第28話

 試合は半ば予想された通り、投手戦の様相を呈した。

 五回を終えた時点で両軍あわせて、わずかヒット五本。さらに言えば無四球だ。互いの背番号一が緊迫した試合展開をつくる。

 早くも試合は後半戦、六回表を迎える。

 俺はブルペンから試合の様子を見つめる。先生に、「いつでも行けるようにしておいてくれ。いいな?」と言われて、初回から準備しているのだが、この調子ならもしかすれば最後まで俺の出番がないということも十分あり得る。

 だけど得点にまで結びついていないとはいえ、どちらの打線も、積極的にエンドランなどを絡めて得点圏へ走者は進めているし、セーフティバントなどの揺さぶりもある。簡単なアウトカウントの取られ方はしていない。向井むかいさんも西国にしこくのエースの安住あずみも、やや球数がかさんでいるのがその証拠だ。それぞれ、八十二球と九十球。五回終了時点まで、両者ともそこまで変わらないペース。無四球でそれなのだから、打線がよく粘り、投手もよく粘っていると言うべきなのだろう。

 そして試合は、六回にようやく動いた。

 六回表の福岡南ふくおかみなみの攻撃。

 左打席に先頭の小南こなみ。ここまでは、百五十キロ近い真っすぐに押し込まれ、最後は低めのフォークに手が出ての二打席連続三振を喫していた。

 しかしこの打席の小南は、カウントを取りに来た真っすぐをきっちりとはじき返した。遊撃手ショート荒木あらきの頭を超え、打球は左中間を転々とする。

 わっと盛り上がる。

 格上とはいえ、三打席同じ攻め方で抑えられるわけにはいかない。そんな執念の感じられる一打。まわりこんだ左翼手レフトが抑えるが、小南は迷いなく一塁を蹴って二塁へ。

 送球よりわずかに早く滑り込み、無死二塁とチャンスを演出する。

「っしゃあ、小南!」

「オッケー、ナイバッチ!」

 ヒットを打った時のブラスバンドのファンファーレが流れる。

「続けよ、駿也しゅんや!」

 前の試合では布谷ぬのたにさんが二番に入っていたが、この試合では平井ひらいさんが二番に入っている。勝手に送りバントだろうと思っていたが、サインは右方向へのヒッティング。西国のバッテリーは、当然安易な外のボールは投げてこなかったものの、外のスライダーに無理矢理踏み込んだ平井さんが二塁手セカンドへ打球を転がし、一死三塁と絶好の先制の好機を迎える。

 客観的に見ると、打線全体としては西国のほうが強いだろう。だけど、この三、四番に限っては、西国には荒木あらき航平こうへいがいることを差し引いても福岡南も負けてはいない。

