、長引いた理由に人間の信仰心が関係してるから警戒してるってだけ」


 ほう、と反応を残して。想像するに、あの【女王】らは教団の関係者だろう。複雑な事前情報を頭で並べながら、無知なりの思考を巡らせる。ふと、蒼樹の視線が海月らの後ろに向けられた。


「……で、燈莉。お前はなぁにやってんだ」

「……黙秘するよ」


 ふぅんと蒼樹は目を細める。致命傷にはならない程度。しかし彼にしては不自然な量の生傷をこさえて帰還した燈莉が、今は不貞腐れた子供のようにこちらに背を向けて病床に横たわっていて。


 あまりにも珍しい態度に真実と唯葉すら不思議そうに。ニヤ、と蒼樹が一人笑う。


「痴話喧嘩も程々にしな」

「蒼樹。…………先に売ってきたのは向こうだ」

「買ったお前も同レベルだよ」

「…………」


黙った燈莉にふと疑問が芽生える。


「……燈莉さん彼女いたの?」


特定の相手は作らないと聞いたはずだが。黙秘を決め込む彼に代わり、蒼樹が見た事ない程楽しげな表情で言う。


「元カノ、だよな」

「……なあ頼むから黙ってくれ」


元カノ。生々しい響きに思春期男子の興味関心が向く。診療所の独特な緊張感はあっという間に修学旅行中の客室に様変わりして。


「燈莉、言っても……」

「良いわけないよね怒るよ」

「……わかった。――お前ら耳貸せ」

「分かってないじゃんねえ蒼樹!」


 華麗なフル無視。蒼樹が一番近い海月の袖を引く。何かを察した真実と唯葉が燈莉の行く手を阻んで。遠くでした燈莉の大声が、耳元の蒼樹の小声に掻き消された。


「玲於だ」

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