第4話 それからの日課

「あら。またあなたいらしたの」

「随分な言い草だな。私の勝手だからいいだろう」

 

 ジャックがやってきてから十日が経った。その間、一日の始まりに牛乳を買いに行くサラを迎えにくるのが、彼の日課となっていた。はじめのうちは居心地の悪かったサラだったが、ジャックの顔を見るのももう慣れてきた。

 

「まあ。それはそうだけど」

「さあ、それを」

「そんな。毎回悪いわ」

「黙って差し出せ」

 

 おずおずと空になった牛乳缶をジャックへと差し出す。満足そうにそれを受け取ったジャックは「では参るぞ」と広場へと向かった。

 

 広場へと到着すると、柱の陰から二人の様子を見守る男たちがいた。以前ならばサラへ挨拶していたのだが、気安く話しかけることができなくなった。サラの隣にはいつもジャックがいるのである。話しかけようとした素振りを見せるだけで軽く睨まれるのである。

 

「サラ。ジャック。おはよう!」

「ごきげんよう、ブリス」

「おはようございます、ブリスさん」

 

 そんなわけでサラとジャックに気安く話しかけることができるのは、ブリスくらいであった。

 

「今日も美味しい牛乳はあるかしら」

「ああ。今日もとびきりうまいぞ。今日は美味しいトマトも採れたから、後でアメリーが持ってくる」

「まあ。いつも持って来てもらって悪いわ」

「なあに。いつもちゃんと料金をもらっているだろう」

「それはそうだけど」

「女の一人暮らしは何かと大変なんだから甘えておけ」

 

 ジャックにまでそう言われると、サラは閉口するしかなかった。

 

(この人。口は悪いけれど甘やかしてくるのよね。どういうつもりなのかしら)

 

 ゆっくりと端正なその顔を見上げると、翡翠色のその瞳もこちらを向いていた。はっとして思わず目を逸らしてしまう。

 

「なんだ?私の顔になにかついていたか?」

「ええ。目と鼻と口がね!」

「綺麗な目と鼻と口の間違いだろ」

「自分で言う?」

「綺麗なものは綺麗と真っすぐに言う性質でね」

「なにそれ」

 

 笑おうとしたところで、ジャックが「少しすまない」と詫びを入れると、颯爽と噴水のところへと駆けていってしまった。ブリスとサラは何があったのか分からずジャックをただ視線で追う。

 

 何をしているのかと凝視すると、ジャックは噴水の中から赤ん坊を引き上げた。どうやら母親が目を離した隙に落ちてしまったらしい。広場にはぎゃあっと一際大きな赤ん坊の声があがる。その声を耳にしたのか、どこからか血相を変えた女が走ってジャックの元へとやってきた。

 

「赤ん坊を放って何をしていた!死ぬところだったぞ!」

 

 ずぶ濡れになった赤ん坊はジャックの腕の中で泣いている。

 

「すみません、すみません」

「私ではなくこの子に謝れ」

 

 厳しい口調ながらも、ジャックは優しく赤ん坊を女の腕の中へと渡した。

 

「それで。どこに行っていたのだ」

「……」

 

 女はむっつりと黙りこくってしまった。それを見ていたサラはゆっくりとそこへ近づく。

 

「どうしたの?」

「あ、ああ。実はこの女が目を離した隙に赤ん坊が噴水へと落っこちてしまったのだ。それでどこへ行っていたのか聞いているところだった」

 

 サラが女へと目をやる。見たところ、サラより少し年上くらいの若い女だ。普段は畑仕事でもしているのか、肌は真っ黒に焼けており爪には土汚れが付着していた。噴水の脇にはその女の荷物らしきものがそのままになっている。野菜を売りにやってきたのだろう。

 

「大変だったでしょう」

 

 サラが優しく話しかけると、唇を真一文字に結んだ女はびくりと肩を震わせた。

 

「赤ん坊を抱えてここまでやってくるのは、大変だったでしょう」

 

 サラは腰を屈めて跪くと、女の足元を優しく撫でた。女は靴を履いていたがボロボロだった。靴の裏は破れているのだろう。靴には少し血も滲んでいる。

 

「っ!」

 

 女は声にならない声をあげて、人目をはばかることなく大粒の涙を零した。

 

「きっとこの人が行こうとしたのはあそこよ」

 

 サラはすくっと立ち上がると、あるところを指差した。ジャックはその先を視線で追う。そこには人だかりができていた。ワゴンセールが行われている。定価よりも安く帽子やほうきといった雑貨品が売りさばかれていた。その中には靴もある。

 

「私が赤ん坊を抱いているから、貴女は靴を見てらっしゃいな」

「えっ」

 

 女は驚いた。ぼろぼろと零していた涙が一瞬にして止まった。

 

「だってこのままじゃ赤ん坊を抱えて家に帰ることはできないでしょう。安心して。私たちは赤ん坊をとって食うようなことはしないわ。ね、ジャック」

「あ、ああ」

「ありがとうございます。ではこの子を少しだけ見ていてもらってもいいでしょうか」

「ええ」

 

 女はゆっくりと赤ん坊をサラの腕の中へと渡す。わんわんと泣いていた赤ん坊は、母に抱かれてすっかりと機嫌を取り戻していたようだった。サラの腕へと渡っても、泣きわめくことはしなかった。「まあ、いい子」とサラがあやすと、ふにゃりと笑った。

 

「では少し行ってまいります」

 

 女はワゴンセールの方へと走って行った。それを見届けたところで、サラは疑問を口にする。

 

「それにしても。よく赤ん坊が噴水に落ちたことなんて気づいたわね」

「あの女が赤ん坊をここに置いたところから見ていた」

 

 ジャックがポンポンと軽く叩いてみせたのは、噴水の淵だった。そこは大人ならば椅子代わりに腰をかけている場所だ。

 

「荷物を置き始めたのはいいが、赤ん坊はどうするのだろうと見ていたのだ」

 

(そんな常人離れした技ができるなんて……)

 

 サラはただ感心していた。

 

「あなたってきっと、騎士団の中でも優秀なのね」

「ああ。私ほどの腕前は中々いないな」

「まあ。ご自分で仰るのね」

「他人は中々褒めてくれないからな」

「それには同意するわ」

 

 そんな話をしているうちに女が戻ってきた。今後は赤ん坊から目を離さないこと、もし必要なときは誰かを頼ることを言い含めて、女と赤ん坊を帰した。

 

「さあ。私も家へと帰らなくちゃ」

「そうだな」

「ジャックはなにか買い物しなくていいの?」

 

 サラは不思議に思っていた。騎士として命を受けてこの村へとやってきたと話していたはずなのに、騎士団の制服を着ていたのは初日だけだったからだ。今はもうサラと同じように村に溶け込んだ格好をしている。麗しい見目は人を惹きつけるが、その様相は村の端正な青年だ。

 

「ああ。必要なものは揃っているからな」

「そう。じゃあ私は本でも買っていこうかしら」

「本屋に行くのか?」

「ええ。今日は新刊が届いているはずだから」

「どんな本を読むのかお手並み拝見だな」

「まあ。それはこっちの台詞よ」

 

 軽口を叩き合う二人のことを、村人たちは微笑ましく見守っていた。村へと突然やってきたジャック青年に恐れを抱かなかったのも、サラが親しくしていたおかげだった。「お似合いすぎて嫌になっちゃうよな」と呟く男たちの声は、二人の耳に届いていなかった。


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