 ここまでの四試合で、三番の氷見ひやみさんと四番の飛高ひだかさんの得点圏打率は両方とも五割を超えている。というか、ほとんどの得点にはこの二人が絡んでいる。

 警戒したせいか、西国のエース、安住の制球がここに来てあからさまに乱れ始めた。的をやや大きく外し、四球。氷見さんが歩いて、一死一、三塁となる。

 右打席に、飛高さんが入る。

 マウンドの安住は、走者を気にしながら、モーションに入る。やや大きめのテイクバック。おそらく、クイックは速い方ではないと思う。

 外のボールから入る。

 飛高さんは落ち着いて見送って一ボール〇ストライク。続いてスライダーも外れて、二ボールとボール先行。

 三球目。低め。ストライクからボールになるフォーク。

 いい高さだったのだが、これも飛高さんは見送った。味方ながらいやな打者だと思う。よく状況が見えている。

 結果、二者連続の四球。一死満塁と、この試合最大のチャンスが訪れる。

 右打席に、五番の田中たなかさん。二年生ながら中軸を務める強打者。

 四球あとの初球。

 高めの真っすぐをフルスイングした。高々と打球が舞い上がる。

 中堅手センターが下がる。そしてフェンスの手前、深いところで捕球した。

 タッチアップで、小南が帰ってくる。返球を中継の遊撃手、荒木が止める。待望の先制点。スコアボードに「1」が灯る。

 同時に氷見さんも三塁に進み、二死一、三塁。まあ欲を言えば適時打タイムリーが欲しかったところだが、均衡を破ったのは確かだ。

「ナイス高樹こうき!」

「オッケオッケ!」

 ベンチに戻ってきた田中さんが出迎えたベンチメンバーとハイタッチをする。一方で、西国側もよく声が出ている。

「オッケー、安住! ここで締めよう!」

「まだ一点だ! 止めるぞ!」

 まったく消沈した様子はない。

 まだ終盤に入る前の一点。このまますんなり試合が終わるわけがない。最低でもひとつ、ふつうに考えれば、二つくらいは残りのイニングで山があるはずだ。となると、是が非でも追加点が欲しいところだが……。

 まあ厳しいかもな。

 などと思っていたら、続く池田いけださんがきれいなセンター返し。氷見さんが帰ってきて、二点目を奪った、

「っしゃあっ!」

 中野なかのさんたちがベンチから身を乗り出して、拳を上につきだす。

 なおも二死一、二塁の状況だったが、さすがにここまで。

 二点を先制して、六回裏の西国の攻撃に移る。


 野球の不思議なところではあるが、試合が動いたときはたいてい落ち着かない展開になる。

 いい音が、投手にとってはこれ以上ないいやな快音が、球場に響いた。

 三番の荒木航平は、確信したように歩き出す。

 決してやさしいボールじゃなかった。

 ひざ元に沈むスクリュー。

 膝を折りながら荒木がすくい上げた打球は伸びていき、切れることなくライトポール際のフェンスを越えた。

「おらぁっ!」

「っしゃあ、航平ー!」

 相手ベンチから雄たけびが上がり、スタンドからも隣同士でメガホンをたたき合い、喜びと興奮を分かち合う。

 荒木はダイヤモンドを一周すると、「おっしゃあっ!」とバチンという音がしそうなほどの力強いハイタッチを味方とかわす。

当真とうま、切り替えな!」

「次、集中!」

 自軍からの声かけを、「わかってるよ!」と向井さんはイラついたように一蹴する。

 ひょうひょうとしているように見えるけれど、打たれればちゃんと悔しがるんだよな、あのひと。

 ただ、続く四番打者に相対したときの表情は冷静そのものだ。

 早いカウントで追い込んだものの、なかなか低めの変化球に手を出してもらえず、フルカウント。

 七球目。外。際どい真っすぐを弾き返される。

 一二塁間の鋭い打球。しかし、抜けない。飛高さんが逆シングルで捕球する。一塁ベースカバーに入る向井さん。ややベースカバーが遅れて打者との競争になるが、アウトにする。

 しかし一塁ベースを踏んだ直後、向井さんが顔をしかめ、両手をついてグラウンドに臥せった。

「え」

 騒然とする。

「お、おい大丈夫か、当真!」

 慌てて飛高さんが駆け寄る。山内やまうち先生も焦った表情でベンチを飛び出した。

「うぐっ、攣った……」

 それを聞いて、飛高さんは向井さんの足を伸ばす。向井さんは険しい表情をしていたが、やがて「ふうっ」と息をつきながら立ち上がる。

 しかし、マウンドに戻る途中、また足を気にするそぶりを見せる。

 また攣ったらしい。今度は自分で足を伸ばして無理やり治したらしいが、恐る恐るといった歩き方をしている。

 どう見ても大丈夫じゃないが、山内先生は一度ベンチに戻ってくる。準備しているところだったが、俺も給水を兼ねて一度ベンチに戻った。「大丈夫なんですか?」と中野さんが問い詰めるも、先生は険しい表情だ。

「もう一度攣ったら素直にマウンドを降りると、向井自身が言った。迷ったが、できる限り尊重してやりたい」

 正気か?

