1-6 大家さんの話

 その日の昼過ぎ。

 有瀬ありせくんに買ってきてもらったカップ麺を昼食にした後、私は愛車の中で一服していた。

 シトラスの香りとピリッとしたメンソールで、寝不足気味の頭が覚醒する。


 自分に毒を与えるのは、生者の特権だ。自ら望んでその選択肢を取る。

 なぜならそれが救いになり得るから。

 甘い毒なら、なおさらいい。

 私たちはいつだって揺らぎの中で生きている。一線を越えるか越えないか、ただそれだけだ。


 吸い殻をダッシュボードの灰皿に捩じ込んで、車を降りる。

 ちょうどその時、アパートの横に一台の軽が駐まった。運転席から出てきたのは六十歳前後のややぽっちゃりした女性だ。

 その人は私の姿と車の側面のロゴを認めると、声をかけてきた。


「あのぉ、お宅、大黒だいこく不動産さんに依頼した件の……?」


 元請けの名前が出て、合点が行く。このアパートの大家さんだ。

 私は硬質な笑みを作った。


「ハウスクリーンサービスの無量むりょうと申します。この度はご依頼いただき、ありがとうございます」

「えぇ、よろしくお願いしますね。ちょっと草むしりの用事があったもんで……意外と若い方なのねぇ」


 まぁ、様子を見に来たんだろうな。


「昨日の午後から203号室に入らせていただいております。既に鍵の開く現象やラップ音などを確認しました。数日のうちにはが済む見通しです」

「そうですか」


 除霊師などという職業は、その手の感覚を持たない人にとって、本物かインチキかを見抜く術すらない怪しい存在だ。不動産屋が間に入っているからこそ得られている信用なのである。


 私は微笑み、声のトーンを和らげた。


「ご心配ですよね、防犯上も問題がありますし。入居者の方にもご安心いただけるように根本から祓いますので、少しお時間をいただきます。どうかお任せください」

「あらぁ……」


 大家さんの瞳が、ぱぁっと輝く。


「そうっ、そうなのよぉ、ちょっと怖くてねぇ。でもプロの方に来ていただけたなら安心だわ。よろしく頼むわね。ところであなた、あの子に似てるって言われない? 女の子に言うのは失礼かしら、ほら、あの韓国の——」


 K-POPのグループの誰それの名前が挙がる。誰だか分からないけど、言わんとすることは分かる。

 私はやんわり肩をすくめて適当に受け流し、話題を変えた。


「お隣の204号室まで使わせていただいて、ありがとうございます」

「いえいえ、このところ空き部屋がどんどん増えちゃってねぇ。誰かに使ってもらった方が空気も抜けていいのよぉ」


 大家さんはすっかり警戒を解いたらしい。おしゃべり好きそうな人だ。


「お隣はいつから空き部屋なんですか?」

「ここ二ヶ月くらいよ。ご結婚されるとか言って出ていかれたけど。心霊現象の起こる部屋の隣だと、やっぱり気になったのかもしれないわねぇ」

「隣だと、ラップ音が響いたりとか結構ありますからね」

「えぇ。204に入ってた方、男の人だったけど、そもそもちょっと神経質な方だったみたいでねぇ。一年半……いや、もう少し前だったかしら、隣の物音が気になるって言ってこられたことがあって」

「一年半より少し前に? 204の方が?」

「そうよぉ。だから全室に騒音注意の手紙を入れたわよ。恥ずかしいことだけど、うち壁が薄いから時々あるのよね、そういう苦情」


 204号室は二階の端。隣と言えば203号室しかない。苦情があったのは203の主が自殺する少し前ということになる。


「203号室で亡くなった方のことをお伺いしても大丈夫ですか? お話しいただける範囲で結構です。の参考にしたくて」

「あぁ……何日か無断欠勤があったとかで、様子を見にきた会社の人が通報して、私が立ち会って玄関開けたのよ。まさかあんなことになってるなんてねぇ」


 大家さんは眉根を寄せている。当時の様子を思い出しているのだろう。


「その方、ストーカー被害に遭ってたんですよね」

「鍵の交換をしたばっかりだったのよ。勝手に何回か玄関の鍵開けられたって言われて」

「部屋の中に入られてたってことですか?」

「うーん。なんか、物の位置を変えられてた?とかなんとかで」

「それで鍵を交換したすぐ後に、亡くなっていた?」

「そうよ」

「時系列的には、騒音の苦情の後にストーカーの話ですかね」

「そうそう。あの頃は立て続けにいろいろあったのよねぇ」


 これはどういう因果か。


「もしかして、お隣同士で何かトラブルでもあったとか?」

「それがよく分からないのよ。結局自殺ってことで警察の方も話がついちゃったから……それ以上のことはもう、ねぇ」


 少なくとも直接的な他殺の証拠は何もなかったということだ。


「大家さんの印象ではどうでした? 女性の一人暮らしなら、さぞかし怖い思いをされてたでしょうね」

「ちょうどうちの娘と同じくらいのお嬢さんでねぇ。私も引っ越しを勧めたんだけど、駅が近くて出勤に便利だからって。どうもブラック企業勤めだったみたいで、ずいぶん疲れた様子だったのよ。それでストーカー騒ぎでしょ? 可哀想に、厄介なことから逃げる気力もなかったのかもしれないわねぇ……」

