018


 メイが地上へと生還した、その日の夜更け。

 場所を知る者も少ない彼女の部屋の前に、背の高い人影が一つ。黒一色のライダースーツに身を包んだその女は、取り出した鍵で難なく施錠を解き、物音を立てずに中へと侵入する。土足でこじんまりとしたダイニングに上がり込み、ソファや家財道具には目もくれず、奥にある寝室へと向かっていった。


「……」


 やはり静かにドアノブをひねり、僅か押し開いた戸の隙間に身を滑らせて、女はベッドへと近づく。小さくついたままの常夜灯が、横たわるメイを微かに照らしていた。タオルケットを被り目を閉じたまま、僅かにもぞりと身動ぎして──


「──変な動きはしないで頂戴。この毒の威力はあんたもよく知ってるでしょう?」


 左手に薄ガラスの小瓶を掲げた女──飯沼サフラの言葉に、パチリと目を開いた。


「……知ってるよ。食らっても即死はしないこともね」


「ええ、確かにあんたはこれでも死ななかった。でもガールフレンドはどうかしら?今回のは散布型で、しかも対モンスター用に調整してあるの」


 無色透明な液体の入った小瓶を振りながら、サフラは視線をベッドの一点──メイの体とは別に、丸く膨らんだタオルケットの方へと向ける。非常に脆く作られた小瓶は、乱暴に扱えばすぐにでも割れてしまいそうな有様だった。


「深淵層と地上ここの滞留魔力濃度差は推定十五倍以上。不慣れな環境で、そこの箱入り娘さんは耐えられるかしらね?」


「………」


 小さく息を吐き、サフラを刺激しないようにゆっくりと上体を起こすメイ。自身を見下ろす同僚の姿は、最後に見たときからは想像もつかないほどに変わり果てていた。長身こそそのままだが、居丈高に伸びていた背は丸まり、艷やかだった紫黒の髪は見るも無残に荒れている。不健康な土気色になった頬はこけ、髪と同色の瞳だけがギョロギョロと忙しなく微細動していた。もはや『女傑』よりも『幽鬼』などと呼ぶ方がしっくりくる有様。灯りを反射するライダースーツの照り艶から、体の方も随分と痩せ細っていることが窺えた。


「……助けにくるのは遅かったくせに、殺しにくるのは随分と早いじゃん」


 自分の方がよほど健康体だ、などと思いつつ、メイは忍び込んできたサフラの目的を口にする。すかさずサフラも、厭味ったらしく反撃。


「あれでも精一杯急いだのよ。あんたが急かすもんだから。……その結果、ムジナは死んだ」


 深淵層に落としたときのように、毒を塗った言葉の刃で、サフラはメイをずぶりと突き刺さす。顔を隠すように俯いたメイの口から、先よりもか細い声が漏れた。


「……ムジナに関しては……悪かったよ」


「──認めるのね?あんたのせいで彼が死んだ。あんたが彼を殺したって!」


 俯いたまま答えないメイに、サフラは鬼のような形相で罵声を浴びせた。およそあらゆる侮辱の言葉、ムジナが死んだのも自分が疑惑の渦中に立たされているのも全部多田良メイのせいなのだと、思いつく限りの暴言とともに叩きつける。メイはただ黙って、その全てを聞いていた。数十秒か数分か、ひとしきりの憎悪を吐き出し息を荒らげるサフラが、右手で腰ベルトからナイフを引き抜く。メイにもよくよく見覚えのある、シンプルな形状のダガー。

 

「……っ、ふぅっ…………こっちは正真正銘、あんたを刺したものと全く同じ毒。今度は失敗しない。心臓に突き立ててやる……っ!」


 わたしを殺したとして、そのあとどう言い逃れするつもりなのか。そんな問いが無意味であることくらい、メイにも分かっていた。あとのことなど考えていない。サフラは完全に、こちらの命を奪うことだけを考えている。ただ誰にも邪魔されないために、このタイミングを選んだのだ。対モンスター特化毒まで用意して、マリを人質に、確実に事を成そうとしている。

 メイはベッドの上の静かなままの膨らみに目を向け、それからゆっくりと、右手を上げた。


「……分かった、抵抗しない。だからマリには、手を出さないで欲しい」


 座ったまま背筋を伸ばし、薄い胸を張る。お前の獲物はここだと知らしめるように。突き立てる場所をはっきりと見定めたサフラは、口が裂けたかと見紛うほどの笑みを浮かべて一歩近づき。続いたメイの言葉で、二歩目を押し留めた。


「それから。せめて、ムジナの最期の瞬間を教えて欲しい」


「…………」

 

