ドロドロボコボコ

技分工藤

前編 ドロドロ

 ピンクの壁紙と甘い香水の匂い。

 その二つは媒体の問題で表現出来なかった。代わりに、カケアミのかかった部屋の壁紙と、炭素の濃淡で表された空気が普通のホテルではないことを示している。キングサイズのベッドとガラス越しに見える泡の溢れた風呂。それらを備え付けられた一室に二人が入ってくる。

「 」

 一人がセリフを喋る。片方が答える。返事はまだ空白。あとで考える。一人が淫靡に微笑んで、シャワー室への扉に手をかける。あれ? シャワー室の扉ってガラスなのか? 耐久性とかどうなんだろ。とにかく扉の奥へ消えてもらう。ガラス越しの陰に体のシルエットが映り、いやちょっと待て。更衣室までガラス張りなのか? ガラスの向こうに洗濯籠とか置いてあるのか? それは見栄え悪くない? でもリアリティが。空白の大ゴマの上で鉛筆がふらふらと戸惑う。ラブホテルのシャワー室は完成しないまま、頼りない鉛筆の下書きが圧迫感を伴ってそこにある。知らないもの、見ていないもの、体験していないものは描けない。

 実際はどうなっているんだ?

「描けない!」

 僕は自分が描いたページを投げ捨てた。



 漫画研究部の部室は散らかっていた。百均で買ってきた組み立てマットの上に棚に入らなくなった漫画本が積まれて置いてある。風通しの為に開けた窓から夏の殺人的な日差しが雑誌の表紙を焼いて、ついでに僕と原稿を焼いている。無力感に苛まれるまま、身を焼かれるに任せる。知らないものは描けない。描けないなら描けない。何もかも投げ捨てる気分でそのまま天井を眺める。視界の端にキラリと鋭い光が見えた。銀色のピアスだった。


「なにやってんの」


 訝しげな顔をしてマハラが部室に入ってくる。僕は思わず顔をしかめた。

 マハラは名簿上はこの大学の漫画研究部の部員ではあるが、僕は部室のマンガを読むためだけに入部したのではないかと疑っている。なぜってマハラはどう見ても陽キャだったからだ。髪の色こそ染めていないが、黒ベタみたいな艶の髪質は絶対トリートメント使ってる。毛先の柔らかくうねった気取った髪型は、僕が想像するいかにも女殴ってそうなヤツの頭だった。ピアスもしている。

 マハラは僕に不審な目こそ向けたが、静かにマットの上に座る。無視されたような気がして、僕も机に向かって座り直す。誰かが側にいる時に創作行為をするのは気恥ずかしくて、鉛筆を握ったまま所在なく足を組む。マハラは無言で何かのページを捲っていた。真剣に読んでいる様子だ。

「これの続きどこ?」

 素っ気なく尋ねたマハラの声に、仕方なく振り向く。どうせ鬼滅か呪術の単行本だろう。マハラの手元に目を向けた。その目が飛び出る程驚いて再び大声を上げてしまう。

「僕の!」

「えー、これめっちゃおもしろいじゃん」

 僕にとってヘラヘラと笑って見えるマハラは原稿を無遠慮に捲る。

「勝手に見るなよ!」

「作品って見るためのもんじゃねぇの」

「いや、そうだけど。うん……」

「続きはどうなんの?」

 興味を示したマハラに、僕は苦虫を嚙み潰したような顔を装って答えた。

「まだ描けてない。描けないんだよ」

「なんで描けねぇの?」

 無邪気なマハラの言葉に僕は振り絞るようにして声を出す。

「ラブホテルに行ったことがないから、背景のラブホテルが描けない」

 マハラは心底理解出来ないという顔をして、安直に、しかし芯を食った答えを返す。

「実際に行ったら良くね?」


 無理に決まってるだろ。


 言葉にはしないけど。

 お前みたいな陽キャには絶対分からない話だろうけど。お前みたいなデリカシーのないチャラい男には理解出来ない話だろうけど! 無理なんだよ! 喉からドロドロと吹き出すような怨嗟と嫉妬と恐怖の声を吐き気と共に飲み込む。


「いやー、カノジョがいないと行けないよね」

「そうかぁ?」

 そうに決まってるだろう。大学生はディズニーランドとスカイツリーとすみだ水族館にはカノジョが居ないと行けないんだ。カノジョが居ないと大学生は人生のライフステップを踏み外し陽の当たる場所では生きていけない。ホントか? 少なくとも僕だけでは行けない。一人で長い列に並ぶ勇気は生まれてこの方持ち合わせていない。

