君に少しの温もりを

時燈 梶悟

プロローグ

 走る、走る、走る。


 頬に滴る汗が、首筋まで伝う。その汗を拭う時間さえ惜しく、いささか不快な感触が首筋を這うが、今はそれを気にしている余裕なんてない。


 身を切る風が心地よい。必死に走って火照った身体をひんやりと冷やしてくれる。


 普段吹いている向かい風なんてものにメリットなんてありはしないと思っていたが、こうも全力で走ると案外捨てたものじゃない気もしてくる。


 しかし生憎、今はそよ風に身を委ねその恩恵を受けている時間はなかった。


 息を切らせながらも必死に走っている。

 少し靴底が厚めの、そのせいで若干走りにくくなっているスニーカーで無我夢中にアスファルトを蹴る。


 一体どれだけ走っただろう。

 アスファルトの硬い感触が足に染み付いていて、足の痛みももう感じなくなっていた。


 辺りの景色が、何故かゆっくりと感じられる速度で後ろへと流れていく。


 燃えるような夕日に飲み込まれ始めた街の景色は、いつも見てきた街とは一風変わった儚い雰囲気を醸し出していた。


 辺りが柔らかな朱色に塗れている景色の中、もう意地だけで足を動かしている。


 とっくに限界なんて迎えている。それでも、今足を止めてしまっては、守るべきものが、自分の手のひらから零れ落ちることになる。


 元々、足が早い部類の人種ではなかったが、明確な目的があれば、人間というのは通常よりも多くの力を発揮できるのかもしれない。


 などと考えながらも目的の場所へと一刻も早く辿り着くようにただひたすらに走る。

 ただ、その場所が正解という確証はなかった。


しかし何故か、あいつが居るならそこしかないという妙な勘が働いた。

 それでも今は、その勘に頼るしか方法はなかった。


 あいつの考えることは、長い付き合いなのである程度は分かっているつもりだ。

 

 どうか、間に合ってくれ......。

 まだ大丈夫だろうか......?いや、絶対に大丈夫だ。間に合わせるんだ。


 自分の心を支配し始めている巨大な不安を追い払うように、自分に何度も言い聞かせる。


 もう二度と、大切な人を失いたくない。これ以上、人生のどん底には落ちたくなかった。


 ほんの僅かな希望だけを胸に抱き、足が千切れそうになりながらも感情だけで足を動かしている。


 身を削り、息を切らせ、全身の感覚が無くなるまで走り、やっとの思いで辿り着いたその場所は、僕が通っているとある公立高校だった。


 肩を揺らし、酸素を急いで取り込みながら、こちらを招き入れるように開け放たれた門を抜ける。


 酸素が足りず、頭にズキズキとした痛みを感じる。

 早く、屋上に行かないと..........。


 屋上にはフェンスがあるが、老朽化しているし、そもそも腰までしか高さがないため、フェンスとしての役割を果たしていなかった。


 そのため、よく先生から「屋上には近付かないように」と注意喚起がされていた。


 しかし、やはり屋上というものに憧れがあるのだろうか。それだけではなく、6階以上からの眺めというのは普段見れない人が多い。それ故か、それとも弁当ついでなのか、何度も屋上に行った輩がいくらかいたらしく、暫くすると屋上へと続く階段は封鎖されてしまった。


 封鎖と言っても、鍵で施錠された訳ではなく、屋上へと出る扉の前に大量の机を設置しただけだった。そのため、屋上に出ようとすれば出れたのだが、わざわざ多大な労力を消費してまで屋上へと出たがる馬鹿はいなかった。


 しかし、それは『つまらない理由で屋上に出る人』の場合だった。本当に屋上に用事があり、本当に屋上を必要としている人間に対しては、脆弱な机のみで形成された障壁だけではあまりに無力だったのだ。


 だからといって、きちんとした対策を設けなかった学校側に全責任があるのかといえば、そうでもないだろう。


 では誰が悪かったのだろうか?

 誰も、悪くはないだろう。いや、悪くはないはずだ。


 ──なにやらグラウンドが騒がしい。


 校門をくぐり抜け、初めに抱いた感想はそれだった。僕は部活に所属している訳ではなく、普段のグラウンドの賑やかさなどは知る由もないが、恐らくこの喧騒は部活で青春を謳歌している時の声ではなかった。


 一瞬、体が強ばるのを感じた。思い当たることがあった。しかし僕は、その可能性をはっきりと認識したくはなかった。だから僕は、必死に自分の考えを否定し続けた。


 しかし現実は、あまりに非情で。そんなことはとうに分かっていたはずなのに。


 違う!これは僕の思い違いだ......絶対に。

 僕みたいな人間にも、ささやかな幸福があってもいいのではないかと。


 幸福なんてものは無くても、せめて、笑って過ごせる毎日があってもいいのではないかと。

 きっとこれからは、そんな風に暮らせるはずだと。


 そんな、なんの根拠もない思い込みを信じてやまなかった。

けれど現実は残酷なんだと改めて認識させられた。


 だって、ほんのささやかな願いすらも、叶いやしないんだから。


 もしも──。もしも、そこに敷かれているのが土だったら。もっと、柔らかいものだったら。


 もしも、僕がもっと早く学校についていたら。


 今、目の前に広がっている景色に、何か違いはあったのだろうか?


 いくらそんなたらればを考えようと、答えは分からない。


 だってそうだろう?今更、どうしようもないのだから。


 僕がグラウンドを見た時、初めに目に飛び込んできたのは、正面玄関前に出来た人集りだった。


 そしてその人たちの隙間から見えてきた景色は、目を刺すように鮮烈で、まるで水彩絵の具を垂らしたかのように錯覚するほどに鮮やかな


 ──赤い、赤い海だった。

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