第10話

 翌朝は憂鬱だった。朝が弱いことに加え、試合に出ることが依然としてどうにも億劫で、一向に気分が晴れない。空はどんよりと曇っていて、からっと晴れているよりはいまの気分に沿うようで幾分よかったかもしれないけれど、空がどうであろうと憂鬱なものは憂鬱だ。

 大橋おおはし駅を出て、欠伸をしながら学校へ向かう。始発に近い電車だったはずなのだが、ちらほらと見慣れた制服姿が歩いている。

 こんな朝っぱらから、いったいなにをしに学校へ行くんだ。やさぐれた気分でそんなことを思ったけれど、まわりから見れば俺も似たようなものなのかもしれない。

「よっ、早いな。大森おおもり

 グラウンドに到着するや否や向井むかいさんに出迎えられる。

 集合時間ぎりぎりに来るのは良くないだろうという考えと、始発に近い時間にはちょうどいい電車がなかったのもあって、俺が学校に着いたのは集合時間の一時間以上前だった。

 にもかかわらず、上級生の多くがすでにそろっているようだった。

 俺は向井さんに訊いた。「いや、早く来たつもりではありますけど、なんで向井さんたちこんな早いんすか」

「だって今日から試合ばっかりだし。そりゃ楽しみにもなるだろ」

 子どもか、あんたら。遠足気分じゃないか。

「ただ、天気が怪しいよなあ」

 俺は改めて空を見上げる。

 確かに曇っている。素人目にはいつ降りだしてもおかしくないくらいに空は暗い。

「晴れたら暑くないですか」

「雨が降って中止よりはマシだろ」

 野球部員たるもの、こういうどんよりとした空の日は、休日を切望して雨ごいをし、結局崩れない空に対して内心で舌打ちをしながらグラウンドに出てくるものだと俺は思っていたのだけど、どうやら向井さんはそれに当てはまらないらしい。

 スマホで天気予報を見てみる。と、降水確率は二十パーセントほどだ。まあ長崎ではまた違った空だろう。自分の頭上で雲が出ていても、一キロもずれれば空模様はがらりと変わる。だから、大丈夫とは思うけれど……。

「聞いてみましょうか」と提案する。

「聞くって、だれに?」

「俺の知り合いに、気象台のひとがいるので」

「お前、変な人脈持ってるのな」

「まあ確かに変な縁ですけど」

 というわけで、気象台の職員である石本いしもとさんに電話をかける。すると、向井さんは少しぎょっとした。

「いや、本当に聞かなくてもいいよ」

 慌てたようにそんなことを言われても、もうすでにかけてしまっている。それに石本さんは朝四時には起きてなにかに憑かれたように散歩をしているので、朝早いことを気にする必要はあまりない。

 三回ほどのコール音で、『あっ、大森さん? おはようございます。今日は低い雲が出とるねー。朝曇りたい』と石本さんが電話に出た。

「あっ、おはようございます」

『それでね、いま日が出てきたとですよ。東の空はぱーっと晴れてきてね。いやー、いい景色たい。……あ、そうそう! 四時くらいの時間帯は雲が少なかったけん火星が目立っとったですよ。ちょうどいまくらいはアンタレスと近づくから見頃っすよ』

 石本さんのステータスは無駄話スキルに極振りされているので、生産的な会話はほとんどない。

「へえ、じゃあ、午前中のうちにこの雲はなくなりそうですかね」

『ん、いまどこおると? 市内?』

「市内です。南区」

『ああ、じゃあ消えます消えます。暑くなりそうっすね』

「午後はどうなります?」

『午後はですねー、昨日、自分が当番やったとですよ。予報が変わってなかったら、「所により昼過ぎから夜はじめ頃」で「激しく降る」をつけとったはずです』

「ああ、じゃあもしかしたらにわか雨みたいになる感じですか?」

『そうっすね。俺はね、本当は、「夜遅く」までつけるか迷っとたとですよ。それで迷っとったら、また引継ぎ資料を全然つくられんかったー。もう、いっつも同じ。いっつも同じたい! 考えごとをしながら手を動かせんとですよ。それで管理官がまた様子を見に来て言うでしょ。いしもっちゃん、仕事してる? って』