「カノジョ欲しいん?」

 気軽に尋ねたマハラに、僕は目を閉じ固く歯を食いしばって答えた。

「欲しい……!」

 カノジョというかコミュニケーションの相手が欲しい。過不足なく言いたいことが言えて、聴きたいことが聴けて、しかも互いに愛し合えている都合のいい存在が欲しい。欲しい。

 しかし、そんな人は簡単には


「じゃあ、一緒にナンパ行こうぜ」

「は?」

「俺もちょうどフラれてちまってさぁ。新しいカノジョ欲しいとこだったのよ」

「は?」

 「次の日曜空いてる?」と遠慮なく尋ねるマハラ。僕は正直に言えば、軽度のパニックに陥っていた。カノジョが欲しいからつくるなんて考えたこともなかった。ナンパなんて手段は僕とは関係ない陽キャのすることであって、そんなことは文字通り軟弱で軟派ナンパな行為であると嫌悪していた。ナンパはマンガの中では悪者がすることで、ヒロインはいつもそれに困っていて、主人公はいつもそれから助ける側であるべきで。

 しかし。

 僕は、「空いてる」とだけ答えた。




 待ち合わせ場所の都心駅のトイレで、僕たちは最後の身だしなみの確認を行っていた。

「そうそう、フルネームを教えてもらったら、なるべく名前を呼ぶ方がいいぜ。親しさを強調できて相手の距離感に踏み込めるから必須テク」

「うーん……?」

 洗面所の鏡で並んだ僕らの姿を見せつけられる。イマイチな僕とは違って、マハラの容姿はキマっているの一言だった。黒いシャツとズボンが逞しい体のラインをピッタリと描いている。その上に羽織った白いパーカーが隆々としたシルエットにひと匙の柔らかさを加えている。崩されたカッコよさ。危なげな魅力がなんとなく男の僕にも感じられる。右の耳にはギラギラと輝くピアスが下がっている。トゲトゲした銀のピアスは太陽を模して、触れられて傷つけることを露ほども恐れていなかった。

「僕、邪魔じゃない?」

「んなことねぇよ。ちゃんと理由があってだな」

 マハラは僕を手招いて、外の雑踏へ連れ出す。天気は晴れているが、ビルの陰に不穏な雲が見える。都心の駅周辺は気が滅入る程の人だかりで、僕は早速人酔いで気分が悪くなっていた。

「ナンパするなら二人の方が都合がいいんだ。まず、ナンパは基本的に女性二人連れを狙う。一対一で話しかけると警戒される。が、二人でいる時に話しかければその場に知り合いがいる安心感があるから女性の方も話しやすくなる。んで、女性二人に数を合わせるために男性二人で話しかける。都合がいいだろ。だから、サトルが邪魔なんてことねぇよ」

 嘘くさいな、と思った。多分、別の本意が隠れているんだろうと直感した。別に言葉にしてなんになるわけでもないのでただ頷いて返した。僕だって言いたいことを全部言っている訳ではない。


 ナンパは駅前の犬の銅像のある広場で行われた。

「えー、めっちゃ可愛いね、お姉さんたち。今ヒマ?」「えー、綺麗だね! どう? 時間ある?」「えー、イケてるじゃん、ちょっと食事でも」

 マハラの手口はSNSのスパムを連想させた。兎に角数を打つ。そしてひたすら褒める。陽キャのマハラが一人でやれば悪くない作戦だけど、隣に挙動不審陰キャがいるのが宜しくない。僕のせいで、確証はないけど、電話番号の一つも手に入れることが出来なかった。そもそも、マハラが明るく慇懃に話しかけた時さえ、怯えてしまった女性の姿を見て、僕はナンパが出来ないと確信した。初手で心が折れてしまった。


 疑問には思って、ただしそれを口に出すのも躊躇われて僕の言葉は具体性を欠いた。

「これ、どうだろう?」

 時刻は昼飯時になった。スーツ屋とオフィスビルに囲まれたマックの店舗は狭い。もちろん二人用のテーブルも同様で、二人のトレーを置いただけで狭苦しい。この街は陽キャの街で、僕の足の踏み出す場所はないと言われている気分だった。

「これ? えー、めっちゃ美味い」

 マハラはマックシェイクを手に取り、ストローから啜って見せる。そうじゃない、伝わっていない。

 伝えるってめんどくさいな、と思いながら輪郭を探るように声を出す。

「えっと、僕たちはナンパをしてるわけだよね」

「ん」

 マハラはベーコンポテトパイにかぶり付く。

「なんか、嫌な感じしない? なんというか、ほら、全然知らない男の人が話しかけてきたら怖らせる、みたいな」

 対して、マハラは厚いビーフバーガーに歯を突き立てて、平然と答える。

「そんなん気にしてもしゃあなくね?」

 肉を貪って、特に悪びれる様子もなく続ける。僕はサラダをフォークでつつきながら話を聞く態勢に入る。

「俺、あんま悪いと思わないんだよな、そういうの。しゃあねぇしキリねぇじゃん。例えば、『あ』って言われたら嫌な人が居たとしてさ。『ありがとう』、も『あっ、ごめん』も言えないことになるじゃん」

