第10話

 それから、姉妹の四文屋は十日ほど商いを続けた。

 その頃になると、毎日用意する数は、饅頭が四十個、田楽が三十個であった。


 田楽の方がよく売れるのだが、小さな七輪で焼いているので、それ以上はできないのである。田楽は売り切れるが、饅頭が残るようになった。


「お饅頭を作る数を減らそうかしら?」


 夕方になって台の上に残った饅頭を眺めつつ、りんが零した。まだ十二個も残っている。昨日は八個残った。残った饅頭は長屋の店子たちが買ってくれたりもするのだけれど、こう毎日ではさすがに頼めない。


 しかし、減らしたら売り逃すのではないかという気もする。ここは減らすのではなく、売る工夫をするべきなのではないかとじゅんは考えた。


「姉さんのお饅頭は美味しいもの。そのうち評判になって、もっと買いたいっていうお客様が増えると思うの」

「そうだといいんだけど――」


 じゅんは慰めるために言っているわけではないのだが、りんは毎日の売れ残りで自信を失いかけているように見えた。


 食べれば美味しいことがわかっても、食べなければ味はわからない。なんの変哲もない饅頭を見かけても素通りするのは当然なのだろうか。じゅんならばどうだろう。ただの饅頭を見かけて買うだろうか。


 余程の空腹か、手土産を探している時なら買うだろう。しかし、それ以外の時に通りかかったら目を留めることさえないかもしれない。どうしたら客は立ち止まってくれるのか。呼び込みをしても、欲しくない客は逃げるばかりだ。


「浅草寺で三社祭がありゃ、嫌でも売れるんだがよ。二年に一度だからな。今年は生憎祭のねぇ年だもんな」


 勘助が残念そうに言う。三月に催される三社祭はじゅんたちにとってもささやかな楽しみだった。祭があれば人も多く、こうした悩みを抱えずに済んだかもしれないが、ないものは仕方がない。


「勘助さん、品物が売れにくく感じた時はどうしてるの?」


 すると、勘助は海老を串に刺しながら答えてくれた。


「うぅん、俺の天麩羅は『匂い』っていう強みがあるからな。匂いにつられてふらっとお客がやってくんのさ。お前さんたちは作って持ってくるから、その点では弱いな」

「匂い――」


 それなら、七輪を持ってきてここで田楽を焼くといいのか。けれど、それでは饅頭は売れない気がする。饅頭を焼いてもたいして匂いはしないだろう。

 二人で考え込んでいると、勘助が言った。


「そういえばお前さんたち、屋号がないままだが、つけてみちゃどうだい? どこで買った饅頭だって客も答えにくいだろ? 屋号はあった方がいいんじゃねぇのか」


 それもそうだ。毎日が慌ただしくて、そんなことにも気を回せずにいた。二人、顔を見合わせてうなずく。

 それから勘助はさらに言った。


「後は看板になる品をもう少し考えちゃどうだ? 饅頭も田楽も確かに美味ぇが、面白味がねぇからな」


 痛いところを突いてくる。しかし、どうしたら面白みとやらが出るのかが思いつかない。そこが、つい最近まで素人だった二人だ。


「看板の品ねぇ」


 声に出してみる。それくらいで思いつくわけではなかったが。

 それでも、勘助の助言は的確だと思えた。


「ありがとう、勘助さん。しばらく考えてみるわ」

「おお、気張りな」


 と笑う勘助の揚げる天麩羅の匂いは小腹がすく頃合いには本当に美味しそうだった。



 今日はもう見世仕舞いにして、二人は屋台を引いて帰る。この頃、土手の桜が満開で、花びらが風に乗って流れてきた。

 思わず足を止めて見上げた。


「姉さん、桜――」

「うん。このところ毎日商売でお花見に行くのも忘れていたわね」


 りんもうっとりと桜を眺めている。ゆとりのない毎日だけれど、それが嫌だということはない。今が頑張りどころなのだ。

 ただ、今だけは美しい桜の花を見て和んでもいいだろう。


「綺麗ね」

「本当にね」


 桜の花は不思議だ。眺めていると力をもらえるような、苦しいことも吸い取ってくれるような、そんな晴れやかな気分になれる。儚く散る花だけれど、人々から好まれるだけの魅力がある。

