第10話 シノ君の七つの武勇伝⑥

「やっぱりシノ君はひとりじゃない。違う、ニセモノが別にいるんだ……」


 頼兼さんはそう言って、もうなにも話さなくなってしまった。

 くるくると変わる表情も、キラキラと輝く瞳も今は暗く、沈黙したまま考え込んでいる。ぼくらが座るテーブルは、途端に気不味い雰囲気に支配されてしまった。

 今、この場では、カップを持ち上げる音も、グラスを掻き混ぜる音も、呼吸の音ですら、発するのが躊躇われた。ぼくも秋常くんも、頼兼さんが復活するのを待つしか術がない。遠くの席では年配の女性たちのグループが、楽しそうに笑っている。女子高校生のグループも和やかに談笑している。


 そして、こじか珈琲のドアが開いて新たなグループが店内へ入ってくる音も聞こえた。店内の空いているお好きな席にどうぞ、と通されたのに、どうしてかぼくら三人が座る店奥の席に向かって歩いてくるではないか。


「あれ、秋常。お前、ここよく来んの?」

「秋常、なんだよその髪。お前、なに優等生ぶってんの」


 ふと、頭上から降ってきた声は、男子高校生のものだった。すでに声変わりを果たした低い声。どうやら彼らは秋常くんの知り合いのようだった。野太く大きな声に萎縮したぼくは、チラリと横目で彼らを窺う。彼らは秋常くんと同じ大手台高校の制服である学ランに身を包んだ生徒だった。

 けれど、優等生ぶるとは、なんだろう。ぼくは次に、隣に座る秋常くんを見た。


「やめろよ、ほっとけよ」


 秋常くんは、突然現れた学友の存在に、焦っているらしい。さっきまで話していた時とは違い、丁寧な言葉遣いではなくなっているから、余裕もないんだろう。ぼくは秋常くんに、大丈夫か、と聞こうとして顔を上げた。けれどその顔をすぐに伏せてしまった。


 校則違反なのでは、と心配してしまうほど明るい色に染められた髪の毛、両耳にぶら下がっているゴツいピアス、明らかに改造していることがわかる丈の学ラン。いわゆる不良ヤンキーだったから。秋常くんのご学友は上品な印象が強かった秋常くんとは正反対だ。


 小心者のぼくは、彼らの存在を恐れて口を噤んだ。息を潜めて気配を消すことで刺激しないように努め、秋常くんを見守る。そんなことしかできないぼくは、情けなさを受け止めることしかできない。

 不良たちは秋常くんの艶やかな黒髪をオモチャのようにぐちゃぐちゃに撫で回しながら、秋常くんと話しはじめた。


「ん? もしかして明日の花火大会、そこのお友達と行くつもりなのか。オレらとの約束はどうすんだよ」

「違うって……いいから、行けよ」

「なぁにが違うんだよ。薄情な奴だなー。まずはお友達に本当のお前を知ってもらってからが本番じゃねぇの」


 不良のひとりはそう言うと、秋常くんの髪を無遠慮に掴んだ。

 もしかして秋常くんは大手台高校でこの不良たちに、いいようにこき使われたりしているんだろうか。それとも、イジられているんだろうか。まさか、いじめられてるなんてこと。


 そう思ったぼくの顔が、サァっと青褪めた。

 ぼくは今日、秋常くんとはじめて話したばかりだし、シノ君の情報量では負けているし、字はぼくより綺麗だし、仲良くなれないかもな、だなんて思っていたけれど、それとこれとは話が別だ。暴力反対、絶対反対! ぼくが思い切って不良を制止しようと声を出そうとしたところで、事件コトは起こった。


 秋常くんの黒髪が、ズルリと剥ぎ取られたのだ。

 中から出てきたのは、枯れたススキ色の髪。既視感のある髪色だった。

 秋常くんの艶やかな黒髪は、どうやらカツラだったらしい。不良がカツラを剥ぎ取るときに、逆台形ウェリントン型の黒縁眼鏡も一緒にカツンとテーブルの上に落ちていた。カツラを剥ぎ取られた秋常くんの印象は、百八十度変わってしまった。それはまるで、ご学友である不良たちに馴染む姿だったから。

 見た頼兼さんが、小さく声を上げた。


「あっ……」


 頼兼さんの顔は、真っ青だった。視線は枯れたススキ色をした秋常くんの髪の毛に釘付けで、その表情は眉が吊り上がって目が見開かれ、なんだか怒っているようにも見えた。

 一瞬にして態度が変わった頼兼さんは、猫のキャラクターが描かれたトートバッグを掴んで急に立ち上がった。


「ごめん、やることできたから帰るね」


 なんと頼兼さんはそう言うと、自分が飲んだ珈琲代をテーブルの上にバラバラ置いて店を出て行ってしまったのだ。

 一体、なにが起こったのか。ぼくは頼兼さんの背中を見送ることしかできなかった。一方で、秋常くんは、どこかでみたようなススキ色の髪を隠すように、両手で頭を覆っている。取り残されたぼく達の間には、気不味い空気しか流れていない。


