第2話  七冊目の奇跡


〈1〉


南アメリカのパンパスに広がる草原。

まだ見たことはないけれど、きっと優しい色の花が咲いて、今も野ウサギやピューマが静かに歩いているのだろう。はるかな地球の裏側で、花の蜜を吸いにくるハチドリを想像しながら、行橋まどかはガラス越しの風の音を聴いていた。


と、そのとき。騒々しい気配を感じて、カウンターに広げた、ハドソンの『ラ・プラタの博物学者』を、まどかが閉じるのとほぼ同時にガラガラッ、と図書館のドアが乱暴に開けられた。

「おっす!」

「おっす、じゃないわ。部活はどうしたの?」

「まず自主トレなんだってさ。だからここに来た」

なぜ、自主トレ〈だから〉図書室に来るのかを、祐介という男に問いただしても時間の無駄だろう。自分では大リーガーの調整法でも見習っているつもりかもしれないが、日本の平凡な一高校生にすぎないという、現実の立場の方は、完璧にクモの巣が張っているようだ。これでよく退部させられないものだと思う。祐介が放課後、ここに来ることは珍しくない。それどころか、ほとんど常連と化している。しかも、まどかの図書当番の日には必ず来るのだ。

「今日の目当ては何よ?」

「こないだ入った『ヴィロニッキ・サーガ』」

「あー、あれ? それだったら当分無理よ」

「どうして?」

「見ればわかるわよ」

祐介が〈930 英米文学〉の書架に行ってみると、確かにまどかの言う通りだった。今週入った新着図書として、書架の中で燦然と輝いているピカピカの十冊シリーズ。そのうち第一巻がなくなって、棚にちょうど一冊分の隙間ができていた。

「ちぇっ。なーんだ。先客ありかぁ」

「みんながリクエストしてた、人気シリーズだからね。仕方ないよ」

祐介の背中に聞こえるように言った。

話題にさえなれば、どんなに長編だろうと、最近はみんなが読みたがる。若者の読書離れとか大人は言うけど、読み通す根性の問題じゃなくて、単に関心の問題にすぎないんじゃないかと、まどかは思う。

冒険小説、いやRPGを小説化したというのが真相に近いのだろうが、剣と魔法が出てくる異世界ものは、いつだって人気の的だ。何と言ってもパターンに慣れているから、小説世界にすっと入り込める。それはとにかく、全体が連続したストーリーである以上、途中の巻から借りても意味がない。第一巻が返却されるまで、他の巻に手をつけるわけにもいかないというわけだ。


カウンターに祐介が戻ってきた。

「図書委員長の権限で、オレに確保しといてくれればよかったのにさ」

「そんなことしたら、それこそブーイングの嵐でしょ。第一、図書室は全生徒のものでしょ」

実はまどかも、借出人間第一号を狙っていたのだが、先を越されたのだ、と、いうことは祐介には黙っていた。こればっかりは委員としての公平性を立てればどうにも仕方がない。

祐介は、カバンを持って図書室を出ようとした。

「吉見君、どうしたの?」

「自主トレに行ってくる」

「ふーん?」

自分の発言の矛盾にさっぱり気がつかない祐介に、まどかは鼻から抜ける複雑なイントネーションを強調して答える。

「そんな言い方をすんなって。でも、ちょっと気になるなぁ」

「何?」

「誰が『ヴィロニッキ・サーガ』を借りていったか、ってこと」

「あいにく・それは・個人情報なので・教えられません」

まどかが、マニュアルを読み上げるような口調で言う。

「ケチだな」

「あたしにもわからないのよ。貸出情報はパスワードがかかっているし」

「そうなんだ」

「そのパスワードは川村先生しか知らないしね」

祐介とまどかが同時に準備室の扉に目を遣った。通気のために、ふだんは閉まっている扉が開けられていて、司書の川村先生が、ひととき手を休めて二人の方を、微笑みながら見上げた。

「誰なのかわかったら、個人交渉するのにな」

「それが迷惑になるから教えないの。さっさと部活に行ったら?」

「へいへい」

祐介は半分あきらめ顔で、図書館を出ていった。と。

あー、またやりやがった。


遠くから「すみませ~ん」という声。

しかもぶつかったのは、前回と同じ西澤先生だ。一体どうなっているんだろ? まどかは、祐介が室内に撒き散らしていったグラウンドの砂を掃きながら考えた。祐介の奇跡的におマヌケなふるまいではなくて、第一巻を借りた人物のことを。

「あ、風だ……」

斜めに開かれた窓から、心地よい風が通り抜けていく。この風が、はるかなラ・プラタ川のほとりから吹いてきた風ならいいのに、とまどかは思った。地球の裏、二万キロのかなたを思って、彼女は図書室の床を見つめる。残念なことに沖縄など南西諸島以外では、地球の反対側はアルゼンチンではなく、大西洋の上なのであるが。


五月の連休は、なんと言われようが楽しい。

まどかも久しぶりに家族そろって旅行に行ったのだが、クラスでただひとり、お土産を要求するあつかましい男がいたおかげで、極力安物の菓子を探すために、かえって神経を使ってしまった。祐介め、ごていねいに「行橋、オレにも土産買ってきてくれよぉ」 と大声で言いやがった。

 長い空白が明けると、クラスの何割かは、ごく軽く「浦島太郎症候群」なる症状に見舞われるものだが、そんな気配さえ、おくびに出す時間もなく、月曜日一時間目、数学タイムのベルが鳴りわたった。

あぁそんなこともあったな、と、生徒たちはまだ完全には回復していない思考力で、西澤先生の言う「絶対確実要暗記公式」を、記憶の底から引きずり出して授業を受け始める。すると魔法のように、もうすっかり日常そのものに戻っていってしまうのだ。

これが不思議でならない。こうなると、昼休みが終わったころには、なかったことにされてしまうのは連休の方なのだ。かわいそうなトリプル・ホリデイ!

そして次の日の放課後、まどかは図書当番に当たった。

 四時直前。やつは絶対やってくる。もうそろそろじゃないかな。

ほらきた。


まどかは読みかけの本に布のしおりを挟むと、一瞬のうちに待機モードでスタンバイした。

だが、ドアが開いたあと、一陣の風が流れていっただけだったので、肩すかしを食った。祐介が、カウンターにいるまどかに対して、何のあいさつも目配せもなしに書棚に走っていったのだ。とたんに、「あった~~っ!」と、大声で勝利の雄叫びだ。いい加減にしろいっ!

