第3話

 お風呂に入りながら、ユカちゃんは加波さんに連絡するべきだろうかと悩んでいました。

 いま加波さんはどういう状態なのだろう……宇野くんの言ってたことは本当なのかしら……それになぜ加波さんはあのとき、わたしに謝ってきたのだろう……。

 ユカちゃんは今までのことをひとつひとつ思い出し、指先でなぞるように確かめていきました。

「アカクビさんは、加波さんのところにいるだけではないのだわ……」

 女の子の血だらけの生首が頭に浮かんでき、ユカちゃんは寒気を感じて、湯のなかにからだを沈めました。

 ――その女の子はクローゼットから加波さんを窺うばかりではなく、わたしの家にも隠れ潜んでいるかもしれない。

 ユカちゃんは身を固くして考えました。

 家の梁や柱の影や押し入れから、わたしをじっと見ているのかもしれない……。長い髪のあいだから見ひらかれた充血した瞳……、ぐじゃぐじゃと鳴る濡れそぼった上靴……、くふふっ、という押し殺したような笑い声……。

 電話をかけると、加波さんのお母さんは大変喜びました。しかし加波さんに取り次いでもらえるかを聞くと、口ごもりました。数秒の沈黙が受話器越しに伝わってきて、宇野くんの言う通り普通じゃないんだ、とユカちゃんは思いました。

「ええ……」加波さんのお母さんは言いづらそうにつぶやきました。「まだ調子が悪いんで答えてくれるか分からないけど、とにかく聞いてみるわね。あの子だってお友だちと話すことも必要ですものね。……ああ、ずっとこうなんですよ。食事もろくにとってくれないし、妙に虚ろな顔をしてしまって、生気がないというか……なんていうか、母親としてこんなことを言っていいのか分からないけれど、あの子じゃないみたいっていうか、わたしどうしたらいいか……」

 ためらいながらも「ちょっと待っててね」と、加波さんのお母さんが言い残すと、保留音が鳴りました。牧歌的なメロディのオルゴールです。それがやけに空々しくユカちゃんの耳元に響きました。二十秒ほど経つと最初に戻って、曲が繰り返されました。それが何週かしたときに、受話器越しに湿っぽい吐息がかかったのです。オルゴールが消え、ザラザラという生身の音が聞こえました。

 加波さんだ、とユカちゃんは思い、受話器の向こうに話しかけました。

「加波さん、加波さんなのね? ねえ、どうして学校に来てくれないの? みんな心配しているのよ。なにか困ってることがあれば教えてちょうだい。きっとみんな力になってくれるわよ。そうよ、だって加波さんはクラスのみんなに好かれているんだもの。ねえ、どうなの? それほど元気がないのかしら?」

 ユカちゃんは息を弾ませながら訊ねました。しかし受話器からは同じように、ザラザラとした吐息のぶつかる音が聞こえているばかりで、これといった反応はありません。それからもあれこれとユカちゃんは話しかけてみましたが、依然として向こうにだれかがいるのが分かるばかりで、そこからは頼りになる言葉も態度も読み取ることができませんでした。

 しかしユカちゃんが諦めて電話を切ろうとしたとき、ノイズのなかから微かに声が、加波さんの肉声が聞こえた気がしました。その声は遠い場所から話しているかのように小さく、それにひどく掠れた弱々しいものでした。これは加波さんなのかしら、とユカちゃんは訝しみました。

「加波さん? 加波さんなのね!」

「あの……ね……倉敷さん……」声が発せられると、ザラザラという吐息が一層勢いよくなりました。ユカちゃんは一言も聞き逃さぬようにと、息を止めて、耳の内側に強く受話器を押し当てました。「どうして……わたし……あんなこと。女の子が見てるわ……」

「どうしたの? 何を言っているのよ!」

 ユカちゃんは必死に声を張り上げましたが、こちらからの反応など微塵も聞こえないように、加波さんは喋っています。まるで壊れたテープレコーダーみたいな感じさえしました。

「こっちを見てるの、ずっとよ。ねえ、倉敷さん、あのときはごめんなさいね……ぜんぶわたしのせい……でしょう? 女の子がね……教えてくれたわ、とっても、とってもやさしいのよ……学校に行くとね、いつも仲良くしてくれるの。もう、あなたのところには行けないけど……倉敷さんにひどいことしたの、本当に悪いと思っているわ……ねえ、こっちを見てるわ……わたしたちとっても仲良くなったのよ……」

