その6

 新幹線は高速で走り続けていた。いつのまにか薄暗くなった景色の中を、田や民家が飛び過ぎて行った。真一は反対側の窓に頭を向けた。空と融け合う様な灰色の海が窓の下方で鈍い光を放っていた。真一は暗い穴に落ち込んでいく自分を感じた。Nとの事は確かに真一の中の何かを壊した。足元の狂った真一はそれ以後ひたすら坂を転げ落ちている様だった。行く手には不毛な暗闇が口を開けていた。


 ――だが現在の生活にそうした状況を打破する力がない事を真一は既に感じていた。むしろ聴講生の生活は状況の悪化に拍車をかけていた。…………


 真一の生活は相変わらず親の仕送りの上になされていた。マルクス主義をかじり、労働の意味について少し考えた事のある真一は、そんな自分の生活に疑いの眼を向けざるを得なかった。親の仕送りに依存した生活こそ自分をいつまでも目閉的な状況に固定しておく元凶の様に思えた。働こう、自立しようと真一は何度か思った。だがふん切りがつかなかった。しかし光子とさえうまく交流できなかった目分が真一を打ちのめした。このままでは俺はだめになると真一は思った。やはり聴講生をやめて働くべきではないのか そう思いつつ真一は帰郷の列車に乗ったのだった。この間題に結着をつける事が今度の帰郷の課題だった。


 真一の隣に座った白いワインヤツ姿の中年の男が、読みかけの雑誌を膝の上に広げたまま、口を開けて眠っていた。真一は煙草に火をつけると、窓に向かって大きく煙を吐き出した。煙はガラスに当って逆流した。真一は光子との出会いを思い返した。

五月の初めだった。大学の食堂の前で真一は一枚のビラを受け取った。生協の職員が配っていたビラだった。 「五月の空に歌声を響かせよう! 」という見出しが眼に入った。読んでいくとそれは生協や金属関係の労働者・看護婦達の歌声サ—クルが出演する合同発表会の誘いだった。普段はすぐ捨ててしまうビラだったが、そのビラはふと真一の心を引いた。何かがそこにある様な気がした。そんな気持を半分笑いつつ、しかもその時刻に合わせて日々の課題に区切りをつけると、真一はふらふらと出かけていった。


 それは野外の音薬堂だった。学生の頃そこで行われた集会に真一は何度か参加していた。音楽堂への坂道を上って行くと、 上の方からはちきれる様な弾みを感じさせる高い女声の合唱が聞こ えて きた。さらに行くと太い男の声も耳に入ってきた。


 会場には五十人程の男女がいた。その半分程が四つくらいのグループに分かれて、舞台の上や客席で合唱の緤習をしているのだった。入口ーといっても周囲に張り廻らしてある金網の切れ目だがーから真一が入って行くと、そこにいたジーパン姿の娘が元気な声を掛けてガリ刷りのパンフレットを手渡した。真一は慌ててそれを受け取ると、周囲を見回しながらぎこちなく中へ入って行った。そして通路に接した、コンクリートの上に板を渡しただけの座席の端に腰をおろした。


 周囲は歌声の中に話し声や笑い声が混り、賑やかだった。舞台で歌っている若い男を客席の数人のグループが頻りにからかっていた。青年と娘が仲よく肩を寄せ合って譜面を見つめていた。真一にはそれらの光景か何か眩しくて、自分を場違いなものの様に感じた。特に生き生きとした娘達の姿は、それが特殊な光を放っているかの様に真一の眼をひきつけ、同時にその視線を眩しく弾き返した。


 徐々に人々の数が増え、座席を埋めていった。明るい話し声をさせなから近づいてきた三人連れの娘達が、真一の座っている席の横で立ち止ると、そこから席の並びに入ってきて、真一の横に並んで腰をおろした。真一は体のその側面か暖かくなるのを感じた。腰をおろした娘達の話は賑やかに続いた。その中の一人が舞台に向かって手を振ると、舞台に並んで練習していた女ばかりのグループの一人がハッと気づいた様に手を振って返した。そしてまわりの人に何か言うと、その娘は舞台から降りて駆け足でこちらにやって来た。三人の前に来た娘の口から「久しぶりね」という高い声か漏れた。その一人を迎えて娘達の話は一層賑やかになった。真一は娘達の話から、この四人が看護学校の同期生らしい事、以前は同じ歌声サークルに属していたらしい事を知った。


 会が始まった時聴衆は百人程になっていた。四つのサークルが登場して、それぞれサークルの紹介をし、四、五曲の歌を唱った。サークルのメンバーを紹介する毎に笑い声と拍手が起こった。中には政府風刺のコントをするサークルもあり、ぎこちない所作に聴衆は湧いた。金属会社の労組青年部でつくっているサークルは、 不当解雇撤回の闘争資金カンパを訴えた。聴衆と舞台は殆ど一体であった。一緒に歌おうと壇上のグループが呼ひかければ大部分の聴衆が口を開いて歌声を響かせた。手拍子が起これば、それは素早く全体に広がった。聴衆の中から舞台に向かって何度も声が飛んだ。


 真一は唱われる歌の大部分を知らなかった。しかし真一の心は何となく嬉しく弾んでいた。


 歌の合間々々に隣りの娘達の話し声が聞こえた。お互いの職場の事や、 サークル時代の事を話している様だった。真一のすぐ横の大柄な娘が時折身を屈してクククッと笑った。波立つ白いプラウスの肩や背が真一には眩しかった。看護婦のサークルが登場すると三人は一際高い拍手をした。横の娘が手を拍ちながら、小さく「頑張って」と言った。大柄な娘のその声を真一は可愛く感じた。そのサールと一緒に

なって娘達も歌を口ずさんだ。娘達の明るさに真一は強くひかれていた。真一の時々横へ泳ぐ眼は何度か大柄な娘の眼と合った。その娘に真一は何度か話しかけようと思った。だがうまく話しかけることができなかった。それを補う様に真一は娘に合わせて、わからぬ儘に歌を歌った。そして途切れ勝ちな自分の声が 娘の耳に入るのを秘かに意識していた。


 会も終りに近づいて、「皆で歌おう」というプログラムになった。一人の着者が舞台に上がって歌唱指導を行った。歌詞は配布されたパンフレットに刷ってあった。歌詞の二、三行毎に区切って、若者が先に歌い、聴衆が後に続いた。その曲に初めて接する真一は何度かひっかかった。何度目かの失敗のとき、真一は隣りを意識しながら冗談半分に「難しいなぁ」と言った。隣の娘の顔が真一の方へ動くのを感じた。真一が顔を上げると、娘の瞳が笑っていた。 「難しいですか」と言った。眼のきれいな人だなと真一は思った。それが光子だった。光子は真一と一緒にその曲を終りまで歌ってくれた。


 二人の話はそれから始まった。真一は逸脱しそうに弾む自分の心を押さえる様にして話さなければならなかった。光子は四月に就職したばかりの助産婦だった。就職した職場にも歌声サークルがあり、それに入っていると言った。


 最後の合唱は全員起立し、腕を組んで行われた。真一と組んだ光子の腕は豊かで暖かかった。光子と別れた真一の手に、光子がくれた音楽会の券か一枚残っていた。


 光子のまわりには、 働く若い娘が持つ生き生きした活力が溢れていた。それが真一をひきつけたに違いなかった。音楽堂から帰った真一は、久しぶりに胸が暖かくなっているのを感じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る