カウンターに戻ってきた祐介が、さっそく貸出手続きを要求する。

「は~やく、は~やく、は~や~くぅ」

ポカッ!

「痛ぇなぁ。いきなり乱暴するなよ」

「図書館のマナーを守れないやつに、乱暴もアルチュール・ランボーもあるかっ!」

「エ、エドガー・アラン・ポオ……」

「ここには〈妖星人R〉なんか、いないわよ!」

「いや、それって作者違いだ…… 行橋ごめんよ。オレ急いでいるんでさぁ」

祐介が『ヴィロニッキ・サーガ』の第一巻を差し出して言った。と、いうことは連休中に読まれて、昨日か今日に返却されたわけか。

「どうせ吉見君は自主トレなんでしょ」

「いや今日はそうじゃなくって。週末に試合があるんでさぁ、ハッパを掛けられてんだよ」

だったら、本なんか借りないで部活に集中すれば? しかたなく、できるだけ尊大にバーコード・リーダーを出して、手続きをしてやる。

ピッ!

「ありがとう! じゃぁ、行ってくる」どうぞご勝手に。

「その代わり、次はあたしが読むんだから、早めに返却してよね――」

まどかの言葉が、届いていないのか聞いていないのか、祐介が返事もせずに、巨大なバッグを空中に引きずりながら、あたふたと出ていく。

また突風だ。廊下では例によって「すみませ~ん」という声がフェイド・アウトしていく。

うん。どうやら今日はニアミスで済んだらしいな。

そんなことが毎週繰り返されるのかと思うとうんざりするが、次の火曜日はちょっとばかり様子が違った。


ピッ。

放課後、祐介が、例のシリーズ第三巻の貸出手続きをした。

いつものようにそれっきりで帰ってしまうのかと思ったら、まどかにそっとつぶやいた。

「ちょっと変なんだ。行橋」

「どうしたの、急に」

「大長編を途中から借りるやつっているか?」

「普通はいないわ」

「ちょっと見てみろよ。『ヴィロニッキ・サーガ』の棚を」

まどかが祐介と連れだって見に行くと、第七巻がなかった。

中世風に木の扉をかたどった、「いかにも」な背表紙の森。最後から四冊目の本があるべき場所に、そこだけ真新しい隙間ができていた。

「オレが知っている限り、最初に読み始めた先客は、まだ第五巻を借りている途中なんだよ。そいつが第一号で、追い越されることがない以上、この状態は不自然だと思わないか?」

「まぁ、でも大したことないんじゃない」

「そうかな? 今日の昼休みには、まだここにあったんだぜ」

「誰か、気まぐれな人がいて、途中から借りるってことも、ありなんじゃないの?」

「でもこれはひと続きの物語なんだし、第七巻ともなると、ふつうはかなり盛り上がる。登場人物も増えるし、物語の前提になるエピソードだって、それまでの間に相当積み重なっているんだ。旅をしているんなら、どうしてパーティがここにいるのか、とか、メンバーのキャラ自体も全然掴んでなくて、訳わかんないまま読むのは苦痛だぜ。途中から読み始めるなんて、とても無理じゃないかなぁ」

さすがに詳しい。

「謎よね」

「やっぱりそう思うだろ。第一巻もなくなっているから、誰が新たにチャレンジを始めたのか、それも気になるけど」

「そっちの方は、あたし」

「あ、そうなんだ!? ごめん」

「いつもの本がなくなっちゃったからよ。誰かが借りていったみたいで」

「じゃあ、次から借りてしまえば?」

「そうよね。あれって小説じゃないし、気軽にどこからでも読めるって思っていたから」

まどかは、先週読んだパタゴニアのトンボについてのイメージを思い浮かべた。

「第三巻もないんだ」

「それは吉見君でしょ!」

自分のことを完全に棚に上げていたな、こいつ。


あたしも読もう。

第一巻を早めに返却しないと、次の読者が待っている。気になるのはテストまであと一週間しかないということだ。読書に専念している場合じゃないのかもしれないが、そんなときこそ、ついページをめくる誘惑に駆られるのだ。これだからあたしは。


ところで、謎は解けた。そう思える出来事があったのだ。

木曜日の午後、英作文の時間が休講になって、まどかが図書館を訪ねてみたら、例の第七巻は返却されていた。誰かが気まぐれに借りて、おそらく話について行けなくなって返した、というところだろう。同時に第六巻が借りられていた。

先客が誰なのか、正体はわからないけど、テスト前だというのに、いっこうに読書欲が衰えていないようだ。祐介に教えてやろうかと思ったが、結果は、せっかく教えてやったのに、すっかり探偵になった気分で、『サーガ』の第四巻を借りていっただけだった。

「オレの推理が外れるなんて、信じられない。まだ、そうと決まったわけでもないさ」

謙虚という言葉を、祐介の辞書に油性マジックで書き込みたくなった。


そして週が明けた。

とうとうテスト週間に入ったが、図書館は決して閉館しない。放課後に学習塾に行く者も多いとはいえ、かなりの生徒が自習室として使うので、むしろいつもよりも多いくらいだ。

まどかは例の『ラ・プラタの博物学者』を借りてしまうことにした。

月曜日には書棚に返却されていて、しおりを挟んだページが変わっていたが、本には残されていた。あと少しで読み終わる。テストの終わる金曜日には返すつもりで、まどかは自分自身のバーコードを読ませた。一瞬でパソコンのディスプレーに表示が出て、手続きは終わった。テスト期間中の緊迫した空気は、あえて描く必要もないだろう。

なんとか無事にテスト自体は終わった。だが。


「まどかぁ~、ちょっといい?」

「あれっ。どうしたの? しぃちゃん」

D組の松崎静佳が珍しく、まどかのクラスにやってきた。

午前中でテストはすべて終わり、教室の空気が、机やイスがぶつかる音に明るく独り占めされていた。まどかも帰宅のためにカバンを片づけていたところだった。しぃちゃんのソフトテニスの部活も再開するはずだ。悪夢のような難問から解き放たれて、午後は気持ちの良い青空とお揃いの、すばらしく楽しい時間になるはずだった。

その割には、しぃちゃんの顔が冴えない。

「ちょっと、こっち来てよ」一体何だろう?