「いや、そこまでは知らないですけど」

『えっ、知らん? 管理官が言うとですよ。いしもっちゃん? って。いしもっちゃん、ちゃんとやってる? って。え、知らん? ふふ、そうっすよねー』

 会話をしながら吹き出してしまっている俺を見て、向井さんが怪訝そうにしている。

「ちなみに俺、今日長崎で部活の遠征がある予定なんですけど、長崎はどうなるかわかります?」

『長崎? ああ、わからんですねー。俺が教えてほしいくらいたい。あっ、でも今日の午後はどこでもだいたい不安定っすよ。九州北部はもう、あのー……あのひとの名前が出てこんたい。ええっと、あのー……。ああ、もうあのひとの名前はどうでもいいたい。あのー、あるひとがつくったですね、不安定指数があるとですよ。その指数で高い値が出とったからですね』

「そうなんですね。ちなみに明日の熊本はわかりますか?」

『あー、どうっすかねー。今日とそぎゃん変わらん気がするけど、わからんっすねー』

「へえ、石本さんでもわからないことがあるんですね」

『ふふ、なにを言いよっとですか? あれでしょ? 俺を調子に乗せてなにか企んどうとでしょ?』と、どことなく嬉しそうな声。

「いえいえ、そんなことは。じゃあありがとうございました。失礼します」

『はーい。お疲れ様でーす』

 通話終了。

 向井さんに向き直って言う。

「石本さんによると、天気自体は悪くないらしいですけどにわか雨はあるみたいですね」

「いや、俺はすでに天気よりも、断然石本さんのほうが気になってるんだけど。気象台? のひとなんだよな」

「ですね。確か年は五十半ばくらいです。おじさんです」

「なんでそんなおっさんと簡単に電話を掛けられるレベルの知り合いなんだよ」

「ああ、それはですね」と説明しようとすると、SNSチャットアプリの通知があった。スマートフォンの画面を見ると、どうやら写真が送られてきたらしい。石本さんからだ。アプリを開く。すると写真に映っていたのは、どこかの川だろうか。濁流があふれそうになっている。

 そして、今度は着信。これまた石本さん。電話に出る。

「はい、もしもし」

『あ、大森さん? 写真見た?』

「はい、見ました。どこの川ですか、これ」

 長くなりそうだと判断したのか、「大森、とりあえず俺、グラウンドに戻るな」と向井さんが言う。声に出さず口の動きだけで「はい、わかりました」とうなずいて、俺は電話に耳を傾ける。

『それ、白川しらかわですよ。知っとる? 白川。熊本におったときの、大雨のときにですね、帰りがけに気象台の近くの、橋の上から撮ったんですよ』

「え、危なくなかったんですか?」

『危ないですよ。こんなん見せたら俺が管理官に怒られるばい。やけん内緒ですよ。それで、うわー、これ、もう道路まで溢れとるばい、って思ったとですよ。よく覚えてますよ』

「溢れてたのに、見に行ったんですか」

『いや、そこは危険を冒してもですね、見に行かないかんけん』

「でも、管理官にばれたら怒られるんですよね」

『怒られますよ。自分たち気象台が洪水警報出しとるのに、なに川に近づいとうとか! ってえぇらい怒られますよ』

「そりゃそうでしょうね。明日は、その白川がこんなことにはならないんですよね」

『ああ、ならんならん。こんなにはならんですよ。梅雨期くらい降らんと、ここまではならんです。今日が二十四時間でも五十ミリくらいなんで明日も大きくは変わらんはずです』

「ならよかったです。じゃあすみません、このあたりで」

『はいはい。お疲れ様でーす』

 さて、と、いい加減無駄話の時間は終えたほうがいいだろう。

 まわりを見ると、先輩たちはグラウンドの端っこでキャッチボールなどをして思い思いに集合時間までを過ごしている様子だった。いつの間にか向井さんも、正捕手の氷見ひやみさんという三年生と雑談しながら体を動かしている。

 俺はどうしよう。

 無聊をかこっている先輩がいないかときょろきょろするけれど、そういえば俺は、あんまり喋ったことのない先輩をキャッチボールに誘えるほどの積極性や社交性といったものを持ち合わせてはいなかった。

 仕方がない。

 そこまで尿意をもよおしていたわけでもなかったけれど、なんとなく孤独なのがいたたまれなくて、いったんトイレに行くことにする。しかも、少しでも暇をつぶしたいという無意味すぎる欲求が遺憾なく発揮されて、わざわざすぐそこの武道場のトイレではなく校舎のトイレに向かう。