 しばらく足を止めて、それだけで二人は満足した。また明日から頑張ろうという気になれる。そうして長屋に帰り着くと、丁度徳次が出てくるところだった。


「今帰りか?」


 徳次は手に鍋を持っていた。水でも汲みに行くところなのかもしれない。


「そう、ただいま」


 じゅんが答え、りんは静かに頭を下げる。


「今日も売れ残っちゃって。徳次さん、お饅頭食べる?」


 徳次は苦笑した。


「いくつ残ったんだ?」

「十二個」


 じゅんが答えると、りんは恥ずかしそうにしょげた。


「作りすぎたんです。ほどほどにしておけばよかったのに」


 さすがに徳次一人で十二個は食べないだろう。留たちにも食べてもらおう。

 ため息をついてじゅんも肩を落とした。


「あのね、屋号があった方がいいって言われたの。屋号をつけたら急に売れるようになるかはわからないけど」


 りんは僅かにうつむく。


「帰り道、そのことを考えていたんです。私とおじゅんと二人の見世だから、『しまい屋』なんてどうかと思ったんですけど、よく考えたら『終い』に通じるみたいであんまりよくない気もしてきて」

「あたしも考えてて、帰り道に咲いていた桜が綺麗だったから、『さくら屋』――でも、桜もすぐに散るから、ずっと繁盛してほしいのに一時で終わるみたいで駄目かしら」


 どっちの名も、これだというほどにしっくりは来ない。屋号は大事なものなのだから、愛着の湧くものであってほしい。

 二人して頭をひねって出たのがこれだったのだが、徳次はあっさりと言った。


「『富屋とみや』はどうだ?」

「え?」

「富吉さんの『とみ』だ」


 姉妹は、あ、と同時に声を漏らした。


「富屋――」


 どちらともなく、声が零れ落ちた。

 姉妹二人でやっているつもりでいたけれど、そういえば四文屋を始めようとしたのは父だったのだ。二人ではなく、三人で始めたことと言えるのかもしれない。


「そうね、おとっつぁんも混ぜてあげなくっちゃ」


 忘れてもらっちゃ困るぜ、とぼやいている父の顔が思い浮かぶからか、急に切ない気持ちになった。けれどそれが嫌だということはない。りんもうっすらと目を潤ませていた。


「徳次さん、ありがとうございます。おとっつぁんもきっと喜びます」

「うん、富屋ね。決まったからには看板を作らないと」


 それとも幟の方がいいだろうか。

 不思議と、屋号が決まると心のうちに芯ができたような気分になった。この屋号をこれからもずっと守っていかなければ、と。

 二人がうなずき合っていると、徳次がにこりともせずに言う。


「その饅頭、八個くれ。三十二文だな?」

「え? 八個も? どうせ売れ残りだから安くするわよ。ね、姉さん?」


 りんはこくこくと首肯した。けれど、徳次はそれに甘えない。


「売り物だろう? ちょっと待ってな」


 そう言って部屋に戻ると、すぐにまた出てきた。鉢を手に戻ってきたかと思うと、じゅんに三十二文をじゃらりと渡す。


「ほら、確かめな。ここに盛ってくれ。後で出かける用があるから手土産に丁度よかった」

「いいの? ありがとう、徳次さん」

「ありがとうございます」


 りんはほんのりと頬を染め、徳次から鉢を受け取り、そこに饅頭を積む。八個ではなく、十個積んだ。


「たくさん買って頂いたから、おまけしておきました」

「――ああ、ありがとうよ」


 徳次は山盛りの饅頭を受け取り、部屋に戻った。やはりにこりとも笑わなかったけれど、笑顔の安売りをしないところもりんにとっては好意的に見えるのだろう。


「よかったわね、姉さん」


 こっそりと耳元でささやくと、りんはさらに顔を赤くした。



 しかし、その後。


 隣の徳次はまったくもって出かける気配がなかった。出かける手土産にと饅頭を買い込んでくれたのにだ。


 そこでじゅんはふと思う。売れ残ってしょげ返っている姉妹のためにあんなことを言っただけで、本当は自分で食べるつもりだったのではないかと。

 おまけした二個も含め、徳次は十個の饅頭を食べることになったのだとすると――なんとなく申し訳ない気分になった。


 けれど、恩を着せないさりげない優しさを嬉しくも思う。りんもまた、同じことを思っただろう。起きている間中、隣の壁を心配そうに見つめていた。

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