プロローグ

 早瀬秋乃はやせあきのは、姉の亡骸を前に立ち尽くしていた。

 生まれて十五年以上、一つ屋根の下で暮らしてきた姉。ずっと一緒にいた姉。仲良しだった姉。大好きだった姉。――暴走車に轢かれて死んだ姉。

「お姉ちゃん」

 呼ぶ。返事はない。それでも秋乃は、たった今まで姉だった肉塊・・・・・・・・・・・・に話し掛ける。

「起きてよ」

 話し掛ける。

「わたしの名前、呼んでよ。『秋乃』って呼んでよ」

 野次馬の声。サイレンの音。何もかもが遠い。実際はすぐ近くにあるのだろうが、今の秋乃の視界には映らなかった。死んだ姉を除いて。

 涙すら流せない、空っぽの心。秋乃はその場に崩れ落ち、ゆっくりと項垂れた。

 遠かった声と音が完全に消失した・・・・・・・のは、そんな時だった。

 ぷつりと途絶えた声と音。耳鳴りを感じるほど静まり返った空間。しかし、異変はこんなものに留まらなかった。

 秋乃は力なく顔を上げた。

 誰も、何も、動いていなかった。動作の最中の体勢のまま、瞬きすらない人間たち。赤く点灯したまま、回るのをやめたパトライト。地面に落ちる間際に、写真のように止まった木の葉。

 決定的な異変が、異変の全容がそこにはあった。――時が止まっている・・・・・・・・

「姉を助けたいかね?」

 野次馬のものとは違う、たった一人の男の声。酷く静かで、厳かで、力強い声。

 秋乃の目は、吸い寄せられるが如く、声のした方へ向かって行った。

 和服姿の男が、秋乃と姉の傍らに佇んでいた。

 青を基調とした和服を着用し、狐の面で顔を隠した・・・・・・・・・男。彼はこの場において余りにも場違いで、現実から切り離されたような、或いは異界から現れたような異様な存在に思えた。

 また、男の顔を覆う面は、白い狐の面と聞いて、秋乃が真っ先に想起する物とは少し違っていた。秋乃のイメージでは赤い絵の具でペイントされている箇所、全てが青かった。

 和服。面。青。場違いで異様な男は、場違いに穏やかな笑みを口元に浮かべ、秋乃を見下ろしている。

「……誰……」

 空っぽの心で、秋乃は問い掛けた。

 男は答えた。

「僕は鉄勇大くろがねゆうだい。どこにでもいるただの狐さ」



【プロローグ End】

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