暗殺者"赤い霜"ヴァンダ

 ヴァンダは震える指で地面を掻く。遠のく意識の中、懐かしい声が聞こえた。

 ––––ああ、走馬灯までいつも見る夢と一緒かよ。ろくでもない人生だな。



 ***



「ヴァンダ?」

 燃えるような赤い髪の青年が、目の前で微笑んだ。

 王から譲り受けたという豪邸の応接間に不似合いなほど素朴な笑みだった。

 田舎から魔王討伐の旅に発った当時と何も変わらない。


「勇者……」

 窓の外には春の花が咲き乱れ、大通りに市場が開かれている。まだ王都が統京と呼ばれる前だ。

 ガラスに反射するヴァンダの姿もまだ若い。髪は黒く、皺ひとつなく、背筋も伸びていた。


 数えきれないほど夢に見た光景だった。生きている勇者と会った、最後の記憶。



 ヴァンダと相対して座る勇者は言った。

「おれたちの戦いも終わっただろ? ヴァンダも一度故郷に帰ったりしたほうがいいんじゃないかな」


 ヴァンダは肩を竦めた。

「あのスラム街に戻れってか?」

「ただの例えだよ。ほら、おれたちずっと魔王と戦い続けてたし、ゆっくり旅をしたり、別の仕事を見つけるのもいいんじゃないかなって。形だけパーティから追放したことにすれば、自由になれるし……」