教室を出て、階段の柱の蔭で、しぃちゃんがこっそりつぶやく。

「まどか。あんた、本当にやってない?」

「何のこと?」

「一年のテスト。カンニングの噂が出ているって話、まどかは知らない?」

「一年なの? どうしてあたし?」

「さっきテストが終わってからね、生徒会の用事で職員室に入ったんだ。そしたら……」

先生たちが話し込んでいるのが聞こえてきた。そして一年のテストで不正が行われた可能性があること、そして何より静佳が耳を疑ったのは、行橋まどか、という名前が出てきたことだった。

「先生たちは、テスト問題を洩らしたのが、まどかじゃないか、って疑っているらしいのよ」

まどかは絶句した。

「言いだしっぺは、国語の竹越先生らしい。そこまではわかったんだけど、あたしが話を聞いていると思われたのか、追い出されちゃった」

「……」

「ね、あたしの目を見てよ」しぃちゃんが、真剣な顔で迫ってきた。

「やってないわよね。まどか……」

とんでもない。どうしてカンニングなんかで疑われるの? とまどっている二人のそばに、数学の西澤先生が階段を登ってきた。

「ここにいたのか。行橋君、帰る前に職員室に来なさい」

「先生……」

「私からは何とも言えん。とにかく、話を聞きに行きなさい」

西澤先生はそれだけ告げて、再び階段を降りていった。老数学者の目は、明らかにこの事態に困っているように見える。あとには青ざめて、静佳と顔を見合わせるまどかが残された。

どうしよう。どうしてこんなことに……。

「あたし、やってなんかいないよぅ」

しぃちゃんがあたしの目を見た。そして小さくうなずいた。

「大丈夫。あんた、やっていないんだから、濡れ衣は絶対晴れるよ! まどかにだって言い分はあるでしょ。二年生が一年生のカンニングなんか、関わるはずないじゃない」

その通り。自分には身に覚えがないことなのだ。時間が止まったかのように二人を包んだ見えない繭。その一角をバリアのように迂回しながら、次々と、教室を出た生徒たちが階段を下りていく。説明すればいい。先生たちだってきっとわかってくれる。

まどかは教室にとって返してカバンを持つと階段に向かった。

半分回り降りた踊り場のところで、しぃちゃんが頭の上から叫んでくれた。

「あたし、まどかを信じてるからね!」

「ありがとう」


まどかは図書館に向かった。

疑惑をはねかえす自信はある。だけど場合によったら話は長引くかもしれない。まずは落ち着こう。ドアを開けると、金曜日の当番に当たっている一年生が、もうカウンターに入っていた。「安城さん。これ返却」

「はぁい。センパイ、あたしが返しておいていい?」

「悪いわね。お願い」

バーコードリーダーのピッという受付音で、心の準備まで一瞬で終わったように思った。いつもなら、もっと長く、ここの空気に触れていたい。だけど、今日はここまでだ。まどかは、図書館を出て、ドアを後ろ手に閉じた。


一階の職員室。

プラスチックタイルで鈍く光る廊下を進んだところに、たくさんの貼り紙や書き込んだホワイトボードで窓がふさがれている一帯。室内は当然見えない。扉には〈テスト期間中、生徒入室禁止〉のプレートがまだそのまま下がっていた。そもそも西澤先生は、どの先生に会えとも言わなかったから、呼びかけるあてがない。

しかたがない。ドアをノックして開ける。

「失礼します。二年の行橋です」

「お、ちょっと待って。進路相談室へ行ってもらうから、廊下で待っていなさい」

教頭先生がまどかに言うと、竹越先生を呼んだ。職員室にいないらしく、戻ってくるのを待つことになった。担任の都筑先生も無言でこちらにやってくる。目が困っている。西澤先生と同じだ。わかっていたものの、ただ事で済みそうにない。数分後、ドアのところで、国語の竹越信恵がメガネの奥から、鋭い目でまどかを睨んだ。二人の教師に挟まれて、まどかは、まだ一度しか入ったことのない進路相談室に入った。

都筑先生がカギを解錠した。スイッチを入れて、部屋がまばたきをして目を覚ます。空気がまとわりつくように澱んでいる。雑念のようにうっとうしい。

「まあ、掛けなさい」

都筑先生が、いつもの口調で、まどかにソファに座るよう促した。

「なぜここに呼ばれたか、わかるか?」

おだやかな言い方だが、まるで最初から、犯人だと決めつけているようにも聞こえる。それとも竹越先生のいる手前、そのような語勢で言うしかないのだろうか。

一瞬の推理。

カンニングの話は、まどかが静佳から聞いただけなのだ。まどかが、事情を少しでも聞きかじっていることを、先生たちが知るはずがない。さらに、テスト後の先生たちは誰も、カンニングの「カ」の字さえ口にしていない。したがって、ここは「知らない」と答えるべきだ。

「いいえ」

「そうか」

都筑先生の語尾は疑問でも納得でもなかった。ひどく微妙だ。

だが、担任としての前置きはそこまで。タイトスカートの竹越先生が、わざとゆっくり、噛みしめるような言い方をした。

「行橋さん。今のうちに言えば、軽い処分で済ませたいと考えているのよ。自分の胸に手をあてて、よく今回のことを考えてみたらどう?」

(そんな……)

都筑先生が割り込んだ。

「まあまあ先生、まだそうと決まったわけじゃないんですから……」

どこかで聞いたようなセリフだ。祐介もそうだが、男ってみんなこんなふうに、事態をなぁなぁで収めようとするような言い回しをするのだろうか。要するに、都筑先生もまどかの味方になるべきかどうか、揺れているわけだ。担任だっていうのに。

いや担任だからこそ、迷ってくれているのか。最初から犯人扱いされても決して不思議ではない事態だからだ。

  竹越先生が姿勢を直した。

「しかたがありませんね。本題に入りましょう。昨日、一年生は現代文のテストを行いました。テストを回収した後、午後になって、奇妙なことがわかったのです。どんなことだか行橋さんにはわかるでしょう?」

わからない。

 沈黙。返答がないので、話が続く。

「一つのクラスで、特定の問題に正解が集中しました。他の問題にあまり答えていない生徒も、そこだけはかなり正解を出しました。だけど他のクラスには、そんな傾向は見られなかった」

「……」

「不思議なこともあるものだと、そう思っていた矢先、ある女子生徒が私のところに持ってきた一枚の紙で、集団カンニングであることが発覚したわけです。つまりは、これ!」

テーブルクロスの上に、文庫本ほどの大きさの紙が差し出された。

ルーズリーフのノートを半分に切ったものに、鉛筆でメモ書きされていた。

「それと同じ情報が、クラス全員とは言わないまでも、複数の生徒にばらまかれた。それが今回の事件です」

そこに書かれた内容を見たまどかは、ハッとした。まさか。

「覚えがあるようですね。今なら自分がやりましたと言えば、私としては……」

「待ってください! これは私が書いたものじゃありません」

筆跡がちがうのだ。それをわかってくれさえすれば。

「その通り。だけど筆跡は、この場合問題にはならない」

(えっ!)

