第4話 その、新年のご挨拶は……2/3

 




 そして、一九三六(昭和十一)年、元旦の昼少し前。


 佐川の運転するベンツで、いつもの制服に身を包んだサシャは、祥太郎の実家にやって来た。


 セーターにズボン姿の祥太郎が、しめ縄で飾られた日本家屋の玄関で、サシャを迎えた。


「明けましておめでとう、サシャ」

「……明けましておめでとう」


 サシャは、祥太郎に連れられて、屋内の座敷へ通された。座敷には、祥太郎の父の紘一と、母の清子、そして妹で高等女学校三年の道子が、晴れ着姿で正座して、サシャを待っていた。


「おお、いらっしゃい」と紘一。

「あなたがサシャさんね。初めまして」と清子。

「うわあ……綺麗な人。本当に、兄さんの友だちなの?」と道子。


 サシャは小さく一礼をして、祥太郎の隣の座布団に座った。


「サシャ、足は崩していいからな」

「崩すって……足の骨でも折れっていうのか?」

「ち、違うよ……普通にあぐらをかいていいってことだよ……」

「アグラ?」


 このやり取りに、朱色の振り袖姿の道子が下を向いて、思わずクスっと笑ってしまった。サシャは、眼をすっと細くして、道子を見た。その様子を、祥太郎は、あちゃあ……と思いながら見ていた。


 全員が腰を下ろしたところで、紘一が口を開いた。


「明けましておめでとう。今日は祥太郎の友だちも来てくれたということで……サシャさん、よくおいで下さいました。いつも息子がお世話になっています」


「あ、いえ……」


 サシャはそう言ったきり、沈黙してしまった。

 

 誰も何も言わない座敷に、気まずい空気が流れた。


 ややあって、清子が声を上げた。


「……お、お食事の用意をするわね!」


 あわただしく立ち上がった清子と道子が、台所から人数分のお膳を運んできた。赤飯に雑煮、黒豆、そして鯛のお頭という、正月仕様の豪華なお膳だった。


 サシャは、自分の目の前にうやうやしく置かれたお膳を、興味深そうに見ていた。


 清子が、新たにお盆を持ってきた。お屠蘇のお盆だ。


「じゃあ、お屠蘇から頂きましょうか? まずは、お客様のサシャさんから……」


 サシャは小首をかしげた。


「オトソって何だ? 祥太郎」

「まあ、早い話が、お酒だよ……」

「正月早々、酒を飲むのか?」

「ま、まあ、ほんの一口、口を付けるだけだから、大丈夫だよ……」


 それで納得したのか、サシャは、清子から差し出された漆の器に注がれた液体を、一気に飲み干した。


「……おいしい」


 サシャのその様子を見た清子が、嬉しそうに言った。


「まあ、いい飲みっぷりじゃない。もう一杯いってみる?」

「……お願いします」


 これを見た祥太郎は慌てた。


「あ……母さん、それ以上は……」


 しかし、時すでに遅しだった。サシャは既に二杯目も飲み干してしまっていた。しかもその二杯目は、「おいしい」と感想をこぼしたサシャのために、清子がお屠蘇を器いっぱいになみなみと注いだものだった。


 祥太郎は、頭を抱えた。ああ、これはそのうちスイッチが入るやつだ……。


 そうとは知らない紘一の音頭で、新年の食事会が始まった。


「「「「「いただきます」」」」」


 サシャは、黙々と鯛の身を箸先で器用に崩しては、少しずつその小さな口に運んでいる。


 そこへ、道子が、サシャにおそるおそる話しかけた。先ほどサシャの日本語の拙さを笑ってしまって睨まれていたからだ。


「サシャさん、お箸の使い方、上手ですね?」


 サシャは、顔を上げた。少し赤らんだその顔で、サシャは道子に応えた。


「……ええ! ずっと練習してましたから!」


 それまで仏頂面だったサシャが満面の笑みで答えたので、道子も紘一も清子も、一瞬あっけにとられた。……あ、スイッチオンだ、と祥太郎はひとり深く息をついた。


 その様子を見て、紘一もサシャに話しかけた。


「ところでサシャさん。祥太郎は、何か粗相をしたりはしていないですか?」

「え? ソソウ?」


 祥太郎が割って入った。


「えっと……なにか失礼なことをしていないかってことだよ」

「ああ、それなら、全然ないです! むしろ、いつもそばにいて助けてくれるので、本当に嬉しいです!」

「おっ、そうですか? うちの冴えない息子が……」

「冴えない? とんでもないですよ。僕、留学してきたばかりのことは正直不安で心細かったんですけど、祥太郎は何かと僕のことを気にかけてくれてるんです。勉強もよく見てくれますし、僕がクラスで孤立しないように気を配ってくれてますし……。それに、いつだったか、学校教練の教官から、僕の身代わりになって二発も殴られたこともあるんです」