 いやでも……。

 中野さんはまだ肩をつくり始めたばかり。いまマウンドに上がれるのは俺しかいない。そのリスクと天秤にかければ、まだなんとか投げることができる向井さんに任せたいと思うのも無理はない。

 結局向井さんは、続く打者を簡単に打ち取った。三つ目のアウトを奪い、攻守交代。

 多少のアクシデントはあったものの、滞りなく試合は進んでいく。

 七回表の福岡南の攻撃は八番からの下位打線。しかし、先頭打者の向井さんに四球を与えたことで、西国のベンチが動いた。

 マウンドに、中学の頃に見慣れていたはずの姿が向かう。

 背番号一八。松原まつばら純平じゅんぺい。俺の、中学時代の同級生。

 改めてマウンドに立つその姿を見ると、ただならぬ雰囲気を漂わせている。

 準備投球の時点で、中学時代に俺が認識していたようなふつうの人物とは、まったく違うと悟る。

 インプレーになる。

 打席には九番打者。送りバントを試みるも、やや強い打球が投手前に転がってしまう。

 純平はまるで迷いを見せることなく、二塁へ送球する。判定を聞くまでもなく、アウトだとわかる。続いて、一塁へ転送。しかし、こちらはセーフ。

 二死一塁と状況が動く。

 そして、打席に向かうのは一番の小南。打席に向かうときに一瞬にやついたのがわかった。待ち望んでいた、純平との対戦。

 おそらく小南の狙いは真っすぐ一本だったのだろう。しかし、それをあざ笑うかのようにカーブ二球で追い込まれる。

 そして、三球目。これもカーブだった。

 低めのボール球に手を出してしまい、ショートゴロ。

 捕球した荒木が自ら二塁を踏みスリーアウト。純平に軍配が上がった。


 七回裏。交代することなく、向井さんがマウンドに上がった。しかし、先頭打者にストレートの四球。

 異常が発生しているのは、明らかだった。向井さんはさりげなく自分で足を伸ばしていたが、また攣ってしまっているのを隠そうとしているのは見ていてわかった。

 そこで、ようやく山内先生も決断した。

 選手交代が告げられる。マウンドに向かったのは、俺だ。

「悪いな。中途半端な状態で渡して」

 向井さんは珍しく殊勝な様子を見せる。

 ごくりとつばを飲み込む。

「いえ。足、大丈夫ですか」

 向井さんはその質問には答えなかった。ただ、「任せたぜ」と言って、向井さんは俺のグローブの中に、ぐっとボールを押し込む。悔しさがにじみ出ていた。ベンチに下がって行く、背番号一の姿。

 ふわふわしたまま投球練習を始める。地に足がついていない。

 頭の中でガンガンと、脈の打つ音が警鐘のように鳴り響いていた。

 ――試合に出てあからさまに手を抜けば、俺もお前を代えざるを得ない。

 山内先生の言葉を思い出す。それを実行しない以上、もう言い訳はできない。

 準備投球を終えて、氷見さんとの打ち合わせ。

「一塁走者と打者以外考えるなよ。試合に集中しろ」

「はい」

「ここで切るからな。四球がいちばん痛いから、真っすぐで押していくぞ」

「はい」

「勝つぞ」

「……はい!」


 無死一塁。しかも試合がにわかに動き出した状況。さらに言えば、無死の走者がいて、しかもヒットではなく四球で与えた走者。

 なにかしらが起きそうな状況が、十分すぎるほどに整っている。

 荒木航平の一発で点差を詰められ、リードはわずか一点。リリーフとしては、かなりいやな状況での登板だ。

 一度、深呼吸をする。

 下位打線。八番の純平を打席に迎える。

 初球から送りバントの構え。終盤で一点差だ。逃げ切るのが最善だろうが、俺にそんな投球ができるとは思えない。

 だから、最終的に失点が少なくて済むように、ここはバントをさせていいだろう。同点まではオッケー。なんとかして、打線が純平から点を取ってくれるのを期待するしかない。

 初球。氷見さんの要求はインハイへの真っすぐ。

 走者を確認して、モーションに入る。左足を胸元まで上げ、右足に力をためる。このときボールを持つ右手は右足の腿の後ろに。

 そして体重を前に移動。ためた力を、最終的にボールに伝える。

 高めに浮いた。

 パアンッとミットの音が鳴る。

 打者はバットを引き、球審はなにもコールしない。

 ボール。

 ふうっ、と息を吐く。

「次な!」

「バントさせていいぞ!」

 二球目も似たように高めに外れて、ボール。

 二ボール〇ストライク。

 足元がおぼつかない感覚。膝から崩れてしまいそうなほどに下半身に力が入っている感じがしない。三塁側に体を向け、タメをつくるように意識してみてもボールに力が伝わっている気がしない。俺、いままでどうやって投げていた? それすらもわからなくなる。

