第11話 その、夏の避暑地は……1/3







 時は、短い梅雨を経て、あっという間に七月となった。

 その、蝉の声のかしましいある日の放課後、唐突に鴨井が口を開いた。


「なあ、お前らは夏休み、何か予定はあるか?」


 いつものメンバーである祥太郎と仁川と田原が、顔を見合わせた。


「ん~? 別に、何もないぜ」と祥太郎。

「俺も、いちおう受験生ということで、帰省はパスしてるからな」と仁川。

「俺んとこも、実家の商売が忙しいからな。帰るつもりはない」と田原。


 一通りの様子を聞いて、鴨井が話を続けた。


「実はさ、俺んち、軽井沢に別荘を買ったんだ。だから、良かったら遊びに来ないかと思って」


 鴨井の父親は、商事会社を営んでいた。支那事変景気で儲かっていると、かつて鴨井は複雑そうな表情で話していたことがある。


「そりゃ耳寄りだな」と祥太郎。

「ああ。夏の一番暑い盛りを、この東京で過ごすのもなんだしな」と仁川。

「避暑旅行か……いいんじゃないか?」と田原。


 来年が受験なのだが、焦っている一高生はほとんどいなかった。どだい、ガリ勉を恥とし、留年を人生の厚みとして尊ぶ一高生たちにとっては、一年ぐらい滑ってしまうことは屁でもなかったし、そもそも一高のようなナンバースクールの卒業生の総数と、全国(注:朝鮮や台湾も含む)の帝国大学の募集人数はそれほど変わらなかったため、よほど成績が悪くなく、かつ人気の大学(と学部)狙いでなければ、どこかしらの帝国大学には滑り込めるというのが、この時代の大学受験だった。


 とはいえ、一高生ともなれば東京帝大を目指す者がほとんどであり、受験に気を抜けないことには変わりはなかったが。


 皆が乗り気なのが分かり、鴨井は明るい声で言った。


「決まりだな! じゃあ、八月の前半から盆までの間に行こうぜ!」


 それを聞いた田原が、鴨井に問うた。


「盆の後じゃダメなのか?」

「それがな、盆の後は、軽井沢は急に寒くなるんだよ。それに……」

「それに?」

「何と言っても、八月の前半は、ベルリン・オリンピックがあるじゃないか!」


 ベルリン・オリンピックと聞いて、話を耳にしていたサシャとフランツがぴくりとした。


 そうとは知らず、仁川が口を開いた。


「おお、そうだったな。八月の始めから盆くらいの間だったっけか?」

「そうそう。それも、主だった競技は、全部ラジオで実況されるらしいんだ」

「何だって? それは捨て置けないな」

「ドイツと日本じゃ時差があるから、涼しい夜に、コテージのデッキにラジオを持ち出して、オリンピック観戦と洒落こもうじゃないか?」

「そ、そりゃいいな!」


 祥太郎たちは歓声を上げた。


 鴨井が、サシャとフランツに向き直った。


「なあ、二人も聞いてたろ? 軽井沢、行かないか?」


 突然お鉢をまわされたサシャが、眼を見開いて驚いた。

 

「ぼ、僕は……その……」


 サシャが迷っているのを見たフランツが、話に割って入った。


「ふーん……じゃあ、俺も行っていいかな? 祖国ドイツの活躍を、ぜひ友とともに味わいたい」

「ああ、いいぜ。じゃあフランツも参加だな」


 ことの推移に、サシャが慌てたように口を開いた。


「ま、待てよ! ……僕も行かせてくれ」


 躊躇したとはいえ、サシャが、催しごとに自ら参加の意思表示をした……五月祭の時もそうだったが、祥太郎は、サシャのそうした変化を敏感に感じ取っていた。


 サシャの参加を聞いたフランツが、喜びの声を上げた。


「やあ、それでこそ我が同胞だ!」


 フランツはサシャと肩を組もうとしたが、あえなくサシャに避けられてしまった。フランツは勢い余って自分の机に突っ込み、一人で勝手に悶絶していた。






 *






 そして、八月一日。


 軽井沢駅の改札を抜けると、そこは真夏の高原だった。


 涼しい。とにかく涼しい。東京を発った時の、粘りつくような蒸し暑さが、まるで嘘のようだった。


「うわあ、軽井沢だ……」


 駅前の広場には、和服姿の日本人、洋装の白人たちが行きかっている。異国情緒のある避暑地が、祥太郎たち一行を迎え入れたのであった。


 鴨井家の別荘は、駅から少し歩いた別荘群……森の中にある。一同は、その別荘までの道を歩いた。

 落葉松の高い木々が、夏の日差しを和らげて、苔むした一面の地面が、まだら模様に優しく照らされていた。こんな木陰道を少し歩くだけでも、軽井沢に来たのだという気分が湧いて、皆を高揚させた。


