海の亡霊

TiTO

第1話 名無しの権平

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もし、ひとり

夏日の下に

落とす雨

地に墜つ粒ら

しみも残さず

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上から何かに襲われた感覚、冷たさ、服のベタつき、髪のベタつき、湿気、そうした肌の感覚と驚きに、遂に人間の感情が追いついてくる。ああ、そうか2階から水をかけられたのか、見上げたせいで、口の中に水が僅かに入ってしまった。


「ごめーん、下に誰かいるとは思わなくて」


悪びれる様子ない顔つきで、窓から乗り出した3人の少年がこちらに声をかけてくる。髪についた水が目元につき、風景を揺らす。どうせ怒ったり、泣いたりしても何も意味がない。そう理解して、無表情のまま水を被った頭を振る。ふと、腕についた違和感に目をやる。雑巾掛けした後の水なのだろう、右腕や右肩にすっかり濡れた埃たちがべっとり張り付いていた。埃の中から小さな蜘蛛が一匹、必死に這っている。向こうを見やると、渡り廊下で、女子たちがこちらを見てヒソヒソと笑っている。中にはスマホを片手にこちらを撮っているものまでいた。不快感を覚え、箒を片手に中庭の花壇の前から、グラウンドの水場に移動する。…蛇口を捻る。勢いよく、水が流れ出ると感情が思考が流れ出す。流れ出す感情は激しく流れては消え、流れては消える。激しい濁流の水中が見えないように、それがどう言ったものなのかわからない。聞こえるのは濁流の音と、ただ蝉の声だけだった。


ふっと、腕に目をやる。埃がついたままだ。細い糸によって、肌に張り付いたそれらに強烈な不快感を覚え、水で必死に洗い流した。手に水を溜め、勢いよく口に含み、クチュクチュ…吐き出す。瞬間、力が抜き去ってしまった…、蛇口の捻った手が動かない。寒い、体のうちに何もない。怒りも焦燥も、悲しみも何もかもなかった。肌を指す日差しが、体を少しも温めることはなく、夏の到来を告げていた。水場に頭を突っ込み、洗う。蛇口を何とか両腕を使い必死に閉めた。手、立足、首にすら力がない。どうでも良かった、どうでも良くなった。どうでも・・・。体には相変わらず、熱がない。気がつくと膝から崩れ落ち、手は蛇口をなんとか握っていた。そこからは記憶がない。


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日の光に目を覚ます。煌々としたそれに一瞬呆けてしまう。目を擦り、自分を確かめると、車の後部座席に横になっていた。車もほとんど通っていない道路、信号もない、窓の外を見ると木漏れ日の青い木々が流れいく。車内には曲が流れていて、ナビの画面には、星野源のsamethingと映っていた。運転席では姉が、一緒になって控えめに歌っている。

窓から入ってくる木陰に漏れる陽の光が少し穏やかになる、姉が口づさむ明るい雰囲気の曲が、妙に癇に障って、イライラしてつい、


「止めて」


と口に出る。え?と聞き返してくるが、全く音楽を止める気配がない。自分でもなぜそんなことを言ったのかはわからない。体を起こしてもう一度、止めてといおうと思ったが、開いた口が静止し、なんだか変な声が漏れて、バツが悪くなってそこから先を言うのをやめた。そんな声もやはり聞こえなかったようで、少し笑って無視された。窓の外から木々の匂いが香ってくる。体勢を変え、座席に深く腰を落とし脚を投げて、天井を眺める。時々、道のせいかガクンと車が揺れる。煩わしい…意識を無くそうと、薄く目を瞑るが、覚醒した意識では効果がなく、つい目が開いてしまう。


「ほら、春人。見て。」


姉から促されて、フロントガラスから窓の外を見るとそこには、白波立つ海が広がっていた。キラキラと輝き、刺さりそうなほどの暑さを感じた。砂浜には人がいない。夏休みに入ってもいない今頃の昼間では流石にくる人もいないのだろう。そう思った。

綺麗な海だね〜、という姉をよそに、妙に頭の中で蘊蓄を並べて、日本海なんて綺麗なもんかと捻くれたぼやく心が海を寂しく、つまらないものに見せる。夏の日差しで光る海面もきっと姉と僕とでは全く見えているものが違うのだろう。そうして、また後部座席に腰を深く下ろす。ガーッという音と共に車内に風が流れ込んできた。窓から手を出して運転する姉の、栗茶色の長い髪が僅かに外に出て揺れている。車内の空気が入れ替わる。僕が温めて、停滞した空気が少しづつ外に出ていき、寂しさに少し体を丸めた。


