第13話

 それから、じゅんは平太郎に言われたことも少々は気にして、七つ半(午後五時頃)には見世仕舞いをすることにした。


 帰るとりんが笑顔で出迎えてくれたが、餡を炊いたり饅頭の上の花細工を作ったり、りんもやることが多い。それに加え、このところ饅頭でもなく、田楽でもないものを作っているようだった。

 それが夕餉の膳によく載る。


「姉さん、最近やたらと佃煮つくだにばっかり作っていない?」


 浅利の佃煮。昆布の佃煮。山椒の佃煮。茶漬けには合うけれど。

 最近、家に帰ると醤油の香ばしい匂いがする。今までは餡の甘い匂いが勝っていたのに。


「うん、新しい品物を考えたいの。田楽もそろそろ木の芽の季節でもなくなるから、暑くなるにつれて何がいいかしらと思って」


 りんは今から夏に売る品を色々と試しているらしかった。

 今、品物が売れているからといって安心していたじゅんは甘かったのかもしれない。この先のことも考えていかなくてはすぐにつまずいてしまう。


「佃煮をおにぎりに入れてみたらどうかと思ったの。でも、これから暑くなると痛みやすいもの。どうするといいか考えないとね」


 りんはたくさんのことを同時に考え、先の先を見ている。これが富吉に足りないことであった気がする。商売はつまずく前に先を見据え、道端に転がっている危ない石を取り除かなくてはならないのだろう。


「姉さんってすごいわね」


 しみじみとそう思えた。誰に教わったわけでもなく、りんは商売を始めてすぐにそこに気づくのだ。


「なぁに? どうしたのよ」


 などと言って笑うけれど、じゅんにはとても真似できない。

 ただし、なんでもできるりんだが、ひとつだけ困ったところもある。それに本人が気づくのは、本当に切羽詰まってからであった。



 翌朝、いつものようにじゅんは目覚めた。やはり、いつもりんはじゅんよりも早い。近頃、ほとんどりんの寝顔を目にしていない気がした。


 だからだ。それがいけないのだ。じゅんが家の中で饅頭を蒸そうとしていると、急に外から何かを落としたような荒っぽい音がした。りんは外で田楽を焼いているはずだった。


 何事かと思い、じゅんは家の戸を開けた。すると、そこには倒れ込んだりんを受けとめた徳次がいた。落としたのは、徳次が持っていた手桶だった。転がった手桶はそのまま転がっていくけれど、誰も拾わない。それどころではなかった。


「ね、姉さんっ」


 じゅんの頭からサッと血の気が引いたのが自分でもわかった。けれど、じゅん以上にりんはぐったりと青い顔をしていたのだ。

 徳次は立ったまま、りんを横抱きに抱え上げる。じゅんではとてもこうは行かない。


「寝かせる。入るぞ」

「え、ええ」


 じゅんは戸口から下がった。徳次はりんを狭い戸口でぶつけないように注意を払いながら中へ運んでくれた。その間もりんは動かず、気がつかない。りんのあまりの顔色の悪さに、じゅんまで震えが止まらなくなった。


 呆けている場合ではないと思い直し、じゅんは枕屏風の囲いの裏に畳んであった夜具を広げた。そこにりんを下ろしてもらう。徳次は、僅かに眉根を寄せた。


「無理をし過ぎだ。あまり寝ていないんだろう?」


 じゅんはとっさに声も出せず、こっくりとうなずいた。こんな倒れ方をするのだ、疲れているのは見ればわかる。


「花咲饅頭の売れ行きは好調だけど、全部姉さんの手作りだから、姉さんは根を詰めて作っていたの。なるべく家に残って休んでもらおうと思ったんだけど、家にいても動いてばかりで休んでなかったのかも――」


 可愛らしい花が載って売れ行きのよくなった饅頭。しかし、あの花はすべてりんの手作りだ。同じ花を三十、四十、と作るのは骨が折れる。それをりんは妥協せずに仕上げようというのだから、疲れるのも当然だ。