 ……まったく。

 これじゃあ、石本さんとの無駄話のほうがいくらか生産性があった気がする。


 この早朝じゃ当たり前だろうが、校舎の中はひっそりとしていた。

 しかし用を足して手を洗っていると、そのひっそりとした廊下にひとの気配がする。

 なんだなんだ、座敷童でも出没したか。丑三つ時はとっくに過ぎているというのに、やんちゃな妖怪変化もいたもんだぜ。などと愉快な想像をしながら手を振って水を払う。

 静寂に覆われた廊下の中では、小声であってもよく響く。女子の声らしい。せっかくの大型連休だ。野球部じゃなくても、ほかの部活も活発なのだろう。俺もいつまでも暇を持て余していたって仕方がない。

 ため息交じりにつぶやく。「外周でもしてくるか」

 だれかほかの一年が来てくれれば、キャッチボールの相手も頼めるのに。どうしてだれも来ないかな。ぶつぶつぼやきながら、廊下に出る。と。

「えっ、大森くん?」

「お、偶然だね」

 知った顔に出くわした。吉田よしださんと松橋まつはしさんだ。

 どうやら廊下の声の正体はこの二人だったらしい。

 驚きつつ俺は、第一声を迷ったすえにとりあえず、「おはよう」と言っておいた。

 二人ともそれぞれに反応してくれる。

「おはようございます」

「おはよ」

 松橋さんは吉田さんと俺を交互に見て、悪戯めいた微笑みを浮かべた。「ところで、かえでと大森くんって知り合いだったんだね」

「まあ、いちおう」と俺はうなずいた。

「なんか意外だね」

「そうか? 単純に同じ中学だったんだけど」

「えっ、そうなの?」

 吉田さんは困ったように笑った。「ええ、まあ」

「知らなかったな。教えてくれればよかったのに」

「だって、私も亜弥瀬あやせちゃんと大森くんが知り合いだなんて知りませんでしたし……むしろ、二人こそどうして知り合いなんですか?」

「えーっと、図書委員で一緒になってね」

「えっ。亜弥瀬ちゃん、図書委員会にも入ってるんですか」驚いた様子の吉田さん。目を丸くして続ける。「生徒会と文化祭の実行委員、それに学級委員もあるのに、大丈夫なんですか?」

 今度は松橋さんが困ったように言った。「や、べつにそんなたいそうなことじゃないと思うけど……」

「そんなに掛け持ってるのか?」と俺も少し驚く。いくらなんでも頑張りすぎだろう。

 少し呆れた響きが声に滲んでいたからか、「図書委員は代理だもん」と松橋さんはすねたようにそっぽを向く。「ほかを掛け持ってるのはまあ、確かにそうだけどさ」

 むすっとした松橋さんの仕草が思いがけずかわいらしかったので、「ふうん」と相槌を打ちながらつい彼女の横顔に見入ってしまう。

 すると、むっとした顔のまま松橋さんはにらんでくる。

「なに」

「いや、べつに」

「なんか馬鹿にしてるでしょ」

「してないけど」

 なぜそうなる。俺は「かわいらしい」と思っただけだ。

「ほんとにぃ?」といぶかしんでくる松橋さん。

 まさか、「かわいらしいと思いました」などと馬鹿正直に言うわけにもいかない。なんとなく不利な気がして、話題を変えることにする。

「それより、二人こそどこで知り合ったんだ?」

 吉田さんが教えてくれる。「文化祭の実行委員で一緒なんです」

「へえ。じゃあ今日は実行委員の活動があるのか? ……こんなに早く?」

「いえ。亜弥瀬ちゃんとはさっき偶然会って……。私は部活です。練習試合で」

 ふうん、剣道部の練習試合。なら松橋さんは。

 目を向けると、むすっとしながらも、「あたしは生徒会」と松橋さんも答えてくれる。すぐに切り替えたらしく、そのまま訊いてくる。「そういや大森くんも部活だよね。小南こなみから遠征って聞いたけど」

「今日が長崎で、明日が熊本」

「へえ、遠征ですか。剣道部は市内のとことの練習試合なので、ちょっとうらやましいです」と吉田さん。

「うーん。まあ、今日学校に来るまではちょっと面倒だと思ってたんだけどな」

「ああ。よくある直近になって面倒になるやつですね」

「そうそう」

「試合には出るの?」と聞いてきたのは松橋さん。

「えーっと、まあ、出番はあるみたい」

「ん、なんか、いやそうだね」

 む。納得いっていないことがついつい表情に出てしまっていただろうか。

「そんなことはないけど」

 そう言うと、松橋さんもそこまで気にしなかったのだろう、簡単に話を変える。「それにしても、部活ってやっぱいいよね、青春って感じで」

「生徒会も青春っぽいと思うけど」

「どうなんだろうねぇ。部活のほうが、なにかを懸けてるって感じはするけど」

「ああ。河野こうのたちなんかを見てると、すごくわかるな」

「あはは。あいつら熱いよね」

 そのとき、吉田さんが少しトーンを落とした声音でこう言った。「大森くんは、違うんですか?」

 どきりとした。そう、俺だって、あいつらを見て本気で甲子園を目指したいと思ったはずなのだ。なのに、どうしてか今日の練習試合、「出番がある」と思うたびに胸にいやなざわりとしたものがよぎる。もっと昂ってもいいはずの感情が、まったくと言っていいほど湧きあがらない。その理由がずっとわからない。