「このメモは単なる写しで、この情報が、最初どこから出てきたのかが問題というわけ」

まどかは訝った。

「メモを発見した生徒は、図書館で借りた本に挟まっていたのだと証言しました。偶然、自分が読もうとした本に。知らないはずはないでしょ。あなたも借りている十冊シリーズの七冊目」

まどかは思わず叫びそうになった。『ヴィロニッキ・サーガ』だ!

「でも、それじゃ、この紙を書いた人が……」

「きっとそうでしょうね。本に挟んでおいたのも、書いた本人だと思います。テストの筆跡と比べれば、それが誰なのかは簡単に判明するでしょうね。ただし、あくまで問題は内容の方。この問題文の元になった文章は、私が図書館の本から引用したのだけど、その本を、テスト問題ができあがってから借り出して、しかもテストが終わると同時に返却した生徒が全校でただ一人だけいる。この意味がわかる?」

まどかは凍りついた。そんな偶然があっていいのだろうか。

「テストに使う本の名前は、私は知らせていない。どんな文章にでも対応できるような問題としての出題でしたからね。どの本か、一部の生徒だけに知れただけで、テストの公平性が損なわれます。それなのに問題の具体的な内容まで洩れているのでは、事件としか言えない。これは一体どういうこと? 何のために、二年生が一年生のカンニングなんかに関わったりしたの? 理由を言いなさい。私に納得のいく説明をしなさい」

「私は、そんなことは……」

「さっき、まだ消されていなかった貸出履歴を調べました。ここへ来る途中で本を返すなんて、証拠を隠滅するつもりとしか思えない。偶然だという言い訳は通用しません。これでもシラを切るつもり? 自分のやったことを少しは反省したらどうなの!」

竹越先生が立ち上がって、まどかを怒鳴りつけた。


まどかは泣き出した。

見知らぬ筆跡で書かれた、あこがれの南アメリカの動物たちの名前。、それは今となっては、まどかを責め立てているようにしか見えなかった。

(あたしじゃない、あたしじゃ……)

まどかは顔を上げられなかった。

なぜこんな悪循環みたいな罠に落ちてしまったのだろう。一連の出来事全体が、どこかで巧妙に仕組まれた陥穽のように感じた。

「先生、少し行橋を落ち着かせてもらえませんか。これでは話もできないでしょう」

都筑先生が、一方的な流れにとりあえずブレーキをかけた。

「いいでしょう。泣いたということは、すでに自分の行為を認めたわけです。叱責はともかくとして、処分については、これから相談しなくてはいけませんね」

(ちがう、ちがう……)

竹越先生が立ち上がって、足早に進路相談室を出ていった。とてつもなく重苦しいドアの音で、部屋は再び閉ざされた。吹き込む風が止まった。歪んだ視界には暗い床が見えるだけ。

一滴だって落としたくないのに、くやしさは雫に光って滲んでいく。

ひたすら問い続けるしかない。

何だろう。そもそもの最初は全体何から始まっているのだろう。

「行橋、お前から何か言っておくことはないか?」

思考がとぎれた。どういう意味だろう? 無実なら抗弁せよとは聞こえない。少しでも処分を軽くできる理由を言え、とでも言うのか。そんなふうしかに聞こえない。

まどかは立ち上がった。このままだと、なおさら凹んでしまう。

これは罠だ。誰かが仕掛けたというわけではないのかもしれない。だが、このままでは悪循環から脱出できない。恐ろしい渦にどこまでも巻き込まれるだろう。

「あたし、やっていません」

かろうじて、やっとそれだけが声になって出てきた。

「信じてください。あたしではありません」

「だが、竹越先生の調べたことは事実だ。どうやってひっくり返すつもりなんだ?」

「少し時間をください。かならず本当のことを明らかにします」

「そんなことができ……」

「信じてください!」

金属の棚に囲まれた狭い空間を、すり抜けるようにまどかは出ていった。

「失礼します」

ドアを閉めたその瞬間に、たった今立ち上がったときの勇気が消えていった。

その場に自分が崩れてしまいそうに思った。廊下の角を曲がり、都筑先生が追いかけてきそうにない場所で泣いた。気がつけば廊下が暗い。空が曇っている。さっきまでの青空が、今にも大粒の雨に襲われそうな空に急変していた。

あたしの行くべき場所はどこだろう。最後に残された場所。それはあそこしかない。


「あたし、まどかを信じてるからね!」

そう叫んだ松崎静佳は、まどかの姿が階下へ見えなくなって、教室に帰ろうと廊下を向いた瞬間、背後から呼び止められた。

「何を信じるんだって?」

「なーんだ吉見君? 何でもないの」

「階段を降りてったの、行橋だろ。何かあったのか?」

「だから、何でもないってば」

「カンニングか?」

静佳は目をむいた。

「あんた、どうしてそれを……?」

「二人の言葉の断片をつなぎ合わせたら、そんなことだろうと簡単に推理できる」

困惑にみちた表情をわずかにゆるめて、静佳は同じ話をもう一度繰り返した。雲の中へ休憩した太陽が、再び廊下にまぶしさを返してくれるまでの時間が流れた。そして静佳の話が完全に終わらないうちに、祐介は階段を走り下りた。

「吉見君!」

返事の代わりに足音が続いた。


図書館のドアは、いつもの午後のようにまどかを迎えてくれた。

室内の空気が、嗅ぎ慣れたやさしい紙のにおいを漂わせている。だけどただ、薄墨を一滴落としたあとの波紋のように、動揺しながら広がっていく光が、嫌が応でも不安を増幅させる。

風? 窓は閉められている。舞い降りる木の葉が、天気の急変を告げている。

まどかはいつもの丸テーブルを選んだ。両手でほおづえを突き、顔を覆うしかなかった。

(考えろ、考えるのよ。どうしてこうなったのか、少しでも原因をつかまなくては!)

まどかは決して自分に負けまいと、ここしばらくの記憶を振り返ってみた。

まず今週だ。何があったか。

身に覚えのないカンニング事件。しかも一年生の。もちろんあたしは関わりがない。関わるような理由も持っていない。ノートの切れ端が挟まれていたという本が、祐介と話題にしていた、あの『ヴィロニッキ・サーガ』の七巻だったという偶然には戦慄すら覚える。本当に偶然だったのか。なぜあの本だったのだろう。そこにどんな理由があったのか。

第七巻?

