その3

 光子と向き合って座り、光子の顔を前にすると、真一は更に言葉が出にくくなった。そんな真一の顔を光子は黙って見詰めるのだった。真一は不必要に水を飲み、煙草を吸った。


 会話は少し弾むとプツンと途絶えた。真一は一つの話題を持ち出しては、すぐそこから身を退いた。会話の中に真一は身を入れる事ができなかった。光子とうちとけられぬ苦しさが真一を灼いていた。

「ねえ聞いて、面白い話があるの」

 光子はロを抑えて笑いながらそう言った。看護学校の寮生の時の話で、光子達はその頃男女交際のあり方について、寮生の間で話し合いをやっていたそうだ。そこでは各人それぞれが持っている恋愛問題、異性との関係が話し合われた。ある娘が、それまでつき合ってきた彼との父際が近頃つまらなくなったと言った。デートから戻ってきたその娘は、いかにデートがつまらなかったか、そして彼に対する不満を並べたてたそうだ。このカップルは既に有名なカップルだった。数日後、光子が寮の入口を通りかかると一人の男がポツンと門の傍に立っていた。何度か見かけた例の娘の彼だった。男は光子の側に寄ってくると、娘がどうしているか尋ねた。デートの時ちょっと喧嘩して、それ以後電話にも出てくれないので、やってきたと言う。男は照れながら、「あの娘はやんちゃで困る」という話をした。光子は気の毒 と思いつつ、その男の話と娘の言った事との くい違いがおかしくて、笑いを抑えるのに苦労したそうだ。光子は半身を揺すって笑った。真一も笑った。話の内容よりも、本当におかしくてたまらなそうな光子と、そんな話を生み出す光子の生活が真一を引きつけた。


 だが笑いが納まると、真一はまた「何を話そう、何を話そう」と思い始めた。最も言いたい事ー現在の生活に俺は渇いている。苦しいんだ、光子が必要だ、俺を救い出してくれーこの事を言うのを真一は抑制していた。言えば自分と光子を傷つけ、二人を引き離してしまいそうだった。それが真一を緊張させ、会話をぎこちないものにしていた。


 真一は結局、一般化した形で自分の悩みと希望を語っていた。社会から遊離して、頭だけが大きくなっている学生生活のつまらなさ、不毛さ、それに比べて、確かに目分の力で社会に立っている労働者の生活の確かさー言葉は所々本からの受け売りだったが、内容は真一の悩みによって支えられていた。その年の三月に大学を卒業した真一は、翌年の大学院入試を受けるため、聴講生となって大学に留まった。その聴講生生活の不毛さを、学生生活一般の形の中て真一は語っていた。他方それと対比される労働者的存在の一つの体現は、真一にとって明らかに光子だった。


 真一に比べて光子の話は具体的だった。職場の事・寮の事・サークルの事、その多くがおかしかった事・面白かった事だった。光子はそれらを笑いなから話した。真一が学生のつまらなさを言った時、光子は「でも研究って大事な什事でしょう」 「学生さんの生活も大変だと思う」と言った。労働著の生活を讃えた時は「そうかなあ」という顔をした。


 二人の話は噛み合って発展しなかった。沈黙が何度か二人を包んだ。真一は沈黙を意識すると、「何か言おう」と焦ったが、ますます何も言えなくなった。真一は下を向いた。光子は俺を奇妙に思っているに違いないと思った。俺をこんなに自閉的にした恋の話でもしようかと真一は思った。もちろんそれはできる事ではなかった。テーブルの下に光子の靴先が見えた。それがコツコツと床を叩いていた。光子もこんな沈黙が嫌なんだ、と思うと真一は苦しくなった。もう店を出なくちゃいけない、と思った。だがそれを言う事さえ真一には難しかった。こんな状態で「出ようか」と言うのが、光子に悪い様に思えた。真一は光子にわからない様に気を使いながら、腕時計を見た。そんな自分がたまらなく嫌悪された。      

「あたし眠くなったわ」

 不意の光子の声に真一は顔を上げた。あくびでもしたのか光子の瞳は光をなくし、たゆたう様に潤んでいた。その眼が真一に微笑んだ。本当に眠りそうな安らかさがあった。意外さと共に、ほっとした解放感が真一を捉えた。光子のそんな所が嬉しかった。「きのう夜勤だったの」と光子は言った。真一ははっとして「寝てないの? 」と光子に尋ねた。夜勤だったとは知らなかった。上映期間がもうすぐ終わるという事を一つのバネにして、光子に電話をした自分を思った。差し迫った日数の中で、光子は真一の指定してきた日を黙って承諾したのに違いない。

「朝方少し寝たけど」

 光子はそう言って笑った。有給休暇を取ってきたという事も、真一はその日になって知ったのだった。

「今日は悪かったねぇ」

 真一は心からそう言った。そんなにして誘っておきながら 光子にうちとけられなかった自分が本当に済まなかった。光子は驚いた様に首を振った。光子の優しさを真一は思った。

「出ようか」

 真一は優しく光子を促した。すると光子は「あっ」と言う様に少し慌ててハンドバッグを把った。その時真一は「もっと話したい」という自分と光子の心を聞いた。うちとけた話が今から始まるという感じはあったのだ。だが自分を再び捉えるかも知れない沈黙が真一は恐かった。

 電車の停車場ま二二人は歩いた。光子が淋しそうで、何度も真一は光子の横顔に眼をやった。光子は静かに前万を見つめて歩いていた。ふと真一の胸を悲しみの塊が通り過ぎた。前方の灯が大きくなった。真一は最後に光子に何かを言いたかった。「僕達は絶対に離れない! 」 しかし遂に口に出す事ができなかった。


 電車の戸口で、光子は少し緊張して、小さく「さよなら」と言った。 「さよならなんかじゃない」と真一の心は叫んだが、口は反射的に「さよなら」と答えていた。電車が動き始めた。

 

 光子を失った様に真一は思った。暫くは動く事ができなかった。

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