 これには、紘一と清子と道子も、一様に驚いていた。


「兄さん、すごいじゃない! 見直したわ!」


 道子が、ストレートに褒めてくるのを、祥太郎は半ばうっとうしそうに応えた。


「そんな大層なもんじゃないよ……」


 そんなことよりも祥太郎は、サシャが、普段なら絶対に言わなさそうな誉め言葉を並べているのに、あらためて驚きを感じていた……酒の力だとは思うが、それでも酔ってないときの記憶は引き出せるんだよな、サシャは。


 サシャのおしゃべりはとどまるところを知らない。


「いーや! 祥太郎はすごい! 優しいし、いざというときには強いし! しかもその強さをひけらかさないし、まさに日本男児のお手本って感じですよ!」

「サシャ、やめろよ……恥ずかしいだろ……」

「どうして恥ずかしいのさ。まったく、祥太郎は謙虚だな!」


 サシャがそう言って祥太郎と肩を組むように腕をまわした。そして、目を白黒させる祥太郎に、甘えた飼い猫のように頬ずりした。


「わ、やめろってサシャ!」

「いいじゃないか! 友達だろ!」


 紘一も清子も道子も、口をあんぐり開いて、目の前の金髪碧眼白人の、過剰ともいえるスキンシップに圧倒されていた。


 道子は、こっそりとつぶやいた。


「外国の方って……ものすごくオープンなのね……」


 ひとしきり喋っていたサシャが落ち着いたところで、紘一が祥太郎に口を開いた。


「ところで、祥太郎のほうは、勉強は進んでいるか? 来年はもう受験だろう?」

「う~ん、まあ、ぼちぼちかな」

「やっぱり、狙うのは東京帝大なんだろう?」

「そうだね。なんといっても帝大だし、うちからも近いし、首尾よく受かればいいんだけどさ」


 そこまで聞いていたサシャが、驚きの声を上げた。


「ええっ? 祥太郎は東京帝大を受けるの?」

「う、うん、そのつもりだけど……」

「東京帝大っていったら、日本一難しい大学だろう?」

「ま、まあそうだな」

「すごいじゃん!」

「う、受けるだけなら、一高生なら誰でもできなくはないよ……」


 サシャは、キラキラした眼で祥太郎のことを見ていた。


 そんなサシャに、道子が声をかけた。


「ねえ、サシャさん、お食事がお済みになったら、よかったら私と一緒に遊びません?」

「遊ぶの?」

「ええ。羽根突きとかカルタとか、日本のお正月の遊びを教えて差し上げようかと思って」

「へえ。よく分かんないけど、僕、やってみる!」

「そう! じゃあ兄さん、サシャさんを借りてくわね!」


 道子が、サシャを外へ引っ張っていった。


 それを眼で追っていた紘一が、ややあって祥太郎に向き直った。


「受験、期待しているぞ。まあ、一高に入学できたんだから、東京帝大の入試で苦労するとは思えないけどな」

「ま、ほどほどに期待してよ……」

「ああ。……しかし、それにしても、外国人の友だちを連れてくるなんて、珍しいな」

「俺も驚いたよ。いきなりご学友に指定されちゃってさ」

「なに、ご学友! それは名誉なことだな」

「そうかな……?」

「しかし、えらくなったもんだな。要するに、お前は日本の外交官みたいなものじゃないか」

「あ……それ、うちの担任も言ってた」

「まあ……ドイツ人と聞いていたが……すごく天真爛漫な子だな……」

「うん……」

「お前も、大変だな」

「うん…………だけど、俺は俺で楽しいよ」

「そうか。それなら何よりだ」


 そのころ、道子は表通りにサシャを連れ出して、その手に羽子板を持たせていた。


「じゃあ、羽根突きをしましょう」

「ハネツキ?」

「その羽子板で、この羽を打つのよ」

「へえ、じゃあこれがラケットってこと?」

「あはは、西洋風に言えば、そうね!」


 サシャが何かを探している様子なので、道子が訝しげに声をかけた。


「サシャさん、どうかした?」

「……これ、ネットは張らないでやるの?」

「やだサシャさん、バドミントンじゃないのよ。これは、お互いにずっと打ち合えるように、長続きさせる遊びなの」

「……なるほど。相手を打ち負かすんじゃなくて、共存する遊びなんだね! さすが日本、和を以て貴しとなす、だね! あはは!」


 一人で言って一人で大笑いしているサシャを見て、道子もつられて笑ってしまった。


「サシャさんったら、本当に陽気な方なのね!」

「えー? そうかな?」

「こっちまで楽しくなっちゃう! じゃあ、始めましょうか! 私が打つから、打ち返してみてね!」

「うん!」


 道子が、羽子板で羽根をついた。サシャは、放物線を描く羽根を眼で追いながら、軽く打ち返した。



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