 しかし、だからといって、売り物ができなければ銭も入らない。それでは姉妹も食べてはいけないのだ。始めたばかりだからその匙加減が上手くできない。


 りんは生真面目で、すぐに無理をする。己を蔑ろにする。それがりんの一番いけないところだ。じゅんに向けるほどの優しさを自分にも向けてあげてほしいのに。


 無理が祟ってりんに何かあったら、それこそじゅんは独りになる。父が死んだ時も悲しかったけれど、りんがいないということは考えるのも恐ろしい。どうしたって耐えては行けない。


 震えながらじゅんがりんの冷たい手を握ると、りんは、う、と小さく呻いてまぶたをうっすらと開いた。


「姉さんっ、気づいた?」


 気を失っていたりんに、じゅんの声は大きすぎた。りんはぼうっとした目をしてじゅんを見上げる。その目の端に徳次が見えたようで、りんは驚いて飛び起きそうになった。それをじゅんが慌てて押し留める。


「姉さんは倒れたのよ。寝てなくちゃ駄目」

「で、でも――」


 困惑気味に徳次を見遣る。徳次は落ち着いた表情をしていたが、どことなく厳しさも見えた。ひとつため息を吐くと、訥々と言い聞かせるように言う。


「おりん、お前さんは商売を始めたんだ。それなら、自分の体は商売道具だ。ちゃんと手入れをして、いつでも使えるようにしなくちゃならねぇ。無茶をして壊しているようじゃ先が思いやられるぜ」


 徳次は、己の仕事に誇りを持っている。錺職人であるから、手を大事にして、道具を大事にして、そんな徳次が仕上げる細工は評判がいい。その徳次に言われると、りんは言い返すこともできないのだ。


「ごめんなさい、私、そこまで疲れているつもりはなくて――」


 りんの目に涙が溜まっている。りんは踏ん張りがきかずに倒れた自分を不甲斐ないと思うのかもしれない。

 違うのだ。そうではない。じゅんも徳次も、りんがもっと自分を大切にするようにと願っているだけだ。


「姉さん、今日は見世を休みましょう」


 思い切って言った。りんが寝込んだら、看病できるのはじゅんだけだ。だから今日は屋台を出さない。ずっとりんについている。


「で、でも、お饅頭も田楽も仕込んだのよ」

「いいじゃない、一日くらい。お饅頭ならまだ蒸してないし、中の餡だけ抜いて炊き直せば無駄にはならないでしょう?」


 仕入れたものが無駄になる上、一日の稼ぎがないのは痛い。けれど、りんの体の方がずっと大事なのだ。今日はじゅんが見世に立ったところでりんのことが気になって粗相なく終われる気がしない。


「――ごめんね、おじゅん」


 しょんぼりとしてしまったりんだが、じゅんは倒れるまでりんが無理をしたのは自分のせいでもあると思う。


「謝らないでよ。姉さんがいつだってあたしのためを想っていてくれるって知ってるわ」


 じゅんを守ると言った。その言葉の通り、じゅんは持てる力のすべてでじゅんのために動く。それがわかるから、じゅんも切ない。

 たった二人きりの姉妹だから、手を取り合って生きていくしかないのだ。それが難しいことだとしても。


「おじゅん――」


 りんが涙を零しそうだからか、徳次は立ち上がって部屋を出ようとする。その時、台所に置いてあった花咲饅頭に載せる花を一度じっと見ていた。それから無言で出ていく。徳次が戸を閉めた音が耳元に残った。

 じゅんはりんの耳元でそっと声を潜める。


「徳次さんが倒れた姉さんを抱き留めてここまで運んでくれたのよ。そのことだけはよかったかしら?」

「なっ、なんっ」


 疲れ果てたりんには刺激が強かったのかもしれない。それからぐったりと寝込んでしまった。余計なことを言ったと、じゅんは反省した。

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