「お前はどうするんだよ」

「おれはまだやらなきゃいけないこともあるし、夏には子どもも生まれるしさ。しばらくは王都で頑張るよ」


 勇者は困ったように眉を下げた。ヴァンダは静かに息を吐く。

「猪並みの暴れ坊だった姫騎士プリンセスが母親になるとはな」

「姫騎士が聞いたら怒るよ。正直、おれも旅の最中は結婚するなんて考えてなかったけどさ」

「そうか? 俺にはあの頃から夫婦漫才してたように見えたけどな」

「揶揄わないでくれよ」


 勇者の顔から憂いの色が消え、屈託のない笑みに変わった。窓から挿す春の陽光が、真っ白な部屋を清廉に染め上げる。

 何度見ても夢の中の光景は変わらない。次に自分が言う言葉も、行動も。何度も変えようとしても同じだった。


 ヴァンダは椅子を引いて、腰を上げた。

「いいぜ、パーティから追放してくれ」

「ヴァンダ……」

 勇者は彼を見上げる。ヴァンダは光から逃げるように影の濃い方へ向かった。


「元々俺はスラムのガキで殺し屋もどきだった。お前と会う前に汚い仕事もだいぶした。ずっと俺が隣にいたんじゃお前の手柄に傷がつくからな」

「違う、そんなこと思ってないよ!」

 立ち上がりかけた勇者をヴァンダは片手で制した。


「勇者はこれからも国を背負わなきゃならねえんだ。お前がよくても嫁や子どもまで不幸にしちゃまずいだろ」

「でも、おれはヴァンダを仲間だと思ってるよ。今だって……」

「それだけで充分だ」

 勇者は肩を落とし、再び椅子に座り直した。



 ヴァンダは口角を上げ、ガラスに映る自分が上手く笑えているか確かめた。

「俺は近いうちに王都を発つ。お前のガキの面は拝めないな。名前はもう決めたのか?」

「うん、ふたりで相談したよ。息子ならレガロ、娘ならエレンシアだ」

贈物レガロ遺産エレンシアか。いいんじゃねえか。出産祝いは早めに済ませないとな」

「気にしないでくれよ」

「最後の餞別だ。そのくらいさせろよ」



 勇者は突然、椅子を蹴りよけて立ち上がった。

「ヴァンダ、あのさ……」

「どうした?」

「もし、その、おれが……ふたりを守れなくなるようなことがあったら……」


 ヴァンダは続きを待ったが、勇者は言葉を区切り、また困ったような笑みを浮かべただけだった。

「何でもない。元気でね」

「ああ、お前もな」


 ヴァンダは踵を返す。視界の隅で勇者が手を伸ばしたのが見えた。剣を握り続け、潰れた血豆が幾重にも重なった、硬質な手だった。

 ヴァンダは気づかないふりをして、振り返らず扉に手をかけた。勇者の手は震えていた。



 ヴァンダは三日後に王都を発った。

 各地に轟く勇者の物語から逃げるように、遠い辺境の街を選んで転々とした。どうやって見つけたのか、何度か宿に勇者からの便りを受け取ったが、手紙を開くことはなかった。



 勇者の訃報を知ったのは、その年の冬の初めだった。


 王城に招かれた道中で、妻と共に何者かに暗殺されたらしい。死体はバラバラにされて持ち去られた。

 王都に広がる白亜の壁に血と毛髪と肉片が貼り付いていた。

 血を洗い落としても髪は赤く、勇者の死骸だとわかったらしい。生まれたばかりの子どもは見つからなかった。勇者よりも更に細かく切り刻まれて溝川に流されただろうと噂で聞いた。



 訃報を受けてすぐ、ヴァンダは今まで開かなかった文を開いた。

 近況を告げる取り止めのない文に、パーティの中だけで通じる救助要請の暗号が隠れていた。


 ––––勇者は自分の身が危ないと気づいてたんだ。俺を王都から遠ざけて、動ける駒として残してたんだ。いざというとき、妻と子を助けられるように。

 俺は見捨てられたんじゃない。誰よりも信じられていた。見捨てたのは、俺の方だ。


 ヴァンダは夜の色に沈む安宿の一室で文を開きながら、獣が吼える声を聞いた。喉に引き裂かれるような痛みが走り、自分が叫んでいるのだと気づいた。



 勇者暗殺の首謀者は王族である。

 檄文が巷を飛び交い、ヴァンダは二対の山刀を研ぎ澄ませ、王都へ向かった。勇者と共に数えきれないほどの魔族を狩った、自分の武器だった。


 ヴァンダが王都に戻ったとき、白亜の壁は煙に包まれていた。

 勇者の死に憤る民衆が蜂起し、王城へ乗り込んだという。千年続いた王政はあっけなく打倒され、王家の人間は幼児までひとり残らず首を晒されていた。

 崩れ落ちる城には、勇者の髪と同じ紅蓮の炎が燃え盛っていた。



 王家を滅ぼした者が施政者となった。

 白亜の壁がビル街に変わった。馬車が駆けた大路を車が駆けた。

 豪奢なドレスを纏う貴族もボロを纏う貧民も消え、廉価で生産できるスーツに身を包んだ者が巷に溢れた。


 ヴァンダは山刀を携えて彷徨った。

 言われるままに王家復興を望む残党を狩り、バラバラにされた≪勇者の欠片≫が武器として流通していると聞けば密売者を討ち、魔族が再び現れてからは殺し続けた。

 刃の先を自分の喉に向けないよう、何者かの肉に深く押し込んだ。



 ***



 胸に空いた風穴から、血と酸素が漏れるのがわかる。傷口は焼けるように熱いが、身体は鋼鉄のように冷め切っていく。


 闇に閉ざされる視界の隅で、少年の姿に擬態した下級魔インプが蠢いた。黒い鉤爪が勇者の血を詰めた瓶に伸びる。


 ヴァンダは息を振り絞った。

「てめえに……勇者の血は……」

「何だ、まだ生きてたのか」

 爪の斬撃で、背中に熱と痛みが走った。流れ切ったと思った血が再び噴き出す。



 ヴァンダは地面に指を食い込ませ、片隅に転がる山刀に手を伸ばした。最後の力で柄を握り、手首を振るう。

 投擲した刃は下級魔の脇を掠め、硝子瓶を砕いただけだった。


「くそ……」

 ヴァンダは突っ伏す。何も握らない手が地面に投げ出された。


 ––––魔族に殺されるくらいなら、とっとと手前で始末をつけときゃよかったな。



 そのとき、赤い輝きが閃いた。

 ヴァンダは目を見開く。

 硝子の瓶から溢れた液体が地を這い、こちらに向かってくる。液体はヴァンダの右手の前で一度動きを止め、花のように広がった


 あのとき、振り向いていれば。

 夢の中で何度も後悔しても伸ばせなかった手を温かく包み込むように、ヴァンダの指に勇者の血が絡みついた。

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