第32話 汚部屋の天使
出口がロックされてしまったので、後戻りはできない。
ランは腹をくくって廊下の奥へと向かった。
突き当たりのドアを開けると、そこは物が散乱した小汚ない部屋で、不自然に冷たい淀んだ空気が鼻を突く。
……汚い?
自然と浮かんだ感想に、ランは静かな驚きを覚えた。
床一面にぶちまけられているものはゴミとも日用品とも判別がつかないが、スラムのゴミ漁りから見れば十分に価値のあるものがたくさんある。
なのに、金勘定よりも嫌悪感の方が先立つとは。メグリに拾われてからおよそ半月。知らぬ間に、清潔な暮らしに染まっていたのだ。
「よう来たな、坊。無事で何よりやわ」
汚部屋の一角を占拠する、ヒツルギ邸の地下室に優るとも劣らず立派なPCの前に座っていた女性が、ヘラリと笑って手を振った。
細く長い目をした、小狡そうな印象の女である。
おかっぱの髪は炭のように真っ黒。可愛いモンスターのイラストが描かれたTシャツは、ビロビロに伸びてしまっており、痩せた体型をより細く不健康そうに見せていた。
室内にいたのは、彼女が一人。
他には誰もいないことを確かめた後、ランはまず問うた。
「……オキさんは?」
「ニッヒヒ、第一声がそれかー」
女性は愉快そうに肩を震わせ、おもむろにPC台に置いてあった機械を取ると口に当てた。
『こういうことでございます、ラン様』
「っ!?」
発せられたのは、オキの声だ。
変声機。それ自体はナメレスをはじめ使用しているのを聞いたことがあったが、他人の声をそっくりそのまま再現するのは初めてである。
ランは目を剥き、同時に毛を逆立てて獣が威嚇するように身構えた。
「やっぱり、だましたな!」
「しゃーないやん。坊はウチのこと何も知らんのやから、いきなり逃げろ言うたかて信じてもらわれへんやろ? 悪者が来てたんはホンマやし、捕まらんと済んだんもホンマなんやから、堪忍したってぇな」
「む……」
守衛風の二人組に襲われたことを思い出して、ランは口ごもる。
揺らいだところへダメ押しとばかりに、女性はキーボードを叩いてモニターに映像を映し出した。
「言うとくけど、ホンマに危なかったんやで。これ見てみ。“ウリエル”かてやられてもうたわ」
再生されたのは、メグリが男たちに囲まれたのを映した監視カメラの映像だった。
メグリの首で爆発が起こり、倒れ伏すのを見せられランは、ヒュウと喉笛を鳴らした。
「メ、グリさ……! ……これ、死……?」
「爆発したんは、たぶんモルフィングデバイスやろな。あれの内部構造は、万が一ボカンしたとて大した威力にはならよう考えとるから、死ぬまではいかんやろ。……逆に言えば、そないなデバイスであのレベルの爆発を起こさせるなんて、よっぽどヤバいパルスガンやったんやろうな」
女性がしたり顔で話しているが、ランは半分以上聞いていなかった。
メグリ運び去られるのを食い入るように睨み付け、砕けんばかりに拳を握りしめている。
その様子を、女性は面白そうに眺めながら、静かな声で語りかけた。
「“ウリエル”がこの後どうなったんかは、まだわからん。お屋敷の方は高級住宅街ってことで遠慮しとんのかして、目立つことはしてへんけど、下手に出入りはてきへん。スタジアムだけは手回しが遅れとったから、先に坊をウチんとこに匿ったった、と……まあ成り行きはそんなとこやね」
「ん……だいたい、わかった」
ランは目を閉じて頷き、呼吸を整えてから女性を見上げた。
「それで……あんた、だれ?」
「最初に訊いてほしかったヤツやなぁ」
いつ自己紹介したらええんかわからんかったわ、と女性は笑みを深くすると、またキーボードに指を走らせた。
軽快なタイプ音に呼応して、天井に設えられたプロジェクターが起動する。くたびれた部屋着姿の女性に上から重なるようにして、投影されたホログラムによってコスチュームチェンジ。
頭には三角耳。