そこから、20分ほど海岸のそばを走った。7月の半ばだと、まだみんな夏休み前で人はチラホラしかいない様だった。それにこの暑さで、みんな家の中に隠れてしまっているのではないかと思った。車が止まる、見慣れた家。そこは祖母の家で父がいた頃は年に何度も遊びに来ていた。たった3年前のことなのに、もう遠い過去のようだった。木造の建物は、祖母一人で住むにはあまりにも広すぎるようにも思ったが、おじいちゃん、お母さん、叔母さんが一緒に住んでいた時にはちょうど良い広さだったのだろう。偶に、寂しくないのだろうかと考えてしまう。


「いらっしゃい」


ガラガラと戸を開けて、玄関に迎えに来た祖母は相意変わらずの綺麗な白髪にメガネをかけていた。後ろ手に少し招いた祖母の背中を追い、居間に向かう。僕たちが荷物を下ろすと、待ってね、今飲み物入れるから、喉乾いたでしょ?といい、台所に入っていく。その間に、僕らはおじいちゃんにお参りに行く。玄関のすぐ横にある仏壇の部屋はかなりの広さがあって、おそらくは祖父の生前の部屋なのだと思う。どういう気持ちなのか知らない、知らないが、その仏壇の横に居間に続く小さな通り道というか、部屋があって祖母はいつもそこで寝ていた。姉が仏壇で手を合わせている間、線香の匂いと机と僅かな置き物があるだけ空間に飲まれていた。音がまるで何もしなくなったような空間は、何だが心地がいい。その心地よさのままに仏壇に向かい手を合わせた。実を言うと、僕は祖父の顔を実際に見たことがない。祖父は僕が生まれる2年前に死んでしまったのだ。僕は祖父を見るたびにこの人は誰だろうと心の片隅で思ってしまう。そして、そんな風に思っているはずの祖父に何故このような清らかな感情で祈っているのか、とんとわからなかった。


居間に戻ると既に祖母が氷の入った麦茶を用意していて、座布団に座っていた。机にはソファもあるのに僕たちがいる時に祖母が腰掛けている姿を見たことは何故か一度も無かった。僕たちは麦茶の置かれたソファに腰掛ける。


「おばあちゃん、久しぶり。」

「穂乃、元気そうで良かったわ、春人も。話は日菜から聞いてるからゆっくりしていきなさい」


何を…聞いたのだろう。どこまで聞いてしまったのだろう…。おばあちゃんの顔を覗き込んでもそこにいるのはいつものおばあちゃんで、孫たちの来訪をただ喜んでいるようにしか見えなかった。針が18時を指した途端、鳩時計が鳴き出す。おばあちゃんはゆっくりと立ち上がる。


「あら、もうこんな時間、お夕飯の準備しないと。…穂乃、あなたの部屋は2階の洗面台の奥部屋ね。荷物置いたら手伝って。春人は、広いだろうけど大部屋1人で使ってね。」


姉ははーいというと、部屋に荷物を置きに向かう。僕もそれに続いて、2階の大部屋に向かう。この家の階段はかなり急で、手すりを持たないと上りづらい、ついこの前までは這って登っていたものだが、背が伸びた今は普通に登れる様になった。これを70を超えたお婆ちゃんは毎日のように登っているのだから信じられないことだ。登った先の部屋、障子を開けた先には10畳くらいの空間が広がる。外のベランダには、洗濯物が干してあって、朝方になると少し日が差し込む。荷物を置くがやはり一人では広すぎる。畳んである布団に携帯を投げ、近くのコンセントから充電器を伸ばした。布団に寄りかかり横になると、広さを余計に感じてしまう。6歳頃には従兄弟たちと5人でここに寝ていたのだが、一人ではこの空間は持て余してしまう。荷物を置いて、物の数分ボーっと、ベランダの外の洗濯物が揺れるのをみていた。