 三球目。真ん中に力のないボールが行ったが、バントしてくれた。投手前。俺が処理し、「ひとつ!」という氷見さんの指示に従って一塁へ送球。

「オッケ! まず一死ワンナウトな!」

 一死二塁。

 人差し指で示して、アウトカウントをまわりと確認する。

 ひとつアウトをもらってほっとする。だが、あくまで「もらったアウト」だ。

 ここで右打席には、九番打者。

 ふうーっと頬を膨らませて息を吐きながら、俺は右肩をまわす。

 一点差。大事なのは、走者をためないこと。それだけを、自分に言い聞かせる。

 氷見さんのミットが低めに構えられる。

 サインにうなずいて、投げる。

 初球は真っすぐが高めに外れてボール。二塁走者を確認。続いて二球目はカーブ。真ん中付近に決まって、打者は見送った。

「ストライーク!」

 これで、一ボール一ストライク。

 反応なし。真っすぐ狙いか?

 俺と同様の考えなのか、氷見さんはもう一球カーブを要求してきた。うなずいて、カーブを投じる。

 が、思いっきり抜けてしまった。

 投げた瞬間、「あ」と声が出そうになった。

 打者は背中を向けてボールを受ける。ちょうど背番号のところにボールが当たった。すぐに、「ヒットバイピッチ!」がコールされる。

 俺は帽子をとって、やや頭を下げる。打者は一瞬顔をしかめただけで俺のほうを一瞥もせず一塁に歩いた。

 一死一、二塁。

 打順はトップに返る。

 左打席に、一番二塁手セカンド海老沢えびさわ

 今日、向井さんから二本のヒットを放っていた好打者。この場面であまりまわってきてほしくない打者だ。となると、やはりいまの死球は痛かった。

 さすがにダブルスチールは怖い。走者を気にしながら、初球のカーブ。低めのワンバウンドになってボール。

 そして、二球目を捉えられた。背筋がヒヤリとした。

 真ん中付近の真っすぐ。

 快音が響き、期待したように、観衆が一瞬盛り上がる。しかし、右翼手ライトの布谷さんはほぼ定位置。完璧な当たりだったが、野手の真正面だった。タッチアップもできず、走者はそのまま。

 表情に出さないように気をつけながら、安堵する。

 運が良かったというしかない。ちょっとずれていれば、逆転されていた可能性だってある。いまさらそのことに思い至って心拍数が上がる。

 とにかく、二死一、二塁。

 なんとか二死までこぎつけた。

 だけど、薄氷を踏んでいる自覚がある。いまだゴールが遠いのに、いつ割れるともしれない氷の上を歩く感覚。

 ふっ、ふっ、とだんだんと息が荒くなってくる。

 左打席に二番左翼手レフト井口いぐち

 初球。真っすぐが高めに浮いてボール。

 帽子をとって、俺は袖で汗を拭った。

 頭が熱い。

 意識がぼやける。

 熱を払うようにかぶりを振ると、ネクストの荒木航平が視界に入った。向井さんが打たれた一発がよぎる。

 絶対にまわすわけにはいかない。

 二球目。ここで今日の試合初めて、チェンジアップを投じる。しかし高めに外れてボール。

「オッケー、いいボール行ってるぞ!」

「大丈夫!」

 二ボール。カウントを取りにいかないとまずい。でも、甘く行くわけには……。

 あまり動いているわけでもないのに、「はっ、はっ」と息があがっている。どれだけ息を吸っても酸素が足りない。

 もう一度、ちらりと荒木を見る。

 まわしたくない。

 三球目に選んだのは、真っすぐ。

 ――とにかくストライクを。

 体の動きがなにひとつ嚙み合わないまま、俺は三球目を投げた。

 キインッと快音が響いた。

 ぞくりと悪寒が走る。

 右中間。

 だれかの怒号が響いた。

「センターッ!」

 俺は振り返る。

 中堅手の池田さんと右翼手の布谷さん。二人の三年生が、必死に打球を追う。

 俺の見つめる先で、ライナー性の打球は右中間に落ち、勢いを失わないままフェンスに到達した。

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