そういえば何日前のことだったろう。祐介と七巻目がなくなっていることを不思議だと言い合っていたのは。最初に借りた生徒(竹越先生は女子だと言った)が、一番先まで読み進んでいたのだから、それ以上読んだ生徒はいないはずだ。では、何のために途中の七巻は借りられたのか。今となってはその理由は明らかだ。盗まれたテストの解答を挟んでおくのが目的だったのだ。隠すため? いやそうじゃない。『ヴィロニッキ・サーガ』を読みたがっていた生徒は、マニアの中にかなりいる。現に祐介が第一号を目指していたのに、先を越されたのだから。何かを隠しておくのには、最も向いていない本だろう。だとすると?

窓ガラスをたたく音が聞こえてきた。

(雨!)

とうとう降ってきたんだ。あんなにいい天気だったのに。


祐介は、一階の教室をのぞいた。

帰っていなければいいが、と思っていたが、全然そんな心配はなかった。まだ掃除すら終わってなくて、ざわざわとやかましい。

いたいた。あいつらは小学生か。ヘッドロックで遊んでる場合じゃないぞ。掃除が終わってない理由がわかった。

「杉野、いるかぁ?」

「あ、先輩。部活だったらすぐに行きますから」

ワザをかけていた一年生の杉野が、笑いながら祐介に返事をした。

「そうじゃなくてさ、昨日の現代文のテスト問題、お前持ってないか?」

「え、無理っすよ。オレそんなの、とっくに持って帰ってるし」

「困ったなぁ、他に持ってるやつはいないのかよ」

「オレが持ってるぜ」

直前まで頭を抱えられていた男が、杉野の腕から抜け出して言った。

「テスト問題なら、オレ、ぜ~んぶ大事に残してあるんだよ!」

「お前、何言ってんだ。何でもかんでも机に突っ込んであるだけだろ?」

身も蓋もないことを杉野が言う。だけど、そういうやつのおかげで、一年のテスト問題を知ることができるのだ。しばらくの間、さんざん机を引っかき回したあげく、ようやく現れたのは、半分くちゃくちゃになった問題用紙だった。その問題をざっと読んだ祐介は、ある個所で思わず目を大きく開いた。

「そうだったんだ……」

「あの。ちょっと、先輩?」

杉野が心配そうに、固まってしまった祐介の顔をのぞき込んだ。

(こうしちゃいられない!)

問題用紙を返すと、「吉見先輩って、どうかしちゃったんじゃないか?」という、後輩の声を放りっぱなしにしたまま、祐介は図書館に急いだ。

(行橋は、今日は本を返すと言っていた。それならば行き先は……)


まどかは雨を見ていた。

どこまでも落ち込んでダークグレーに染まっていく気持ちを洗い流してくれる。図書館には自分ひとり。そういえば、あの本は?

気になったのは、例の第七巻の方ではない。『ラ・プラタの博物学者』だ。ここから座ったままで見える、外国文学の書架を見渡した。

ない?見あたらない。なぜだろう。

決して難解な本ではないとはいえ、『動物記』のシートンや『昆虫記』のファーブルの方が、ずっと有名だろう。それなのにあの一冊だけが見あたらないのが、何か不思議な感じがする。

まさかカンニングに関係しているのか? いや、そうとは限らない。出題されたテストが元で、引用された本への関心が芽ばえたこともありうる。あたしが本を返したのは、ついさっき、午後になってからだった。このわずか一時間ほどのあいだに、同じ本を借りた生徒が現れたのだ。

きっと一年生なのだろう。テストの内容は、他の学年の生徒には知るよしもない。

あの本がここにあれば、少しでも解決へのヒントが得られるような気がするのに。こんなときに限って……。まどかは度重なる運の悪さをくやんだ。

雨は激しくなっている。

 部活を中断された運動部員の姿が、みるみるグラウンドから消えていった。


廊下を全速力で走った祐介が、いつもよりもさらに慌ただしく図書館に駆け込んだ。ちょうど図書館を出ようとしていた女子生徒と、すれ違いざまにぶつかりそうになった。

「ごめ~ん!」

カバンを置くのももどかしく、急いで奥の閲覧室を見渡した。

「行橋っ!」

いない。まどかの姿がない。彼女が今どうしているか、最悪の察しがついた。急いだつもりだったのに、遅かったのか!

書架の方へ行った。「930英米文学」の列をざっと見た。あの本がない?

取って返して、祐介は準備室に声をかけた。ノックしていきなり室内を呼んだ。

「川村先生!」

「あら、吉見君、今日の図書館は早じまいするわよ」

「尋ねたいことがあるんです。行橋はきょう、本を返しましたか?」

「ええまぁ……」

「それじゃ、その本を誰か、借りた生徒はいませんか?」

「それは教えられないわ。個人情報になるでしょ?」

「たかが本なのに?」

「本だからこそ、教えることはできないの。それがなぜなのか、わかる?」

目が真剣だった。

「わかりました。でも困るんです」

「何か事情でも?」

「冤罪を晴らさなきゃならないんです」

祐介は理由を説明した。

「先生、ここからのオレの話は聞くだけにしてください。借りて行ったのは、一年生の安城という生徒なんだ。違いますか?」

「残念だけど、それはノーコメント」

「そうですか。でも答えなくていいんです。その安城という生徒はどこに?」

「さっき、図書館を出ていった人が安城さんよ」

しまった!

「先生、オレ急ぎます」

「吉見君、どうして、安城さんだと……いえ、どうして見当がついたの?」

「そこの図書当番表です。今日金曜日の当番に当たっていて、しかも一年生だから」

確かに学年を書いて、カウンターに貼ってある。

「それだけ?」

「テストが終わって、印象に残った出題元の本が目の前に現れた。返却を頼んだのが図書委員長の先輩。だったら、即、自分が借りようと思ったんだって。オレ、その可能性に賭けます」

「ただ、可能性だから?」

「そうです。けど今、図書館はがら空きです。だから当たっている確率は高いと思います」

ふたたび図書館には不似合いな足音が廊下に出るまで響いた。

祐介は焦った。追いつくだろうか。でも、その前に確かめなきゃ! 薄暗い廊下を、ひたすら職員室に向かった。

行かなきゃならない。しかし職員室という空間は、見えない敷居がすごく高いのだ。ドアの前に立ったが、まだ「入室禁止」のプレートも外されていない。

(もうテストは終わってるのに!)