「春人、私はおばちゃんの手伝いするから、外でも散歩してきなよ。天気も今日はいいし、どうせやることもないんでしょ?」


開けたままにしてあった障子の先から、穂乃が勝手にいうだけいうと下に降りていく。ここにはテレビゲームもスイッチもない、確かにやることがないのは事実だ。何も持たないままに玄関に向かう。台所では、姉とおばあちゃんの話し声が聞こえていた。携帯がどうだ、電波がどうだと話している。そうして軽い笑い声が聞こえ、何となく自分があそことは場違いな人間なのだと疎外感を覚え、靴を履き外に出る。風の匂いが違うと感じた、潮風が肌を撫でている、塩だ、塩の匂いがわずかに香った。鼻を引くつかせて普段嗅がない匂いを吸う、子供の頃はこの匂いと花火の匂いが混ざるのが大好きだった。

真っ直ぐに海に向かって坂を5分ほど下ると海に着く。砂浜の外の車道をそって歩くと、夕日が段々と沈んでいくのわかる。向こう、東京では見られない、この光景に少し瞳が潤むのがわかった。道は、オレンジの光を僅かに空に跳ね返している。波音が段々と大きくなるにつれて、意味もなく記憶が引き出される。コツコツとコンクリートを鳴らす音すら消えてしまう様だった。


お母さんはお婆ちゃんの家にくると、みんな一緒に浜辺で沈む夕日を見て、嬉しそうにしていた。僕はわからなくて、どうしたの?なんで笑ってるのなんて聞いたら。誤魔化すように、でもやっぱりわからないやというような困った顔で母はいった。


「うん?ううん、ただね。子供の頃よく辛い時にこうしてたなぁって思ったの、それ思い出したら、ちょっと笑えてきちゃって。」

「そうなの?」

「ごめんね、何でもないの…わからないわよね。そうね、春人も悲しくなったら、波の音に耳を澄ましてみて。親子だものきっとわかるわよ。」


母が亡くなる1ヶ月前のことだった。母が死ぬ間際、多くの人は涙した。病室から離れたところで、若いうちから可哀想だ。子供はどうするんだ。みんな思い思いのことを口にする。何を勝手なことを言ってと、無性に腹が立った。でも親類が泣いたり、怒ったりする中、母はずっと笑顔だった。静かにベットの上で微笑む母の横顔に僕は…あの時見た波の音を思い出した。


「…何にもわからないよ。わかるわけないじゃん。」


波の音を聞きながら、潮に近づきたくなって、段々と体が海岸に吸い寄せられる。砂浜をザクっザクっと踏みしめる音が心地よく、同時に進みづらい足取りになり気持ち悪い。塩のにおいがだんだんと濃く、近づいてきた。太陽は今にも海の向こうへ沈み込んでしまいそうだった。それを見ていると、自分の中に残った最後の火が消えていくようで、悲しくて悲しくてどうしようもなくなる。


手を伸ばしたくなったが、何故か恥ずかしくて、僕は波際で膝を抱えながら、完全にそれが消えてしまうのをじっと眺めていた。日はもうほとんど見えない。最後の一欠片が海に消えると、暗い空はそこを目掛けて段々と色を無くしていった。風が強く吹いている。波が、光を失って音が不気味に存在を伝えてくる


「帰らなきゃ」


立ち上がり、海岸線に背を向ける。砂は相変わらず、足元に絡んできて歩きづらい。必死に歩いて、何とか道路まで上がり、おばあちゃんの家に向かって歩き出す。サンダルに入った砂が何となく気になる…「ねぇ!」と遠く声がきこえ、ついそちらを振り返ると子供達が道路を駆け回っていた。家の窓からは光がさし、扉から出てきた暗い人影が子供達の方へ向かっていく。


「ご飯だよ!」

「はーい!」


僕は今、何を思っているんだろう。わからない、何も、わからない。先ほどまで気にもなっていなかった蝉の音が強く耳の中に響いていた。

つい、ポンポンっと耳を叩いた。


「水入っちゃたのかな…」


思ってもないのについそんな言葉が出て、目を瞑りその場に立ち尽くしてしまう。音を必死に抑えようとするが、音は変わらず大きくなっていくばかりで、頭を振り歩き出す。ふっと遠くに麦わら帽子に白いワンピースを着た女性が海辺を歩いてるのが見えた。首筋を汗が通った。


「暑い」


帰る頃には日も落ちて、真っ暗になっていた。それでも、アスファルトから返ってくる熱をサンダルを履いた足の裏で確かに感じていた。玄関の露出した電球の明かりに蛾やそれらの虫達が集っている。扉を開けると、居間からご飯の匂いがする。