「色々あったけど、彼がわたしのボスだったことには変わりない。わたしには……例え相手が灰燼龍だろうと、どんなに焦っていようとも、ムジナほどの探索者ダイバーがモンスターに負けて死ぬだなんて想像もつかないよ」


 滔々とこぼすメイの言葉を最も理解しているのは、ムジナと一番長く共にいたサフラ自身である。そんなこと言われなくても、あんたよりよっぽど、分かってる。共感混じりの激しい憤りが内心で渦巻き、そして全く堪えることもできずに噴き上がって、再び彼女の口を開かせた。


「……ええそうよ。彼がモンスター相手に命を落とすだなんてあり得ない。あんたなんて居なくたって、私達だけで灰燼龍くらい倒せるのよ!」


「っ」


 ムジナの死の委細を、メイは知らない。それどころか、恐らく『パイオニア』のごく一部のメンバーしか。

 ……をするとは思えない。けれども自分を殺害しようとしたサフラの狂気を鑑みれば、なにかの間違いで起こり得ないとは言えないのではないか。そう頭の片隅にあった一つの可能性が、真実味を帯びていく。


「私達の『パイオニア』にあんたは必要ない!体を張ってムジナを支えてるのはこの私だった!!なのに……」


 ナイフを逆手に持ち替えたサフラが、ライダースーツのジッパーをへそ辺りまで下ろし、前をはだけた。胸元を覆うインナーの下、腹部にはまだ新しい傷が大きく横に走っている。きちんと治療をしていないのか、その傷口は膿んでいた。


「……怪我をした私に彼は、救急キットを投げ渡してきただけだった!こっちを見向きもしなかった!!馬鹿みたいに長いワイヤーを準備するのに必死で!!!」


 叫び、その勢いであばらの浮いた腹部が揺れ、血と膿の混ざり物が一筋たれる。


「その時に気付いたのよ。あんたが助かろうが助かるまいが、あの人の視界に私はもういないんだって」


 ──だから、刺したの。


 一転して静かに、サフラは決定的な一言をこぼした。

 視線はこちらを向いたまま、けれどもメイには、その紫黒の瞳にはなにか別のものが映っているように思えた。


「ナイフを突き立てた瞬間……本当に久しぶりに、ムジナは私を見てくれたわ。私だけ。あんたじゃない。それでそのまま、私の毒で溶けて死んだの」


 それから、他のメンバーも毒で脅して言いなりにし。そのうえで最後にすべきこと──メイの死を確実に見届けるという一点のために『パイオニア』も、癒着に近い関係にあった『ダイバーズギルド』も救助から手を引かせた。配信に齧り付いて動向を観察。そのまま深淵層で死ぬなら良し。万が一地上に戻ってきたら、そのときは。


「何をしてでも殺してやるって決めてたわ。私から全部を奪ったあんたを」


「………………なるほど」


 語り終えたサフラは、再びメイへと焦点を合わせた。完全に狂ってしまっている。そう断じ、対するメイはスッと目を細める。色々な廻り合せの悪さもあっただろう。かつては肩を並べた同僚がこんな姿になってしまったことに、僅かながらの憐れみすらも湧いてしまう。しかしやはり勝るのは、そんなもの燃やし尽くしてしまうほどに大きな怒り。


「べらべら喋ってくれてありがと。ねぇ、マリ?」


 突然に、メイの口調がいつも通りのそれに戻る。サフラが苛立ちに顔を歪め、そして声を受けたマリが──


 

「!?」


 ──サフラの背後から、幾筋もの触手を伸ばした。



 抵抗されるよりも早く両手足を縛り上げながら、毒入りの小瓶を繊細な触手遣いで取り上げる。右手のダガーも同様に、毒の塗られた刃には触れないように奪取。そのままサフラを地面に引き倒してさらに徹底的に全身を拘束し、残った何本かの触手を顔面へと突き付けた。音も光もなく、さながら闇の中から溶けいでたようなその見事な手腕に、メイがにぃっと笑う。


「──な、なんでっ……!?こいつはそこに……っ!!」


 数秒のうちに見下される立場になったサフラが、床からでもかろうじて見えるベッドの丸い膨らみを睨みつけた。そこにいると思っていた触手のモンスターは背後から現れ、では未だベッドに潜んだままのそいつは一体なんなのだと。

 混乱し言葉も纏まらない彼女の前で、メイはこれ見よがしにタオルケットを摘んで捲る。


 

「──えー、というわけで皆さん。以上が『パイオニア』頭目、軽井ムジナの死の真相になります」


 

 先程から絶賛配信状態にあった浮遊カメラが、覆いを取り払われ、その名の通りふわりと宙に浮かび上がった。

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