オネイロファイト

黒姫小旅

スラムの少年と四人の天使

第0話 プロローグ

「きみ、大丈夫? 気分が悪かったりしない?」


 それが初めての、映像ではなく直接耳にした彼女の声だった。


 差し出された手の柔らかさに驚いて引っ込みかけたのを、彼女はすばやく捕まえる。白くてしなやかな指が、汚れて傷だらけな手を包み込む。少年のそれよりも強くて大きくて、だけど細く繊細な手だ。

 まるで全身を握られたみたいに動けなくなってしまった少年を、彼女はおもむろに抱き寄せた。


 ふわ、と。


 長髪が流れ落ちて、少年の頭にかかった。まるでカーテンが下りたように、彼女と二人きりの空間に閉じ込められてしまう。

 いい匂いがいっぱいに広がる。

 両腕と胸とでホールドされて、ドクドクと血の巡る音で耳の中がやかましい。

 ウソみたいに柔らかくて、どこまでも温かくて。


「ぇ、ぁ……」

「しっ。静かに」


 あまりのことに声を詰まらせる少年を抱きかかえて、彼女は建物の陰に滑り込んだ。そのまま息を潜めていると、殺気だった気配が現れる。


「クソッタレ! あの女、余計なマネを!」「急いで探せっ! 逃がしたら、俺たちの身が危ないぞ!」「あのクソガキも、見つけたらぶっ殺してやる!」


「あーらら、ずいぶんとお怒りだこと」


 彼女は毛ほども危機と思っていない声色で、少年のホコリまみれの髪を指で梳いた。


「お姉さんに任せて。絶対に守ってあげるから」


 甘い囁きが耳元をくすぐった。

 温もりに包まれて、優しさに溶かされて、知らないうちに体から力が抜けていく。


「ひとまずは、ここから離れましょうか」


 瞳を閉じる少年に、彼女はほほ笑みを浮かべて薄暗い路地へと歩き出す。


 不思議と、彼女のことは信じられる気がした。もうずっと前から、誰かを信じることなんてなかったのに。掛け値なしに信頼して、身を委ねることができた。


 もし信じることなく振りほどいていたら、少年の運命はまったく違う形になっていたことだろう。


   *


 オネイロン。

 その名の由来は、ギリシャ神話に登場する夢を司る神オネイロスにある。

 この新物質を発見したヒツルギ・トメ博士が当時「これは夢の物質だ」と叫んだ、という逸話が名付けの元になったそうだ。


 オネイロンの語源については諸説あり、巨大企業のオーネ社が大金を積んで自社名に寄せさせただとか、ニホン語の「音色」から取っただとか色々と言われているようだが、すべて根も葉もないウワサにすぎないと断言することができる。賢明な読者諸君に置かれては、面白おかしい俗説に惑わされることのないようにと心から願う次第であり云々かんぬん。


 ……(中略)……


 新物質オネイロンには、これまでにない特性があった。特定の電気信号を与えると、オネイロンの周囲には多次元的な力場が発生する。この力場の中にある間は、物体は質量を保つことができずに、実体を持たないエネルギー状態に変換されてしまうのだ。


 有を無に変える力。


 オカルトじみた新物質は恐怖すら招き、あるいは宗教的な観点から反発されて、さまざまな理由を付けては弾圧されることとなったが、人間の業に終わりはなく。オネイロンの研究は止まるどころか拡大の一途をたどる。

 やがてはオネイロンが引き起こす変換現象『モルフィング』はIT技術と結びつき、エネルギー体の状態になったものを電脳空間内で制御できるようになると、現代社会の様々な分野に導入されて、今ではなくてはならない存在となるまでに発展し、浸透していった。

 中でも特筆すべきは、モルフィング技術を用いたスポーツ『モルファイト』で、その人気ぶりは「軍事と経済に並んで世界を動かす」と称されるほどである。


(『夢の新物質オネイロン』 クロガネ・ショウタロウ/著より)

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