対応が遅いことに焦った。杓子定規に考えれば、今、中に入ることはできないのだが、そんなことにかまっている場合ではないのだ。

「失礼します」

祐介はドアを開けた。うっかりと、大切なことを考えていなかった。誰を呼ぶつもりだ、オレは? 一瞬、思考が白紙になった。

教頭先生が、祐介に気がつく。

「お、何か用事かね?」

「西澤先生はおられますか?」

祐介は思わず、老数学者の名前を口走った。

「吉見。テストが終わったのに質問か?」

遠くの机から、生徒間でひそかに「子守歌」と呼ばれている西澤先生が返答した。

「あの、そんなんじゃなくて……」

えーい。どうにでもなれ。なりゆき任せだ。

「行橋を助けたいんです。だから、一年生の安城という生徒の部活が何部なのか、もしご存じなら教えていただけませんか?」

西澤先生が、何を思ったか、ニヤリと笑いかけた。

「さすがだな、探偵。一年の安城なら、他ならぬ私が顧問の卓球部だ。どうしてわかった?」

何て運がいいんだ!

「午後はどこでやってます?」

「あすの試合に備えて、今日は練習もミーティングもなしだ」

「ええっ?」

「もう下校したんじゃないかな? 駅に行ってるはずだ」

大変だ。何て運が悪いんだ!

「先生ありがとう。オレ追いかけます」祐介は職員室を急いで出ようとした。

「おい、待て吉見!」

と、突然、空中に見事な放物線を描いて、西澤先生が何かを投げてよこした。

バシッ! 祐介は両手の挟み取りでキャッチした。

「俺の自転車のキーだ。理科教室横の駐輪場にあるから乗って行け」

某ゆるキャラのキーホルダーがついていた。

「先生!感謝します」

「早く行け。電車に間に合わないぞ」


図書準備室のドアが開いた。

「あら、行橋さん。今日は当番じゃないのに」

「すみません。ここに……いいえ、どうしても用事があったんです」

川村先生が、まどかの表情がいつもと違うことに気がついた。涙の跡がまだ残っていたのだ。

「あなた、何かあったの?」

「何でもありません。ただ」

「ただ?」

「……言えません」

図書委員長として、身にあまるほど信頼してもらっている川村先生には、とても言えない。

秒針が一回りする間、雨が木の葉を打つ音だけが聞こえていた。沈黙を破るきっかけを、二人とも失っていた。


鉄壁の沈黙を破ったのは、図書館のドアをけたたましく開けて駆け込んできた男。

「行橋、ここにいたのか!」

「吉見君。あんた……どうしたの、ずぶ濡れじゃないの!」

「そんなことはどうでもいい。いつものバッグを持ってるか?」

「バッグ?」

「いつも、弁当なんか、入れてきたりしてるじゃないか。あれだよ」

まどかは意表を突かれて戸惑った。そして何とも情けなくなった。あたしがこんなに困っているのに、弁当のバッグ? いくら事情を知らないとはいえ、あまりに焦点をはずした祐介の暢気さに、怒りさえ湧いてきた。

「そんなもの、どうだっていいでしょ!」

「持っているのか、って聞いてるんだ。行橋! 頼むから答えてくれ」

「……あるわよ」

まどかは、カバンから、小さなハンドメイドのバッグを見せた。

「これがどうかしたと言うの?」

「ちょっと借りる!」祐介は、まどかのバッグを手にして駆けだした。

「バッグなんか、どうすんのよぉ!」

「これで行橋が助かるんだ、詳しい話は……あとで!」

祐介はドアも閉めずに、廊下を走って出ていった。

(あたしが……助かる。って。それじゃ吉見君は?)

まどかに、ひとつだけわかったことがあった。

祐介が、あたしを助けようとしてくれている。

この大雨の中、彼は何かをしてきてくれたんだ。いつもの大きなスポーツバッグから滴が落ちて、図書館の床にいくつもの水たまりを光らせていた。


キーを受け取った祐介は、駐輪場に来た。

意外にも西澤先生の自転車はクロスバイクだ。慣れないと高いサドルは安定が悪そうだが、変速も十八段はありそうだし、速度はそこそこ出せるのだろう。

「あれ? まずいな」

雨が降ってきたのだ。つい先刻までの青空はどこへ行ったのだろう。どうしてこんなときに。だけど時間はない。校門を後にすると、ひたすら駅への道を走った。濡れるとブレーキがかかりにくいが、駅へ着くまでがんばればいいんだ。駅まで。

「あっ!」

うかつにも、自分が安城の顔を知らないことに気がついた。

 どうしよう?

今も通学路を駅へと歩いている生徒がいる。このうちの女子の誰かが安城かもしれない。だが駅に行けばなんとかなる。そう考えるしかなかった。脚は必死でペダルを踏んでいた。

適当に自転車を止めて改札へ向かう。さて、どうしたらいいか。迷っている間に電車が来てしまったら?

高架のホームからアナウンスが聞こえてきた。

「次の1番線の電車は……」

祐介は定期を自動改札に通して、駅に入った。急いで1番線の階段を全速力で駆け上がる。

そしてホームを叫びながら走った。

「安城さん。いませんか! 美郊ヶ丘高校一年の安城さん!」

何度も呼びかけている間に電車が入ってきた。ホームにいた何人かの生徒が乗車した。発車のベルが鳴りわたる。ホイッスルが鳴って、電車のドアが閉まった。レールの音も高く、電車が駅を離れて行く。蛇腹につながれた鱗のような窓が遠ざかっていった。

あぁ。せっかく来たのに。

「安城さ~ん!」

祐介が電車に向かって叫んだ。

「はい」

驚いて顔を声のした方に向けた。

「何かあたしに用ですかぁ?」

向かい側、2番線のホームで、制服を着た一年生が呼びかけていた。


時間が過ぎていった。

雨は止まない。

祐介の残していった水溜まりを始末すると、準備室に入れてくれた川村先生が、「どう、話ができる?」と聞いてくれた。

まだ気持ちは落ち着かない。だが、勇気を出してみようとまどかは思った。

長い話が終わると、川村先生は「大丈夫、あなたはやっていないんだから、自分を信じなさい」と言った。

外の廊下で、バタバタと走る足音がした。

いつもなら祐介が間髪を入れずに飛び込んでくるのだが、なぜかそれはなかった。しばらく経ってから、図書館のドアが開く音がした。祐介か、と思ったら、そうではなかった。別人の声で、「行橋さん」と呼びかけられた。都筑先生、竹越先生がやってきたのだ。

