孤狼、異世界をゆく~伊163航海日誌~

ほらほら

プロローグ

「……メインタンクちょいブロー。深度60。微速前進」


「ヨーソロー。

 メインタンクちょいブロー。深度60。微速前進」



 酷く、重苦しい空気がそこには漂っていた。

 比喩ではなく、既に潜航開始から2時間が経とうとしている艦内の空気は吐息で淀み、むわりとした熱気に包まれているのだ。



 赤色の非常灯のみ点る発令所。


 居並ぶ男達の顔色は悪く、誰もが口元を一文字に結んでいる。


「……敵駆逐艦らしき推進機音2、方位002距離200及び方位250距離500。……依然直上を微速で旋回中」


 聴音手からの報告を聞き、発令所の中央に立つ一人の偉丈夫が、ニヤリと唇を歪ませるように嗤いながら、おもむろに口を開く。


「どうやら敵さん、腰を据えてこちらを叩く腹積もりのようだな。

 中々にしつこい」


 男は、重油の匂いが半ば染み付いてしまった第二種軍装の袖で顎に滴る脂汗を拭きつつ「まぁ、良い」と言葉を続ける。


「こうなったら根比べだ。我々が先に音を揚げるか、奴らが先に諦めるか……」


 そう言い切った男の瞳には、歴戦の野武士の如きふてぶてしさが宿っており、そこには己等が死と隣り合わせにあるという恐怖の色は微塵も感じられない。


 彼は理解していた。指揮官として自らの一挙一動を乗組員達は注視しているということを。

 そして、その視線の中には決してあやふやな信頼などというものはない。あるのはただ、『自分の命を預けるに足るか』という値踏みするかのような冷徹なものだけだということを。


 だからこそ、この男はあえて不敵に笑うのだ。『自分がいる限り、ふねは絶対に沈まない』という確信があるかのように。


「しかし小野瀬艦長、敵の包囲網も固く、攻撃も苛烈になっています。

 酸素も残り少なく、このままではジリ貧です。

 ここはまだ余裕のある内に浮上して、敵へ攻撃を加えるべきでは?」


 そんな彼の心中を知ってか知らずか、隣に立つ若い士官が進言してくる。

 副長兼航海長である牧島中尉だ。


 海軍兵学校を上位席次で卒業し、潜水学校でも優秀な成績を修めた彼は、あと10年もあればロートルである自分より上の階級に進むだろうと艦長・小野瀬少佐は考えていた。


 もっとも、それまでこの国が残っていればの話ではあるが。



 彼の言う通りこの状況はかなり厳しいものがある。


 戦線後方を跳梁跋扈する敵潜と、熾烈極まる航空戦にも関わらず徐々に敵に奪取されつつある制空権。


 戦線どころか兵站線の維持すら危ぶまれる中、旧式であり、本来であれば後方で訓練用にでも供されるべきこの伊163潜も、南方戦線での物資補給任務に就く事になった。



 ロートル艦長に率いられた新米士官と新兵達が、艦の余剰スペースに食糧武器弾薬をありったけに満載し、佐世保を発ったのが約3月前。


 それからトラック諸島やラバウルを経由した幾度かの輸送任務を経て、彼等はここまで生きながらえてきた。



 しかしそれももう限界に近いだろう。



 物資輸送任務の途上、敵中に孤立した最前線の孤島間近の近海にて敵哨戒機に発見されてからすでに3時間以上が経過している。


 その間、近隣から急行してきた敵駆逐艦による執拗な爆雷攻撃を凌いできたものの、状況は刻々と悪化の一途を辿るばかりであった。


 艦は幾度もの爆雷攻撃を受け、直撃こそ無いものの、衝撃による浸水によって最大潜航速度は9ノットから6ノットにまで落ちてしまっている。


 もし仮に、また敵のアクティブソナーに捕捉されてしまえば、回避行動すら満足に取れないことは明白であった。


 ヤられる前にヤる。と言う、この戦意に溢れた若い士官の意見も、あながち間違いでもないのだ。


しかし――


「いや、それは出来んよ中尉」


「何故ですか?まだ機関部や魚雷は無事でありますし、ここで急浮上すれば敵の混乱を招くことも可能でしょう。それに……」


「いや、駄目だな」


「……ッ!?」


 キッパリと言い切られた牧島は一瞬言葉を詰まらせる。


「駆逐艦2隻相手に真っ向勝負など犬死も良いとこだ。

 ……それにおそらく、敵はすでに我々の所在を掴みつつあるだろう。

 先方、先程から何度も音探を飛ばしている。幸いも直撃は受けてはいないが、それはつまり其処には居ないということがバレているということだろう?

