エピローグ 真のラスボス
第44話 果てなき戦い
「テンマさん! テンマさん! 目を覚まして、テンマさん……」
誰かが俺の胸をたたいてる。結構つよめだ、痛い。
「お願いだから目を開けてぇ……。もう手が……かじかんで……」
人の上でうつ伏せになった。遠慮がないな、重い。
すすり泣く声が誰かはわかっていた。
と突然、喉からクソ不味い液体が飛び出てきて、俺はむせ返った。
「げほっ、げほっ、おうぇええ、ぺっぺっ。さすがは元日本一汚い沼だ」
「……え、テンマさん?」
「よう、ミヤ。しばらく見ないうちに汚れちまったな」
「馬鹿! うわあああん……」
胸にうずめてきた頭をそっと撫でて、濡れた黒髪についた藻を取ってやる。
自分の体は冷たくて、がちがちに強張っていた。だが心臓は動いている。
むせび泣く娘を押しのけて上体を起こす。
「悪いがこうしている場合じゃない。急がないといけないんだ」
「うぅ……スンッ。どういうことですか?」
「俺はまだ仮初の命。最後の試練をしなければならない。行かないと──」
立ち上がろうとするが力が入らない。
「はーはー……」
「どうしました?」
「ハックションちくしょう!」
「きゃあ! 耳がぁ」
「すまん、悪かった。とにかく、俺はまだやることが残ってるんだ」
「まだ終わっていないのですか……? 私の肩につかまってください」
細い体を頼りになんとか立ち上がると、よたよたと歩を進めようとする。
「どこへ行くつもりですか?」
「独りで住んでるマンションだ。親のだけどな」
「何分くらいかかるんです?」
「この足じゃ、三、四十分ってとこか」
「ダメです、風邪をひいちゃいます。私の家が近いので、そっちに行きましょう」
「そういうわけにもいかないんだ。人んちでできるもんじゃない」
「いけません。たまには私の言うことを聞いてください」
「くっ……」
負い目を感じて今までおとなしく従っていたのであろうミヤは、決して譲らぬ強い意志を見せた。
彼女に頼らなければ歩くことも叶わない俺は、素直に従うしかなかった。
「わかったよ」
「すぐ近くのアパートです」
「ここは……対岸の方か。隣町に住んでたんだな」
「さあ、ゆっくり急ぎましょう」
「『
「なんですか、それは。ち、ちょっと! どこ触ってるんですか!」
「違う、今のは不可抗力だ!」
寒空の下、水を滴らせながら草をかき分けて岸に上り、街灯が静かに照らす夜の街へと入っていく。そこから数分足らずで、二階建てのアパートが見えてきた。
「あそこです。壁が薄いから早くお金を貯めて引っ越したいんですけどね」
「一人で暮らしてるのか?」
「そうです。近くのファミレスとラーメン屋さんで働きながら……」
「立派だな」
「……そんなこと初めて言われました」
俺からすれば、世の中の大半がそうであろう。
凍えるように寒かったが、わずかに力が戻ってきている。踏ん張ってなんとか階段を上がると、ミヤの部屋へと入っていった。
「えへへ。ちょっと散らかってますけど」
「きれいなほうだ」
「今すぐお風呂を沸かしますので、先に入ってください」
「そういうわけもいかないだろう」
「いいからそうしてください。私は着替えてコンビニに行ってきます」
「むう」
「まさか、一緒に入ると思ったんですか?」
「そういうわけじゃない!」
結局、押し切られてしまった。
ミヤは灯りを点けて給湯器のスイッチを入れ、脱いだ服を洗濯機に入れるよう俺に指示すると、扉を閉めて部屋に引っ込んでしまった。
そんな場合ではないのに、体を温めなくては始まらない。張り付いた服をなんとか脱いで、ひとまず風呂に入ることにした。
このような状況で男が先を譲ってもらうなんて恥である。そう思いながらシャワーを浴びていたら、洗濯機を操作する音と「行ってきます」の声が聞こえた。
残り時間はあとどれくらいだろうか。先のことを心配しながら入る湯船は、なぜか今までの人生で最も骨身に
浴槽に汚れが浮いていないか目を凝らしてから扉を開けると、おそらくコンビニで買ってきたのであろう下着が置かれていた。だが上に着るものはない。申し訳なさげに畳まれた毛布があったので、それを身にまとって風呂場を出た。
ミヤは暖房を効かせた部屋でソファーに座り、ぼんやりとしていた。
「ごめん、お待たせ」
「終わりましたか。私もすぐに入らせていただきますね」
「えっと、俺はどうすりゃいいんだ」
「洗い終わったら乾燥機をかけますので、ここで待っててください」
「ああ、わかった」
彼女と入れ違いになったところで、ふと思いたって尋ねた。
「なあ、君の漫画を見せてもらってもいいかな」
「……恥ずかしいけど、約束ですもんね。隣部屋の机にコピー本が置いてあるので、自由に見ててください」
「ありがとう。それじゃごゆっくり」
「はい。余計なものは見ないでくださいよ」
言われたとおり書斎を兼ねた寝室へ向かうと、目当ての物はすぐに見つかった。
いくつかあるうちの、なんとなく気を引いた一冊をめくり始める。
『夢物語』と題されたそれは、すぐに未完成であると察せられた。
すでに彼女の絵心は知っていたが、あたたかなタッチの少女や風景は、十分すぎるほどの腕前であるように思われた。
だが──なるほど、たしかに男は皆無だし、内容は無いようなものである。
プロとして通じるとはお世辞にも言えない。もちろん俺がそれを言う権利があるかどうかは、自分自身がよくわかっている。
可愛らしい椅子を借りて、残りを一つひとつ読んでいく。
しばし時間を忘れて読み耽っていると、いつの間にか横にミヤが立っていた。
「どうですか? やっぱり微妙ですよね」
「そうだな、トリックスターを入れたら面白くなるんじゃないか」
「トリックスター?」
「物語をひっかきまわすキャラクターのことだ。なんというか、お上品すぎてな」
「ずっと女子校に通ってました。案外みんなおとなしくはなかったですけど」
「君の『夢物語』に『狐物語』を融合させてみるんだ。ずる賢い狐を入れてやれば、きっと誰も予測のつかない話になるぞ。そうだ、サキュバスとインキュバス、それにカンビオンも入れてしまえ」
「あはは、なんだかカオスになりそうです」
「それがいいんじゃないか。まだまだあるぞ。イングランド北部の妖精で……」
ベッドに隣り合って座り、俺は得意になって知識を披露した。ミヤはそれを真剣な表情で聞き、ときおりメモをとっていた。
しばらくして持論を語り終えると、彼女は満足そうに言った。
「反映できるかどうかはさておき、だいぶ参考になりました。次はぜひ、テンマさんのお話も読ませてくださいね」
「あ、ああ……。そうだ、時間を……」
「掛け時計はそこですよ」
静かに時を刻んでいた三本の針は、ちょうどすべて0をまたぐところだった。
タイムリミット。
「結局なにもできなかった。さようなら、ミヤ。頑張れよ……」
「え……」
左に座る彼女の頬に右手を差し伸ばそうとする。
せめてこの愛らしい顔を目に焼きつけておきたかった。
「…………」
「どうしたんですか? 急に黙っちゃって」
「おかしいな、消えない」
「どういう試練だったんですか?」
「俺の本当の心残りをやり遂げろって……あれ、なんだか視界が……」
急に恐ろしい眠気が襲ってきて、目も耳も効かなくなった。
時計がずれてたのかな。
半端な別れとなってしまったが、じつに俺らしい最後じゃないか──。
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