まどかは動けなくなった。とうとう処分が決まったのだろうか。頭の中で、学校をやめさせられた自分、家に閉じこもって泣く自分の姿が、ストロボの残像のように浮かんだ。


祐介がふたたび職員室にやってきた。

一年の現代文。きっと竹越先生が出題者なのだろう。去年のオレもそうだった。ドアを開けると、近くに竹越信恵の姿があった。祐介は参考資料の積まれた机までやってきて、いきなり呼びかけた。

「先生、話があるんですが」

「あぁ、吉見君。悪いけど、いま手が放せないので、も少し後で聞くわ」

「行橋の件で話があるんです。聞いてもらえませんか?」


 進路相談室。

たぶん、行橋はここに呼ばれたのだろう。二対一。室内に入ってから祐介は気がついた。これではまるで自分がカンニングしたみたいだ。こんな雰囲気は困る。

「吉見君がどういう話をしたいのかわからないけど。何か証拠でも見つかったのかしら?」

竹越先生が非常に疑わしそうな顔つきをする。

「証拠を出せと言われるなら、あります」

「本当なのか」

都筑先生が身体を乗り出して、祐介に言う。

「ただし、先生たちの考えとは逆です。行橋は無実です」

「そんなことを言いに? カンニングは彼女も認めているでしょう?」

そんなの早合点のしすぎだ。竹越先生の誤解は無視して続ける。

「カンニングは現代文のテストのときだから、昨日の話でしょう。だけど、事の起こりをもっと前から説明したいんです。いいですか?」

とりあえずは、うなずいてくれた。

「先月の終わりのことです。以前からリクエストのあった『ヴィロニッキ・サーガ』という本が、図書館に十冊揃って入ってきました。月が変わった最初の火曜日は、放課後が行橋の図書当番なので、ぼくも借りに行こうとしました。でも第一巻は、もう誰かが借りてしまっていました。この場合、代わりに第二巻を借りるわけにはいかないので……」

「ちょっと待て。どうしてだ」

 都筑先生の疑問には、竹越先生が答える。

「十冊が連続した話だからですよ。途中から読んでもお話になりません。……でも、そんなことがカンニングにどう関係するの?」

「すごく関係ありますよ。それこそが、カンニングが行われたことが、竹越先生にわかってしまった発端につながるんです。で、その次の火曜日は連休明けでした。このときはもう第一巻が返却されていて、ぼくも無事に借りることができました。その次の火曜日は第五巻が借りられていて、ぼくは第三巻を借りたんです。このことから何かわかることがあるでしょう?」

「いや……」

都筑先生にはさっぱり見当がつかないようだ。

「大ざっぱに言って一週間に二冊、ぼくに先駆けて読んだ生徒は、そのペースで借りては返しています。ぼくも同じように後を追いました。そういう一定のペースで読める本だったんですよ」「だから、どうだと?」

「第七巻を借りるのがいつになるか、ほぼ見当がつきます。テストの前日あたりだと」

先生二人が同時に「あっ」と口を開いた。


「最初の読者となった生徒は、連休を含んだ今月の第一週に一・二巻、次の週に三・四巻、第三週には五・六巻を借りています。テストは今週、第四週の後半でした。だから、今週の月曜日か火曜日に借りるだろう、と予想できるわけです。こうなると、通常なら非常に難しいことが可能になるんです。つまり本の間に通信文をはさんで、あらかじめ連絡なしに、特定の相手だけに読ませることが」

「すると……洩れた問題を?」

「そうです。かりに、カンニングがグループで行われたのなら、仲間だけで連絡をすればいいわけです。だが、仲間でない者に、誰からとも告げずにひそかに渡したいときは、そうはいかない。ここに図書館の本が悪用された理由があったんです」

竹越先生が口を開いた。

「だけど、そんな面倒なことをしないで、教室で手渡せば済むことだと思えるし、こっそりカバンに入れるとか、机に入れるとか、方法は他にもあったでしょう?」

「そうかもしれませんが、そのような方法では、同じクラスの無関係な生徒にもバレる可能性があります。さらにはカンニング仲間にもわかってしまいます。裏切りや抜け駆けだと思われては大変だから避けたかったのでしょう。こっそりカバンに入れるにも、けっこう勇気が必要だったのかもしれません」

「なぜ?」

「渡したかった相手が女子で、犯人が男子だったから」


都筑先生が膝を打った。

「ありそうなことだ」

「本を借りていたのが、具体的に誰なのかは知りません。だけど洩れた問題を本の間から見つけて届けたのは女子だったそうですから、その可能性が高いと思ってます。運良くテスト問題の一部がわかった。これをあの子にも教えてあげたい。というわけです」

「でもさっきの話だと、かなりの期間、本を借りる行動を見ていないと見当がつかないんじゃないかしら?」

「見ていたでしょう。好きなんだから、何を借りるのかを」

「なるほど」

「最初は何を借りるのかという、ただの好奇心だったかもしれない。いつか本を利用して通信に使おうと思いついたのでしょう。それが具体化したのがテスト問題だった。先週の火曜日に、第七巻が犯人によって借りられ、問題の紙を挟んだうえで、遅くとも木曜日には返却されていました。ずいぶん速く読んだみたいですが、中身は読んでいないかもしれない。本を借りているというアピールをすることで、七巻目も借りようという意欲を、彼女に持ち続けてもらおうとしたのかもしれません」

「……」

「彼は、たぶん男子だからそう呼びます。見込み違いは、彼女がカンニングの件を竹越先生に通報したことです。好意のつもりだったのに、彼女はそうは受け取らなかった。事情を知らない彼女からすれば、完全に正当な行いですから、クレームをつけることもできない。そんなことをすれば、いや、自分が事情を打ち明けただけでも、嫌われてしまう可能性が大きくなるわけです」 都筑先生が腕を組み、大きなため息をついた。

「竹越先生、それで犯人が誰なのか、どのあたりのグループなのか見当がつきますな」

「ええ、ノートの字からでもわかります。吉見君の推理は間違っていないでしょう」

 だが。

「吉見君の言うことはわかりました。しかし、最初に問題を洩らしたのが行橋さんであることには変わりがない。彼女がどんなふうにこの事件に関わっているのか。それが知りたいのよ」