 完全に招かれざる客であった 不良たちにもその気不味さは伝わってくれたらしい。「怖がらせちゃったかな、ごめんねー」と軽く謝罪をされて、それっきり。

 意気地なしのぼくは急に立ち去ってしまった頼兼さんの後も追えなかったし、秋常くんがどうして髪の色を隠していたのか、どうしてシノ君と同じ枯れたススキ色の髪をしていたのかなんて、とうとう聞くことはできないまま、その日は解散した。


 ぼくは今日も頼兼さんを花火大会に誘えなかったことに落胆しながら、その日を終えたのである。




 翌日。

 名霧市花火大会が開催されるその日の塾は、午前のみの講義に変更される。午後も自習スペースを開放することなく閉めるらしい。それもこれも、今日開催される花火大会に備えてのことだ。


 名霧市の花火大会はそこそこ規模が大きくて、およそ二万発花火が打ち上がる。新幹線の停車駅でもあることから、花火を見るために県内県外問わず多くの人が押し寄せる。名霧学舎は駅前に立地しているせいか、この花火大会の日だけはいつもより早い時間に塾の学舎を閉めることになっているのだ。

 そんな夏休みの午前中。ぼくは隣の空の席を眺めて呟いた。


「……頼兼さん、来なかった」


 頼兼さんは塾に来なかった。講義の席は自由席制だけれど、生徒はみんな慣れた席を使いがちだ。だからぼくと頼兼さんの席は一番前が定位置だったし、それをわざわざわざわざ侵犯してくるひともいない。頼兼さんが今日、塾に来なかったということは、ぼくは今日、ひとり寂しく休憩時間を過ごし、悶々とした状態で講義を受けたということだ。


 頼兼さんを花火大会に誘えないままずるずると引き伸ばし、当日を迎えた結果がこれだ。ぼくは自分の情けなさに頭を抱えて机に突っ伏した。もちろん、今は全ての講義が終了している。

 ぼくは塾のある日はいつも頼兼さんと話しているけれど、それだけの関係だ。シノ君の話ができる、という共通点がなければ、話もしていなかっただろう儚く脆い関係だ。ぼくはあれだけ頼兼さんと話していたのに、彼女の連絡先ひとつ知らないのだから。


 もう少し早く、頼兼さんを花火大会に誘えばよかった。花火大会、一緒に行かない? たったその一言が言い出せずに、ずっと棚に上げていた。頼兼さんは学校の友達を花火大会に行くんだろうか。それとも、午前の塾を休んで気合を知れた準備をしなければならないような相手と行くのか。


 ぼくの心がシクリと痛む。後悔してももう遅い。頼兼さんは隣にいないし、ぼくは連絡先なんて知らない。頼兼さんと繋がっているのは秋常くんだ。秋常くんをこじか珈琲店に呼び出すときに、SNSのアカウントで連絡を取った、と言っていたから。

 じゃあ、秋常くんに頼兼さんを呼び出してもらうのか?


 そんな格好悪いことなんて、できない。あらゆる面でぼくは秋常くんに負けているのに、そんな情けないことはしたくない。ぼくのちっぽけなプライドが邪魔をして、一歩踏み出すこともできない。ぼくは教材や筆記用具を肩掛け鞄に適当に放り込み、未練を塾に置き去りにするように学舎を後にした。


 大通りの向こう、見上げた空の状態は、あまりよくない。朝から雲行きは怪しく、雨は降ってはいないものの薄暗い雲が彼方に見える。それでも午前十一時の時点では、花火大会は決行するようだった。花火大会決行を知らせる昼間の花火が上がった音を講義室で聞いたから。


 けれど、この雲行きじゃあ、夜の花火大会で雨が降るかも知れなかった。もしかしたら、頼兼さんを誘えなくて正解だったのかもしれない。なんて、負け犬の思考を巡らせながら、ぼくはとぼとぼと駅へと向かった。


 そんなぼくの前に、あのひとが姿をあらわしたのだ。

 ぼくの進路に立ち塞がるようにしてあらわれたその人は、年上で背が高く、体格も良くて手足が長い。髪は枯れた薄のような色ではなく、黒く染められていたけれど、特徴的な声が、そのひとが誰なのかを示していた。


「こんにちは。日向夏樹くん……だよな。君、俺の助けが必要だと思うんだけど、合ってる?」


 またしてもぼくは、シノ君らしき人物に遭遇してしまったのである。



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