「…うん」

 あまり納得していないがとりあえず頷く。

「コミュニケーション取るだけで暴力的だ、って思われるんなら。コミュニケーションが暴力なら、さ。俺はじゃあ殴ることを悪いとは思わねぇし、それに躊躇はないんだよな。それで殴られても全然後悔ないぜ」

「…あー」

 どこか刺々しい振る舞いに合点がいって、今度は賛同の返事をする。僕の納得はマハラ本人に伝わった様子はない。別にいいけど。

「カノジョに振られたのもよく分かんねぇんだよな。あんたは変態だ、異常性癖、殴りたいみたいなことみんなに言われてさ」

「んごっ」

 レタスが喉に詰まった。そうだよね、モテて、カノジョが居るならそういう話も出るよね。僕は噎せて咳き込むばかりで本音は言えない。

「あっ、悪い。俺めっちゃ喋っちゃった。良くないよな。えー、めっちゃ聞き上手じゃん、サトル。礼にこれやるよ」

 マハラは僕のトレーの領域に踏み込んで、脂ぎったナゲットを置いていく。あまり嬉しくないが、そういう奴だという納得は得られた。



 午後からのナンパは予定調和の失敗を繰り返している。夕焼けの橙が天蓋を覆い始める。

 僕たちは賑わった交差点から離れて、飲食店の多い商店街の方に移動していた。

 実際、僕はやる気を無くしていた。マハラとは違って、僕は怯えた目で見られるのすら耐えられない。無辜の他人に暴力性を伴って一歩を踏み出す勇気は持てない。対して、マハラは他人に踏み込むことを恐れない。僕はその精神構造にある種の尊敬を覚えるようになっていた。「もういいんじゃない」僕の気弱な発言に、ハマラは意外と寂しそうにぽつりとこぼす

「オマエのマンガ、続きが気になるんだよな」

 隠れた本意が滲む視線をこちらに向ける。けばけばしい看板に目を向けながら、答えが返せないことに胸が痛む。

「じゃ、こういうのはどうだ」

 すれ違うサラリーマンの千鳥足を真似るように、マハラは危ういステップを踏んで説明する。

「名付けて『赤鬼作戦』。シンプルだ。俺が一人で歩いてる、気弱そうな女性に酔ったふりして付きまとう。そこにサトルが颯爽と飛び出してきて、ほどほど騒ぎを起こしたら、俺がこうする」

 ふざけたようにマハラが自分の頬を二回叩く。

「そしたら、オマエがバチーンと俺をぶん殴る。俺がすごすごと退散して、後は女性とその恩人の運命的な出会いが演出されるという寸法だ」

 マハラの瞳が僕を見る。髪と同じ黒ベタの瞳の奥には、何もないような空虚が。いや、そうじゃない。インクの黒に似たドロドロした感情がたっぷりと澱んでいて、僕の怨嗟と嫉妬と恐怖に似た濁りが溜まっていた。その黒色を見て、あぁ、もしかしてと思った。

「クズのやり口じゃん」

 僕は思ったままを口にする。言葉に出来る。

「昼間の話で伝わらなかったのか?」

「意外と伝らないんだよね」

「マハラはクズだからさ、今日くらい殴られた方がいいんじゃない?」

「ボコボコに殴られろってことかよ」

「それは違うなぁ。なんだろ」

 路地裏から見える空は都会らしい星のない漆黒だった。そのタールみたいな夜空が酷く今の気持ちに似合っていて、今日しか出来ないことがあるような気がした。思いつくままに、僕はマハラに呼びかける。


「喧嘩しない?」

 

 突拍子のない僕の言葉に、ケラケラとマハラは笑う。


「えー、おもしろいじゃん」


 マハラは長い人差し指をゆっくりと動かして、見せつけるように頬に寄せる。静寂の中で確かに、とん、とん、と皮膚を叩く音が聞こえるようだった。


「出来んの?」


 僕は可笑しくなって微笑む。変な話だけどさ。出来ちゃう気がするんだ。お前は他人を暴力に晒すことを厭わないヤバい奴みたいでさ。でもその宿痾に、僕は救いを見つけちゃったんだ。

 お前は殴られてもしょうがない悪役で、それなら、僕は初対面の女性よりお前とコミュニケーションがしたいって思っちゃたんだ。これは許されるかな?

 僕の姿はみっともないよなって自分で卑下しながら。

 それでも僕はお前に向かう。

 一歩踏み出して

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