「そうだったんですね……」


 そもそも彼女は日常に追い詰められていたのだ。苦情の入った騒音も、深夜や早朝の時間帯での生活音が響いたせいかもしれない。

 積み重なったストレスの中、自宅周りのトラブルがになってしまった可能性はある。


「そうだ大家さん、心霊現象とは違うんですが……203のクローゼットの奥の壁に、穴が空いてるのを見つけまして」

「えぇっ? 本当?」

「確認していただけますか?」


 大家さんを伴って203号室へと戻る。

 部屋では、派手なチャラ男がくつろいでいた。

 大家さんがギョッとしたような顔をしたので、私は内心で焦った。


「あぁすいません、彼は私のアシスタントです。壁の穴を見つけたのも彼です。有瀬くん、こちら大家さん」

「大家さんすか! こんちは!」

「まぁ! 元気のいい男の子ねぇ」


 デカい挨拶と人懐こい笑顔は、一瞬で彼女の心を掴んだらしい。いいぞ有瀬。


「問題の穴はここです。角度によっては隣の部屋が見えてしまうんですよ」

「やだ、気付かなかったわ。何年か前に壁食い虫が出て駆除したんだけど。こういうのも入居者さん同士のトラブルの元よね」

「あっ、大家さんもそう思います? 俺も隣の人がストーカーだったんじゃないかって思うんすよー」

「うーん、どうかしらね。今更どうにもならないけどねぇ……何にしても、ここも埋めてもらわないと。教えてもらえて助かったわ」


 大家さんはスマホを取り出し、穴を撮影する。スマホには、ストラップよろしく御守りがぶら下がっている。

 見覚えのある御守りだった。


「あの、その御守りって」

「えっ?」

「いえ、スマホに御守り付ける方も珍しいなと」

「あぁ、これね。私、御朱印集めが趣味で。ついでに御守りもよく買っちゃうのよねぇ。あっ……そういえば私、あの子に御守りあげたのよ」

「あの子って、この部屋に住んでた?」

「そうそう。すごく思い詰めた顔してたから、ちょっとでも気休めにならないかと思って。でも結局すぐあんなことになっちゃって、ご利益なかったわね……」


 大家さんの声のトーンが落ちる。

 この部屋が事故物件になった不運よりも、自分の娘と同じ年頃の女性が自殺を選んだショックの方が大きいのかもしれない。


「彼女が残した無念、きちんと浄化します。このままでは彼女の魂も苦しいでしょうから」

「えぇ、お願いするわね」


 ……大家さんのくれた御守りが彼女の負の記憶の中に残っていたのは、どういうことなのだろうか。



 その後、アパートの敷地内の草むしりを二人で手伝った。

 朗らかでよく働く有瀬くんは大家さんに大層気に入られ、一口チョコやらチーズおかきやらのお菓子をたくさんいただいた。


 早めの夕飯は、車で十五分の距離にある餃子が有名な中華のチェーンにて。

 カウンター席で肩を並べて座り、私は餃子とニラ肉炒めと小ライス、有瀬くんは餃子と鶏の唐揚げと炒飯の大盛りを頼んだ。


「あー餃子うめえ。さすが王とか将とか名乗ってるだけあるー」

「ねー。ビール欲しい」

「無量さん呑む人すか」

「まぁそこそこね。有瀬くんは?」

「俺、下戸なんすよ」

「へぇ」


 ニラともやしと豚肉を一緒に咀嚼する。醤油ベースのタレともやしのシャキシャキ感が美味しい。餃子のニンニクも、肉体労働後の身体にやたらと染みる。


「しっかし、204の人のことは気になりますねー。物音にイラついて、203の人に嫌がらせしたのかも。針金テクがあればピッキングできるし」

「可能性の一つではあるね」

「で、鍵を変えたせいでピッキングできなくなって、ムカついて強硬手段に出たとか。やっぱ壁の穴が怪しいっすよ。針金トリックの密室殺人説、あると思います」

「今回の件に直接関係あるかはともかく……あの穴、見つけてくれて良かったと思うよ。依頼者さんの心証も大事だからね」

「マジすか! えへへっ」


 それにしても。


「うおお、餃子マジうめえ! 無限に食えるっ! 生きてて良かったー」


 だんだん有瀬くんのペースに慣れてきている自分は、時間と共に変化していく「生きている」個体だなと、妙な実感を持つ。


「毎回外食やコンビニってのが結構キツいっすね。自炊できたらいいんすけど」

「それも面倒だよ。数日しかいない部屋だし」

「ちゃんと数日で解決できそうな感じっすか」

「うん、もう少しで何か掴めそうな気がする」


 大家さんからの情報で、ピースが揃ってきた。後は私自身が部屋の主の魂を上手く捕えるだけだ。


 食事を終えて、部屋に戻る。


「あ、また鍵開いてる」

「律儀っすねー」


 ドアを開けて中へ入れば、パチンとラップ音。


「……部屋の中、念の気配が濃いね」

「やっぱ幽霊の人、ここにいるんすね」


 止まったままの死者の時間。真実は、その中にある。

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