「ただいま」


そういうと、姉の声がこちらまで響いてくる。


「おかえり、出来たから色々運んで。」

「今いく。」


そう言って、靴を脱いで揃えた後、急いで台所に向かう。おばあちゃんはコンロの前で、小皿に味噌汁を入れ、味を見ていた。姉は忙しいそうに、箸やコップやらを棚から取り出し、


「これとこれ、持っていって。」


と簡単に指示を飛ばす。


「わかった。後は?」

「…手、洗った?」

「うん」


出来れば早く終わらせたいこともありそのようにいうと、


「そう、なら運んで。このテーブルのやつ全部ね。」


僕は、箸や皿を持って、今のテーブルに並べていく。黒色の木目が強い茶色のテーブルに段々と食べ物を運ぶ。色彩あざかな炒め物。おばあちゃんは、一つ一つ丁寧に炒めてから合わせる様に作るから、歯ごたえとか、色がとても綺麗になる。


机に、どんどんとものを運び込んでいく。普段食べもしない夏野菜が多いように感じられた。それらを上から眺めて立ち尽くしていると、


「春人、あんたちゃんと野菜食べてる?」


姉が座布団に腰を下ろしながら、問いかけてきた。返ってくる答えがわかっているように、その視線は非難じみている。


「…まぁ、それなりに」

「それなりって、どうせカップ麺ばっかりなんでしょ?」

「うるさいなぁ。ちゃんと取ってるよ。」


そう言いながら、家の中で固まっているカップラーメンの空き箱を思い出した。間違っていないが、ちゃんと野菜も切って中に入れてる。


「ほんと?…気をつけなさいよ。そういうのってね、後になって響いてくるの。私もよくわかんないけど、お母さんが言ってたもん。」

「…そっ」

「…そうだよ。」


自然な兄弟な会話だと思う。でもお母さんのことが話出てくると何かがおかしくなるのがわかった。もうずっとこんな感じだ。もう辞めたらいいのに、そんな顔するなら…だから、どうしてほしいってわけじゃないけど。

そんな、言葉にもならない渦巻いた思いで、頭の中がめちゃくちゃになる。姉は急に気がついたように頭を支えていた頬杖を解き、


「あっ、冷蔵庫に買ってきたジュース入れたままだった。春人持ってきて。」

「えっ、自分で…」

「立ってるものは親でも使え。よ。はい、そんな顔してないで早く行って。」


文句の一つでも言ってやろうと思ったが、無駄なのでやめた。それに、少し助かったから…


「あら、春人。座ってていいわよ。」

「いや、穂乃がジュースとってこいって。立ってるものは親でも使えだってさ。」

「もう、あの子は…コップもいるわよね。」


そう言って、お婆ちゃんは食器棚からトントンッとガラスのコップを取り出して並べてくれる。お婆ちゃんは、どうなんだろう。まだ一度もそういう話はしていない。あの時、お母さんが死んだ時、どんな顔をしてただろうか。怖くて思い出せない。


「ありがとう。」

「もう先に食べてていいわよ。」


そう言いながら、調理に使った調理器具や、食器類を水に浸していく。軽くゆすいで、乾かしているものもあるようだ。そんなおばあちゃんの後ろ姿に何か言いたくなったが、出てこなかったのでやめた。


食べている間、話は全然頭に入ってこなかった。学校はどうしたの?何があったの?聞きたいことがあるだろうに、ただ一言


「居たいだけいればいいのよ。春人、帰りたくなったら帰ればいいし、好きに過ごして。」


終始、姉のくだらない話だった。それにお婆ちゃんはうんうんと頷き、穂乃はえらいわね…と静かに笑っている。ご飯は美味しかった。唐揚げ、ポテトサラダ、味噌汁。全部美味しかった。でも、ずっと胸に引っ掛かるように気持ちが悪い。風呂に入って、気がつくと1人2階の部屋で横になっていて、網戸の外から聞こえる蝉の声が妙にうるさかった。枕を外し、布団に直に耳をつけると、テレビの音とか2人の会話が何とく聞こえる。でも、やっぱり何を話しているのかわからなかった。段々と心の中に黒いモヤが広がるような感覚を覚え、枕を直し布団を被り、体を丸めて強く目を瞑った。

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