  ……読まれてるぞ? 敵さんは手ぐすね引いて此方が痺れを切らすのを待っている。」


「……つまり、我々は既に追い立てられる狩りの獲物だと」


「……ああ、残念だがな」


「くっ……! しかし、それならば尚更ここは浮上すべきでは……」


「駄目だ。今の浮上は敵の思うさまになる」


 そう言い切った小野瀬の表情にはもはや笑みは無く、代わりに歴戦の潜水艦艦長に相応しい厳格さが滲んでいる。


 その瞳の奥底に燻る炎のような闘志の煌めきが、彼の心が折れていない事を如実に物語っていた。



 牧島もそれを感じ取ったのか、反論の言葉を飲み込むように黙り込んだ。


「――大丈夫だ、副長。確かに我が艦の現状は芳しくないと言える。

 しかしだ。我々はただの狩られるだけの兎ではない。

そうだろう?」


「……はっ」


小野瀬の問い掛けに、牧島は静かに敬礼を返す。


「うむ。よろしい。……では聴音手、聴音を続けろ。敵艦の動きを決して見失うな。

 そして副長、海底を地形に沿ってこのまま敵中の突破を図る。決して現在位置を見失うなよ? 海山にぶち当たりでもしたらコンパスを貴様のケツに突き入れるぞ?」


 冗談めかした物言いに、その場にいた男達が皆一様に笑い声を上げる。勿論、密やかにだが。


「ははは、了解しました艦長。必ずや任務達成して見せましょう」


「うむ。……針路090度、深度そのまま!」


「ヨーソロー。

 針路090、深度そのまま!」


 その号令と共に伊163潜はゆっくりと艦首を翻すと、その船体を漆黒の海へと溶かし込んで行くのだった。


****


 ギイィッと船体が軋む。


 そんな些細な音にさえ肝を冷やしながら、男達は固唾を飲んで息を殺す。


 シューッというスクリュー音が艦の直上を走り去る。

 敵駆逐艦が通り過ぎた音だ。



 伊163潜が潜航を始めてから既に4時間。艦内の空気もいよいよ薄くなりつつあったが、未だに海上の敵駆逐艦は諦める気配をみせない。それどころか幾度か此方を捕捉し、爆雷攻撃まで仕掛けてくる有り様だ。