毛皮柄の振り袖ドレスは可愛らしくレースで縁取りされており、赤襦袢の隙間からチラリと覗く生足がなまめかしい。
黄色を基調とした和風の装いは狐をモチーフにしたもので、スラム育ちのランですら知っている有名な衣装だった。
「コンか~らコン! 迷える子らに福音をお届け。“天与のガブリエル”こと、カブラギ・シズカちゃんやで~!」
一オクターブ高い声で、お定まりの口上とともに決めポーズ。
“天与のガブリエル”。
四大天使としてメグリやイドと肩を並べるトップファイターであり、小悪魔的なキャラクターとしてメディア露出にも積極的な、新進気鋭の女性アイドルである。
画面の向こうの華やかなところしか見たことがなかったので、オフの姿がこんなにもだらしないとはイメージギャップも甚だしい。
オキを騙った前科があるので疑いの目を向けるが、複製防止付きのIDまで持っているところからすると、今度は真実なのだろうと思われる。
……まあ、些末な話はどうでもいい。
「”ガブリエル”は、なんで味方してくれるの?」
「むっ。淡泊やなぁ自分」
期待したリアクションを得られなかったのか、シズカは白けた顔でホログラムの衣装を脱ぎ捨てると、ゲーミングチェアをクルリと回転させた。
「そら、オモロいからや。あの”ウリエル”が知らん子ども連れて来よったから、ちょっと探り入れてみたら、何かややっこしいことになってるみたいやん? せっかくオモロなりそうやのに、ここで”ウリエル”が脱落してしもうたら裏の事情がわからんまんまゲームオーバー。それじゃつまらんから、ネクストステージに繋がるようにサポートしたろ、と思ってな」
「…………」
こういうことを言う人種を、ランはスラムでも見たことがある。
金銭や人情では動かず、判断基準となるのは己の価値感だけ。他人の事情も、自分の損得もさしたる問題ではなくて、ボードゲームでもしているみたいな他人事で享楽的な生き方をしている人間だ。
信頼できるか否か、と訊かれたなら最低ランクに挙げられるタイプである。
今日は助けてくれたが、明日は見捨てるかもしれず、明後日は敵になっているかもしれない。関わるのは最低限にして、できるだけ距離を取るのが安全だった。
(……でも、そんなこと言ってられない)
「今んとこゲームは、坊の身柄をウチが押さえたとこで、ひと区切り付いた感じやね。次の手をどうするかやけど……今までカヤの外やったから、流石に情報不足なんよなぁ」
「あ、あの!」
定石を捨てて一歩進み出たランに、思案げにキーボードを弄っていたシズカは小首を傾げて応える。
「ん-?」
「さっきの。メグリさんが、倒れたやつ。……あれも、ウソじゃない?」
「せやでー。加工は一切ナシのナマモンや。偽物作る意味もないしな」
「じゃあ、助ける!」
「……んー?」
グリン、とゲーミングチェアが再び回転した。
「『助けて』やのうて、『助ける』? 自分がやる、言うんか?」
「ん。メグリさんが危ないなら、何に変えても助けないと。……だから、もし味方してくれるなら、手伝って……ください」
切れ長の眼は細剣のように鋭い。
ランは怯みそうになりながらも、グッとこらえて正面から受け止めて、見つめ合うことどれほどの時間が経っただろうか。
「……へぇ」
と、シズカの瞳が笑った。
「なかなかどうして、男前やないの。面白半分のつもりやったけど、たまには人助けもしてみるもんやね」
今までの、人が悪そうな笑い方ではない。
表情には出さず、目の色だけが愉悦の色を帯びる。これがシズカの、”天与のガブリエル”の本気の笑みなのだと、ランは本能的に感じた。
「ええよ。”ウリエル”を救出するため、味方になったるわ。その代わり、ウチの言うことは何でも聞いてもらうで?」
四大天使の一人は悪魔みたいに笑って、ランと契約の握手を交わしたのだった。
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