 やがて着いた別荘は、コテージ型の二階建ての白塗りの家だった。


 皆は、二階の部屋に、思い思いに荷物を置いてきた。


「お疲れさん。とりあえずは、いったんここで自由行動だ。腹が減ってる奴はいるか?」


 鴨井が聞いたが、皆、列車の中で駅弁を食べていたので、手を挙げる者はいなかった。


「じゃあ、夕飯を楽しみにするんだな。身の回りのことは、後から来る管理人がやってくれるから、存分に休んで軽井沢を満喫してくれ。風呂は小さいから、一人づつ使ってくれ。俺は隣の別荘に挨拶に行ってくるからな。解散」


 仁川は、さすがに疲れたらしく、昼寝をするためにベッドに潜り込んだ。

 田原が、それを見て苦笑した。


「まったく、鍛え方が足りない奴だな……じゃあ俺は、軽銀(注:軽井沢銀座の略。軽井沢随一の商店街として、この名がついた)でもぶらぶらしてくるぜ」


 フランツも、元気があり余ってか、外へ出たそうにしていた。


「なあサシャ、一緒に散歩でもしないか?」


 フランツがサシャの肩に腕をまわそうとしたが、このときもサシャは華麗にそれを避けた。


「暑苦しい、勝手に行って来い!」


 サシャがフランツを本当にうっとおしがっているのを見た田原が、サシャに助け舟を出した。


「おい、フランツは俺と買い出しに来てくれ」

「えー」

「軽銀にはソーセージ屋がいくつかある。そこで目利きを頼むぜ」

「へえ……そうなのか。分かった、いい酒のつまみを見つけてやろう」

「そうこなくっちゃ」


 田原がフランツを連れて行くと、コテージの中はとたんに静かになった。


 祥太郎が、サシャに問うた。


「俺たちは……どうする? サシャ、疲れたか?」

「全然」

「じゃあ、ちょっと歩こうか。俺がこの辺をちょっと案内するよ」

「そうか……分かった、頼む」


 そう言って、祥太郎とサシャは、コテージを後にした。


 綺麗に均された砂利道を、二人は木漏れ日を浴びながら歩いた。


「さすが軽井沢だぜ……陽が射しているところですら、涼しいな!」

「ああ、そうだな……まるで、ヨーロッパの避暑地みたいだ」


 それを聞いて、ふと祥太郎は疑問を浮かべた。


「サシャはベルリン育ちなんだろ? 避暑地にもしょっちゅう行ってたのか?」

「……いいや。実は、避暑地なんて行ったこともない」


 サシャが、控えめだが、悪戯っぽく笑ったのが、祥太郎には眩しく見えた。


「何だよ、行ったことないのかよ」

「ああ。勝手に、ここみたいな所だろうと想像してみただけだ」

「なるほどな」

「祥太郎は、ここに来たことがあるのか?」

「ああ、小さい頃に何度かね」

「別荘があるのか?」

「まさか、うちはそんな金持ちじゃないよ。こことは反対側にある、万平まんぺいホテルに泊まったのさ」

「なるほど」


 そう言っているうちに、二人の目の前が明るく開けた。


「ほら、着いたぞ。ここだ!」


 そこにあったのは、水の澄んだ池だった。歩いて一周するのに十五分ほどの、手ごろな大きさの池だった。


 軽井沢の名所の一つということもあって、水浴びをしたり、貸しボートに乗っている観光客も多く、あちこちから歓声が聞こえてきていた。


「祥太郎、ここは……」

雲場池くもばいけだよ。綺麗だろう? せっかくだ、ボートに乗ろうぜ」


 祥太郎はサシャを伴って、貸しボート屋に行き、小さな手漕ぎボートに乗った。


 雲場池の水は、さすがに高原らしく、澄み切っていた。大きな鯉が、二人の乗ったボートの底を、するりとくぐっていった。


 ボートを漕ぎながら、祥太郎が口を開いた。


「いやあ、水場は一段と涼しいな!」

「ああ。気持ちがいい」


 サシャが、すらりと長い左の腕を、池の水面に沈めた。

 ボートの進行に従って、小さく波をたてている白い腕が、祥太郎には、まるで氷魚の群れのように見えた。