「では説明の後半にいきます。ぼくが本当に聞いてほしいのはここからです」

祐介は話を再開した。

「一年の現代文の問題で、事前に洩れた分は、行橋が借りていた本の内容から取られていました。だから疑いが行橋にかけられた。ここで問題なのは、行橋がいつ本を借りたのか、です。彼女は今週火曜日に借りて、今日、金曜日に返していると思います。そうですね?」

「間違いないわ」

「ぼくが聞いてほしいのは、行橋が『ラ・プラタの博物学者』を先月から読んでいる、ということです。毎回少しずつ図書館のカウンターで読んでいたんです。それが『ヴィロニッキ・サーガ』の第七巻がなくなっていた日に図書館からなくなって、行橋は続きが読めませんでした。テスト週間でしたが、誰かが借りると読めなくなると思って、借りることにしたんです。残りが読めたから、先ほど返した。それだけが行橋のしたことです」

「先週、本がなくなった? それは当然よ。私がテスト問題を作るために借りたんだから」

「やっぱりそうだったんだ! でも行橋はテスト問題が作られる、はるか以前から、『ラ・プラタの博物学者』を読んでいるんです。だからテストに出題されることがわかって借りたのではありません」

「でも、それを証明できる? 前から読んでいたなんてこと」

「できます。物的証拠があります」

「何だと? 指紋だなんて言うなよ」都筑先生が身を乗り出してきた。

「指紋じゃありません。これです。さっき一年生から無理を言って取り戻してきたんです。後で返しに行かなきゃ」

祐介が一冊の本を出した。『ラ・プラタの博物学者』だった。

「この本にはしおりが挟まれています。竹越先生、このしおりに見覚えがありますか?」

竹越先生は布のしおりを見ていたが、軽くうなずいた。

「先生がテストを作るために借りたときには、もう挟まっていた。そうですよね」

「えぇ、その通り」

「では、このバッグを見てください。バッグの中の裏地です。しおりと同じ布ですね?」

二枚ともカンバス地で、布は、明らかに共布だった。

「このバッグは行橋のお母さんが作ったハンドメイドなんです。だから先生が借りたときに挟まっていたしおりが、行橋が挟んだものである以上、テスト問題に引用される本が決まる以前から、彼女はこの本を読んでいたんです」

「……」

「話はまだ終わってません。竹越先生。テストの出題元は、この部分についてはどんな本からでもよかったのに、実際に選ばれた本は行橋の読んでいた本だった。なぜそうなったか?」

「……」

「先生、思い出してください。先生がこの本を選んだ理由は、行橋の挟んだ布のしおりが目に止まったからなんだ。そうですね?」

「……その通りよ」

竹越先生が折れた。

「そうだとしても、吉見。まだ完全とは言えないだろう。竹越先生、問題を作ったのはいつですか?」

都筑先生が念を押した。

「先週の火曜日。本を借りた日に職員室で作ったのよ」

「その後で、作った問題を見ることができたかもしれない。その可能性はどうする?」

都筑先生の疑問に祐介が答えた。

「作ったのは火曜日……翌日の水曜日はテスト前一週間ですよね。だからそれから先は生徒は職員室に入れない。可能性があるのは火曜日です。その日に職員室に来ていた生徒に行橋がいなければ、彼女は無実なんです」

「それはどうやって証明する?」


そのとき突然、今まで密室状態だった進路相談室のドアが開いた。

「吉見、自転車のキーを返してくれないか?」

西澤先生が顔を出した。

「すみません、すぐに返しに行けばよかったんですけど」

祐介はまだ濡れているポケットからキーを取りだして渡した。

「西澤先生、先週の火曜日なんですが……」

「行橋なら来てないね。職員室では、今月はさっきドアのところで見たのが初めてだ」

「話を聞いてたんですか!」

「そりゃ、探偵の謎解きを聞きもらすわけにはいかないさ……これで〈証明終わり〉だな」

そして西澤先生が行ってしまったあと、室内の空気は完全に入れ替わっていた。

「吉見君。私たちがまちがっていた」

「行橋さんにあやまっておかないと。すぐに行きましょう」

「ありがとうございます!」

「おかげで、大間違いをしなくてすむ。礼を言うよ」

終わった!

一刻も早く、疑いが晴れたことを言わなくては。

「行橋さんは、今どこにいるのかしら」

「行くところは決まっています。一緒に来て下さい」

祐介たちと廊下を歩きながら、竹越先生が、ふっと思い出したようにつぶやいた。

「吉見君、聞いていい? 行橋さんのしおりとバッグの裏地が共布だってことを、どうしてあなたが知っていたの? それにあなたが火曜日だけは欠かさず図書館に行ってるのは……」

祐介は立ち止まった。

本以外の持ち物を突きだして竹越先生に手渡した。

「先生、バッグとしおりを行橋に返してやってもらえませんか」

「え、あなたが届けてあげないの?」

「オレ、この本を安城に届けてやらなくちゃならないんです。無理言って借りてきましたから」

『ラ・プラタの博物学者』を抱えて、祐介は廊下を走りだした。


そして。

図書準備室で、まどかは竹越先生からバッグとしおりを受け取った。

「吉見君も、自分で渡してあげればよかったのに」

「いや、例のメモを挟んだ生徒と同じです。あいつは逃げ帰ったんですから」

都筑先生は言外に、あなたが余計なことを言ったからだ、と言いたそうだったが、竹越先生はどうも気がついていないようだ。

まどかはつぶやくように言った。

「これで……終わったんですね」

 祐介が無実を証明したことも、まどかは知らされた。雨の中を駅まで走ったことも。

全部の話を聞き終わって、川村先生がぽつりと言った。

「行橋さんが以前からあの本を読んでいたことは、私も見て知ってはいたんです」

驚いた竹越先生が言った。

「それなら、どうしてそれを早く言わなかったんですか?」

「吉見君があんなに一生懸命がんばって、無実を明かそうとしていたでしょ? だから私の証言は最後の切り札に取っておこうと思ったんですよ。でも、もうその必要もありませんね」


まどかは外を見た。

いつのまにか雨が上がって、青空が見えはじめていた。

窓から消えていく雨粒とうらはらに、あふれてくる温かい滴が止まらなかった。空がもう一度、南アメリカのパンパスへ、遠い道となってつながっていくように思った。

そうだ、こうしてはいられない。

「あたし、帰ります」

まどかは図書館をあとにした。

今なら祐介に追いつくかもしれない。何があっても、ありがとうを言わなくちゃいけない。

駅へ行こう。それがあたしの〈サーガ〉の幕開きになるかもしれない。

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