白群にゆりて聞く桜しべ

柊リンゴ

第一章 三人(みたり)の心思と未生の羽 ・一話


 毎日を新鮮に迎えたい。速足で坂道を下だ

り、降り零れに顔を上げれば薄墨の桜と密雲

が交じらい、明け離れる景色を想起した。 

 駅へ続く歩道も飛花ひかが彩り、雲の如しで、

俺は花びらを踏まぬようにと静かに他人の足

取りを辿る。匂い立つばかりで徒立かちだちに似つ

かわしい。ふと少女が目隠し鬼をするような

そよ風を感じ、襟を正す。他人と比べれば才

知劣ることを嘆かずにいよう。痩せたこずえにも

魂はあるのだ。俺はからっぽの黒い鞄を握り

締める。今からだ。たとえ誰一人俺に気付か

なくても正しく生きる。人生を諦めない。 

 風が去り、道の辺に草花を見付けた。細や

かに生きることを教わり、再び歩く。 

 

 花が咲く公園のそばを通り過ぎると、手の

甲に花の影が映り、余韻に浸る。

 咲く場所を求めた俺は、天下晴れて会社員

になれたのだから、自信を持ちたい。さりと

て全てを焦らずにいよう。希望をいだきつつ、

天運に任せれば万事順調だ。くは多芸

多才となり、大福を手にしたいものである。 

 おや、わだちの音が聞こえたので道を譲ると、

白いブラウスを着た女子が自転車で先を急ぎ、

雲の道に花びらが舞い上がる。どうぞ、お手

柔らかにと見送る。 

 通勤途中における余所見は、今に始まった

ことではない。ふと、車道に目を遣ると、奇

しくも長い車列になっている。朝の渋滞は見

慣れぬ風景で、俺は人並以上を自負する好奇

心を燃やす。列は押し並べてぴかぴかの車体

が連なり、絶景だ。窮屈そうなバスより先を

行く俺は、誰もが始まりの春と意識する。 

 バス停を通過すると、コンビニが見えて来

て、新聞を脇に挟んだ男性と擦れ違う。

「あっ。羽立うたか。髪型変えたな。見違えたぞ」 

 自分の名前を呼ばれて足を取られ、見返る

と、顔見知りであったので会釈する。

「あれ。スーツにネクタイ。そうか。社会人に

なれたんだ。おめでとう。よしよし、立派に

なったな。体裁が整っているんだから、先

輩社員に引けを取らないさ。自信を持って

頑張れよ」と赭顔しゃがんなので、俺は瞬きをしつつ、

「はい。ありがとうございます。では、行っ

て来ます」と一礼した。挨拶のある町に禍な

しだ。しかし俺は、知人は元より人間と喋る

のは不得手で、気が張っていた。故に励まし

が胸を打ち、人知れず熱い涙を拭った。 

 俺は小学生時代に苛めに遭ってから、他人

へ向き合おうとしない。故に惑う。相手を知

り、己を知れば難なしと外界で聞くけれど、

自分を知ることも空へ飛ぶほど難しい。 

 我ながら模索を続ける二十二歳である。だ

が、辛うじて社会人一年生。人や花にも影は

あるので、徐々に自分を知ればよしだ。

 夢や希望がないと人生は退屈だ。しかし引

け目を感じて群衆に溶け込めない。そのよう

な自分を変えてみたいと思い、商社で勤務す

ると決めたのだ。我ながら無謀さがある。故

に何も変わらぬ儘で出勤しているが焦らずに、

意識して前を向く。

 ようやく駅舎が見えて来た。洗練された紳士の

後を歩くと、活気立つ先に弓杖のような烏も

いた。何ぞと見遣れば、黒い羽を広げ、花咲

き乱れる春に生命の鼓動を知らせるではない

か。この道は吉と捉え、先人に従って歩くが、

ふと、腕時計を見た。

 二ヵ月前は学生だったので、勤務先の実情

は未だ定かではない。しかし如何いかなる社風で

あろうとも、抗わずにと己に言い聞かせる。

勉強は続く。生き残るために知ることは多く、

知れば学びは深くなるというものだ。

 

 俺は幼い頃に、ものにも光が差すことに気

付き、魂も宿ると考えたのを覚えている。先

ずは人間として、自分と相手の長所を知るこ

とであり、そんなことを思い出す俺は『情熱』

をベッドの上に置いて徒立かちだちしているようだ。

取りに戻らぬ儘でホームに立つ。

 到着した上ぼりの電車へ乗ろうとしたら、

背後で誰かがくさめをした。途端に乗客の視

線が俺に集中し、おののく。されど戸袋とぶくろへ爪先を

乗せる。尻押しの光景は、先程の桜漬けと化

した道を思わせる。人に揉まれ、我慢を

られる。俺は口をすぼめ、見知らぬ人とともに、

次の駅へ運ばれてゆくのだ。

 川を渡り、なおも走行する車内は年長者が多

いと思う。人はいつから、大人になるのだろ

う。成人してからか、将又はたまた初体験を経てから

なのか。俺はどちらもうに済ませたが、精

神が発達せず不安だ。特に初体験は、木肌を

擦り合う束の間の情事に己のかいにわたずみへ沈み、

黙してシャワーを浴び、髪をいたもので、

夜の海を凌ぐのは大事おおごとであった。

 植物なら冬の寒さが花の蕾を守り、春が愛

して咲くけれど、俺は咲く時期がわからない。

そもそも会話が不得手ふえてで詩を好み、純粋な友

情に憧れをいだくが故に、人の長所を見付け、

応援してみたいのだ。本来の機能を欠くのか

性欲が希薄で、心の性を男子と捉えぬ俺は、

所謂いわゆる第三の性である。謙抑けんよくせずに生きたいが、

性別を聞く外界をたゆたう。自信を持てない。

 電車が揺れて、くるぶしが痛む。車窓からこの高

架鉄道の下を潜る車が見えた。間も無く駅に

到着か。扉が開けば頭を切り替え、進むのだ。

 

 会社への道々、鼓動が高鳴る。まだ見慣れ

ぬ街並だが、好きになれるとよい。徐々に三

階建ての社屋が見えて来た。雪と見紛みまがう乳白

色である。俺は何事もこころよしとするのだ。今か

ぎんじるが如く体裁を整え、先の時代が造り

し建物を敬い、一礼だ。

「お早うございます。営業部の百千羽立ももゆきうたです」

 朝は元気な挨拶から始めるのだ。

百千ももゆき君。お早う。きみは実に爽やかな挨拶

をするね。心証がよい。今月も宜しく。パー

トナーと力を合わせて邁進まいしんしたまえ」

「はいっ」

 出社早々に精悍せいかん米倉よねくら部長から奮励され、

緊張する。俺は先月この<元亀商事げんきしょうじ>へ入社

して、営業部へ配属され、事務職を担うのだ

が、何と三週間後に迫った年度末決算へ向け

ての作業という波に揉まれた。思い返せば全

く手順がわからず、先輩に聞いても『今は忙

しい』とすげなくされてしまい、俺は捨て

ぶねとなって、周りの反応におどおどしながら、

資料を手に、取引先と商材の名称を覚えるこ

とに専念したので、悩ましい日々だった。

「まあまあ、堅くならず。うかと失敗するこ

とはあっても、再生すればよし。それに四月

からは目粉めまぐるしいことはない。仕事を追って、

追われぬようにすれば万事吉祥となるのだ」

「はい」

 上司は、業務経験の浅い俺のことを、気

に掛けて下さる。






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