 寧ろこれまで伊163潜が損傷軽微のまま何とか逃げ遂せている事が奇跡的といえる。


「まったく……ここまでピタリと張り付かれては、敵ながら天晴れと言うしかないな」


 小野瀬の口元には苦々しい笑みが浮かんでいた。



 敵駆逐艦2隻が放つアクティブソナーのピンガーが途絶えず響き、乗組員の神経をガリガリと削り取って行く。最早、乗組員の気力は限界に近い。


 誰もが今すぐにでも浮上し、敵の包囲網を突き破りたいと願っている事だろう。



 しかし、それをしないのは艦長である小野瀬が言った通り、犬死に過ぎないからだ。



 仮に敵艦と刺し違えたところで、この艦に積まれた物資が前線に届かなければ作戦は失敗。


 小野瀬の使命はあくまでもこの場を脱し、補給物資を目的地まで運ぶこと。

そんな中、聴音手から新たな報告が入る。


「前方、方位005で新たな音源を確認! 距離約3000。ですが、これは……」


「どうした、ハッキリと報告せんか! 敵か味方か!?」


 言葉を濁した報告を聞いた牧島は思わず語気を荒げる。


 それに対し、困惑した表情のまま聴音員は告げる。


「……唄が聴こえます。

 ……海の底から」


「何?」


 一瞬、何を言われたのか理解できず、牧島の思考は停止してしまう。いや、牧島のみならず発令所にいた兵士達はみなそうであったろう。

 海の底から唄? それは一体どういう意味なのか? 、と。


「……クジラか何かか?」


 この極限状態でも冷静さを欠かさない小野瀬の声で我に返った聴音手は、慌てて返事を返す。


「はっ、クジラ等の鳴き声では無いと思われます。

 明確に旋律を持った女性の歌声、であります……」


「女性だと? ここを何処だと思っている!? 海の中だぞ……」


 牧島はそう言って顔をしかめるが、しかし聴音手は至極真面目な顔つきだ。


「はい、私も信じられません。しかし、実際に聴こえるのです。

 そして、徐々にこちらへ近づいているようであります」


「……」


「……」


 一瞬、静寂に包まれた発令所に、聴音員の報告が続く。


「あ、さらに今度は――」


パコオォンッ!!


  聴音員が最後まで言い終える事は無かった。


 突如として響いた反響音。敵駆逐艦のアクティブソナーのピンガーだ。


「っ!? 敵音探、直撃されました。捕捉されます!!」


「急速潜航。面舵一杯! 針路270。最大戦速!!

 急げ! 直ぐに来るぞ!!」


 小野瀬は反射的に叫ぶ。


 その声に弾かれるように伊163潜は急激に進路を変える。が、動きは敵駆逐艦の方が早い。


「直上に敵駆逐艦。爆雷投下、来ます!」


「くそっ、総員衝撃に備えよ! 」


 艦長の命令を受け、兵達は身体を丸めて身構える。



 直後、ドゴオオオンッ! ドゴオオオンッ!と凄まじい爆発音が響く。


 先程のアクティブソナーによるピンガーよりも遥かに近い位置からの爆雷攻撃。

 その1発が至近で炸裂し、伊163潜の船体を大きく揺さぶる。艦尾付近で爆雷が炸裂したのだ。


 同時に司令塔にも強烈な振動が伝わり、まるで脳を直接殴られるような感覚に誰もが悲鳴を上げる。


 今この時、伊163潜の艦内は混乱の渦へと叩き落とされていた。


「ぐああぁっ!」


「うわあっ!」


「ああっ!」


「くっ……被害状況を知らせよ」


 非常事態を告げるサイレンや各所からの被害報告が飛び交う中、小野瀬は努めて冷静に指示を出す。


「後部魚雷発射管室浸水。排水装置作動せず! ……隔壁閉鎖!!」


「後部兵員居住区浸水、火災発生!」


「舵損傷!! ……まともに

 動きません!?」


 次々と舞い込む悪い報せ。


「応急措置急げ!!」


 毅然と指揮を取るも、小野瀬の額からは脂汗が流れ落ちている。


(くっ、これではもうまともに動けん……)


「艦長、もうこれ以上は……!」


 牧島の言葉は、もはや泣き言の域だった。


 だがしかし、このままではいずれ敵駆逐艦の餌食となる事は目に見えている。


 小野瀬は決断を迫られていた。


「……総員、水上砲雷撃戦用意」


「艦長!?」


「……本艦はこれより浮上し、敵駆逐艦に対して決死の反撃を試みる」


「……艦長!」


 小野瀬の瞳には強い意志が宿っていた。それは、己の責務を全うせんとする男の眼差し。


 スッと眉間に当てられた小野瀬の掌。

 それを見た牧島も覚悟を決めたように口元を引き結ぶ。


「……了解しました」


「……すまんな」


「いえ」


 牧島は静かに敬礼を返すと、艦内放送用のマイクを手に取る。


「全乗組員に次ぐ。これより本艦は急速浮上し、敵駆逐艦との決戦に臨む。砲雷撃戦用意。

 繰り返す。水上砲雷撃戦用意。各員、戦闘配置に付け」




 老いた狼。伊163潜はゆっくりと艦首を持ち上げて行く。



 海面は、未だ遠い。


****


『――、―、―』


 唄が聴こえる。


 海の底から、唄が聴こえる。



 それはまるで、伊163潜をこの世ならざる何処かへと、誘わんとしているかのようだった。

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