「違うわけじゃ、ないと思う」俺は上手く答えられなかった。「違くはないけど、相対的な話で言えば、たぶんあいつらの熱量には勝てないんじゃないかな」

 どこか言い訳めいていると自分でも思った。

 なにかを嗅ぎとったように松橋さんが言った。「あ、じゃあ、あたし、そろそろ行くね。大森くんも出発直前でバタバタしてそうだし」

「あっ。そうでしたね。すみません、お引き留めして」

「いや。俺のほうこそ」

 二人と別れて、グラウンドに戻るまでのわずかな間、俺はずっと、試合をすることがどうしてこんなにも億劫なのか、その理由を考えていた。しかし疑問は解けない。

 解けたのは、実際に試合で出番が来てからだった。


 その後、稜人いつひと以外の一年三人はすぐにグラウンドに現れた。二分くらいずれて小南、河野、柚樹ゆずきの順番だ。そんな二分刻みくらいで電車があるはずもないので、「一緒の電車だったのか?」と訊いてみた。

 小南から、「だったみたいだな」ととくに興味もなさそうに返ってくる。示し合わせたわけじゃなく、偶然同じ電車だったらしい。

 来るや否や、グラウンドを見て河野は苦い顔をした。「先輩たち、ずいぶん早いな」

「俺が十五分くらい前に来たけど、それより早くいたよ」

「失敗したな。もうちょっと早く来るつもりだったんだが」悔しそうに河野は言う。忘れ物でもしたのだろう。

「そういうの気にするひと、いないと思うけど」

「俺が気にするんだ」

 河野なら、そうかもしれない。まあ実際のところは先輩より遅く部活に来たからと言って、合理的な理由なしに文句を言うひとなどいないだろうが。

「あれ、ところで稜人は?」柚樹が訊いてくる。

「さあ。ぎりぎりに来るんじゃないか?」

「ハルは一緒じゃなかったのか? 家近いんだろ?」と小南。

「近いけど一緒には来てないよ。小南たちだってそうだろ?」

 まあな、と小南は苦笑する。

 というか、稜人の場合は部活に限らず集合時間のぎりぎりを目指そうとする謎の習性がある。部活以外の遊びのときはそれもアリだとは思うけれど、大人数が関わってくるときにまで付き合ってられない。

「ま、そんなことより、軽く体動かしとくか」うーん、と伸びをしながら小南が言う。

 そうだな、と俺はうなずいた。


 やはり集合時間ぎりぎりに稜人は来た。

 まあ実際のところ、向こうに到着してから当然アップの時間はあるし、もしかしたら科学的には、ぎりぎりまで体を休めておくという稜人の選択肢が正しいのかもしれない。どうせバス移動中に体は冷えるわけだし。

 ということで、集合時間になったのでさっさとバスに乗り込む。

 向かうは秀明館しゅうめいかん高校。長崎の雄、というか、なんと昨秋の神宮大会準優勝校である。

 到着までは二時間くらいかかるらしい。

「そういやさー、一年って彼女いるやついんの?」

 向井さんがひとつ後ろの座席から身を乗り出してくる。三年生たちは基本的に後ろの方に陣取っているけれど、なぜか向井さんは一年の集まる前方の座席に座っている。

「いないっす」と小南。

「います」と河野。

「いません」と柚樹。

「いますよ」と稜人。

「いないです」と俺。

 へえ、と向井さん。意外な答えだったのだろう。俺も少し意外だった。小南がいなくて、河野がいるというのはちょっと予想外だ。……いや、これは河野に対しての偏見がひどいな。改めなければ。 