 サシャの表情に、少し陰りが浮かんだのを、祥太郎は見た。


「サシャ……? どうかしたか?」

「……別に。ただ、僕の留学期間が、このまま卒業まで続くとしても、もう一年もないんだなって思って」

「そっか。まだ、よく分かんないんだな?」

「ああ……だから僕も、今のうちに、思い出作りくらいはしておきたいと思ってる」

「ああ、そっか。そうだよな……」

「……今は、それしか出来ないからな」


 サシャが、ふっと微笑を浮かべたのを、祥太郎は見た。


「変わったな、サシャも」

「え?」

「サシャ、留学してきた頃は、取り付く島もないという感じだったのに」

「……それを言うなよ」


 サシャが、きまり悪そうに照れ笑いをしながら、言葉を続けた。


「まあ……祥太郎のおかげかな」

「そ、そっか?」

「ああ」


 なんだか自分も照れてしまった祥太郎は、しばらくの間サシャの顔をまともに見ることができなかったが、やっとのことで顔を上げ直した。


「留学が終わったら……日本に、いられなくなるのか?」

「ああ……留学が終われば、僕は本国に帰らなくちゃいけない」


 池の岸近くでは、水着姿の白人の少女たちが、天真爛漫に水をかけあい、はしゃぎあっていた。

 その歓声に目を向けながら、サシャは遠い眼をしていた。


 祥太郎が、ややあってつぶやくように言った。


「そうなっちゃうと……寂しいな」

「……仕方ないよ。運命だから」


 祥太郎が、サシャが『運命』と仰々しい言葉を使ったことに驚きを感じた、そのときだった。


「おーい!」


 岸辺から、祥太郎たちのボートに向かって叫んだ者がいた。貸し自転車にまたがった、フランツと田原だった。


「君らだけずるいぞ! 俺も乗りたい! こっちまで寄せてくれよ!」


 それを聞いたサシャが、真顔で祥太郎に向き直った。


「寄せるんじゃないぞ、祥太郎」

「あ、ああ……」


 そよとも動く気配のないボートにれたフランツが、自転車から降りた。


「よーし、じゃあ、俺がそっちまで泳いでいくからな!」


 それを聞いたサシャが、焦りの表情を浮かべて、祥太郎に言った。


「祥太郎、全速で岸から離れてくれ」


 いっぽう、田原も、フランツがシャツを脱ぎだしたのを見て仰天していた。


「おい、下着の替えもないのに、ここで泳ぐつもりか?」

「下着の替え? 日本人は慎み深いなあ、全部脱いでいくに決まってるじゃないか!」

 

 そう言いながら、フランツはズボンに両手を掛けようとして、田原は大いに慌てた。


「やめろ! 全裸で泳ぐんじゃない! 他の観光客の眼もあるから、国際問題になるぞ!」

「えー、俺も泳ぎたいよー」

「子供かよ! いいから、別荘に帰るぞ!」

「ちぇー」


 フランツが田原に引きずられるようにして別荘に引き上げていくのを見て、ホッとした様子のサシャに、祥太郎は問いかけた。


「ところでさ、ずっと思ってたんだけど……」

「何だ?」

「フランツと……何かあったのか?」

「いや……別に。ただ、ああいうお調子者が苦手なだけだ」

「でも、同じドイツ人だろう? 少しは仲良くしたほうが……」

「祥太郎は……それでいいのか?」

「それでいいのかって……? そ、そりゃもちろん……」

「……そっか」


 そう言いつつ、サシャは、午後の夏の陽光が揺れる水面に目を落とした。

 

 その胸元で、何かが光っているのを、祥太郎は見た。


「……それ、新しく買ったのか?」

「え? 何が?」

「首から下げてるやつ……ペンダントか?」

「あ、ああ。この間、買ったんだ」

「お洒落なんだな、サシャは」

「……そうか。ありがとう」


 その銀色のロケットペンダントは、サシャの白い胸元で、眩しく光っていた。





 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る