 向井さんは河野と稜人に問いかける。「中学の頃から?」

 二人とも、「はい」とうなずく。

「別れたら教えろよ? ちゃんとまわりに言いふらして、話題に触れないようにしてやるから」

「いやなこと言いますね」河野が顔をしかめる。

 稜人も苦笑しながら、「実際のところ、向井さんのまわりで続いてるひとっています?」と訊く。

「だれひとりとしていないな」

「ですよねー」

 そういえば、稜人ってまだ続いてたんだな。全然その手の話をしなかったので、稜人に彼女がいるというそれ自体を俺は忘れかけていた。

 稜人の場合、だれとでも分け隔てなく自然に接するので女友達も多いのだけど、いざだれかと付き合うことになっても、浮かれるというか、のろけたり、ぞっこんになったりするということがまったくない。交際を申し込まれても、断る理由がないから受け入れているだけで、結局温度差を感じた相手の方から別れを切り出されることもあったらしい。しかも、そうなっても稜人はまったく悲嘆しないものだから、近くにいるはずの俺が稜人のそうした状況をすぐには察せず、知らないうちに新しい相手と付き合っているということも中学時代にはあった。

「で、清水しみずちゃんは?」と向井さんは水を向ける。

 たぶんこれが本命の質問だったのだろう。しかし、清水さんに気があっての質問というよりは興味本位の質問という気がする。

「え、私ですか?」

 俺の前に座っていた清水さんが驚いたように振り返る。隣に座っていた篠原しのはらさんもつられてちらと振り返ったので、座席の隙間を通して目が合った。

「うん。清水ちゃん、すげーモテそうだよな。男がほっとかないだろ」

「そんな。わ、私なんか全然。彼氏もいないですし」

「あれ、そうなの? つくらないんじゃなくて? コクられたことはあるんだろ?」

「え、えっとそれはまあ、その。……ありますけど」

 あるんだ。でも、顔を真っ赤にしてうつむく清水さんのしぐさは確かにかわいらしい。男心をくすぐるのも納得できる気がする。

「向井さん、そろそろストップ。それ、セクハラですよ?」笑いながらも、きっぱりと言い放つ篠原さん。

 向井さんは、「おっと」と口元を覆っておどけてみせる。かと思ったら、「あれ、安依あいちゃんは彼氏いるんだっけ」などとのたまう。

 すげえなこのひと、とある種の感心を覚えて俺は絶句していたが、篠原さんは手慣れたもので水を打ったように返答する。

「いないですよ。まあ、好きなひとはいますけど」

 こう聞かれたらこう答える、とたぶん決めているのだろう。篠原さんにとっての処世術。にしても、篠原さんみたいな美人で性格のいいひとでも、一方的な想いを抱くことがあるのだろうか。

 へえ、うらやましいやつもいたもんだ、と思っていたら、「へえ、うらやましいやつもいるもんだ」と向井さんが言った。

「そんなこと言ってたら、彼女さんに怒られますよ?」

 篠原さんにそう言われて、向井さんは意表を突かれたような顔をした。「あれ、知ってたのか」

「向井さんは下級生の女の子にも人気ありますから」

「それは、まあな」

 相変わらず謙遜しないひとだ。こんな気の多そうなひとの彼女を務めるとは、さぞ大変なことだろう。

 やがてバスは高速を下りる。二十分くらい走ってから、遠くにやけに整備された広い道路が見えてきた。両脇の歩道だけじゃなく、分離帯にまできれいに手入れされた街路樹が並んでいる。葉の形でイチョウだとわかる。まだまだ黄葉の季節じゃないので葉は青々としている。その先にはベージュ色の立派な校舎が見えた。なんか、屋上に丸いドームみたいなのがある。福岡南ふくおかみなみ高校の校舎とは比べ物にならないくらい新しく、きれいで、おしゃれな校舎だ。

 バスはその立派すぎる校舎を通り過ぎて、のろのろと住宅街を進んでいく。やがて、高いフェンスに囲まれた広いグラウンドが現れる。

「はー、やっぱすげえな」隣に座る稜人が感嘆を漏らす。

 同感だ。

 下手したら、公式戦で使われるような球場のグラウンドよりいいんじゃないだろうか。黒土の内野に、芝の敷かれた外野。屋根のあるベンチまで設置されている。

 バスを降りて、荷物を運ぶ。いまさらながらに向井さんに訊いてみた。

「秀明館と試合って、よく組んでるんですか?」

「ああ。山内やまうち先生と向こうの白浜しらはま監督が大学の同期らしくてさ。毎年試合してるな」

 なるほど。道理で神宮準優勝校が、ふつうの公立校と試合を組んでくれるはずだ。

「お前、うちなんかとよく試合組んでくれたなって思ってるだろ」

「え、いや」

 図星をつかれた。どう繕おうか慌てて思案していると、向井さんは破顔した。

「心配すんなって。今日は神宮と前の九州大会で調子こいてるあいつらに、ひと泡吹かせてやるつもりだからさ」

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