「女の子ってだれなの、教えてよ。わたしの知らないひと?」

「……ごめんね、うまく言えない、すごく苦しいの……倉敷さんのこと、考えるとね……消えればいいって、思うくらいよ……ごめんなさい……ごめんね、もう行かなきゃ……」

 電話はそこでぷつりと切れました。最後の方は、確かに聞き覚えのある声でしたが、どこか虚ろで、生気に欠け、加波さんが話しているのでないみたいでした。

 ユカちゃんは電話を置いてからも呆然と立ち尽くしておりましたが、強い風が窓を叩く音で我に返ると、ゾッとしながら、

 ――もうアカクビさんは加波さんに憑りついてしまったのだ、

 と思いました。

 ――加波さんが言っていた「学校」とはどこのことなのだろう……まさか、実際にこんなタイミングで転校とは考えにくいし、第一それなら学校の先生に伝わっているはずだもの……。

 ユカちゃんは両親のいる居間の明かりを横目に階段を上がり、ふらふらと気の抜けた様子で自分の部屋に行きました。いつもであれば、テレビを眺める両親のもとに加わって一緒にお菓子をつまむのですが、そんなことをしている心の余裕はとてもじゃないけど、残ってなかったのです。電話をしたことで、余計に不安の種が増えたようなものでした。もしかしたら加波さんは本当に殺されてしまうかもしれない、とユカちゃんは胸を疼かせました。そうなったらわたしのせいだ、と過去の行動を悔やみました。どうしてあんなことをしたんだろう、と反省しましたが、その理由は明白でした。あのまじないをしたのは、興味半分でのことでした。アカクビさんを召喚する一種のまじないを、ユカちゃんも心の底ではきっと信じていなかったのです。

 ……だから、した。

 そんなこと最初から分かっていました。ただその儀式をすることで、結局なにも起こらなかったとしても、憂さを晴らしたかったのです。「アカクビさんと呼ばれる女の子は、実際に生きているんだよ」という宇野くんの声が、耳の奥にこだましました。けれど、どうしてそんなことが分かったでしょう? しかしもうすべては嘘偽りなく始まってしまい、現在進行しているのです。

 とにかく宇野くんに明日訊ねてみよう、宇野くんなら力になってくれる、決して自分ひとりではないのだ、そう思うと、ユカちゃんはちょっとだけ楽になりました。非常に彼が頼もしい存在として見え、そう思う根拠は乏しいものであるにもかかわらず、心にはゆるやかな温度がさざ波のように広がっていくのでした。いまアカクビさんがどこでどうしているのかも、餌食となりつつある加波さんがどうなってしまうのかも、そしてユカちゃん自身の安全でさえ、宇野くんの手に託そうという気になっていたのです。

 いずれにせよ、その夜にユカちゃんが見た夢は、そういった楽観を促すようにも、反対に釘を刺すようにも考えられるものでした。



 暗闇の奥で、縦の筋に切り取られた光が見えました。

 クローゼットのなかにいるんだ、と思いました。もう何回も経験した夢です。

 自分はこれから、クローゼットから這い出て、青白い月の光に照らされ、ベッドに横たわる加波さんの首を絞める。痣に痣を描き加えるように。黒を黒で塗りつぶすように。力を入れれば、からだに気持ちのいい波が満ちていくのです。まるで本当にこの手で加波さんを殺すことに快楽を感じているかのように。

 しかし、今回は感じたことのない妙な違和感がありました。カーテンの隙間から冷たい月の光が射し込んでいて、同じ光景のように見えるのですが、ベッドや机の位置が微妙に変わっているように見えたのです。それに今までの夢にはなかった絨毯が、フローリングの上に敷かれていました。

 ユカちゃんはそれに構うことなく、ぐっしょりと濡れた上履きをペタペタと鳴らしながら、ベッドへと向かっていきます。いまや女の子の思想は、このからだを通して、頭や心に染みわたるように伝わってきていました。ユカちゃんは一刻も早く、喉骨の感触を楽しみたいと思いました。少しでも空気を吸おうと、金魚みたいにパクパクとあける口からだらしなく涎が垂れ落ち、宙を睨む目玉が光を失って真っ黒に変化するのを見ると、快楽はどんどんと増していくのです。楽しくて、楽しくて、ユカちゃんの心は抗いがたい幸福感に満ちていきました。指から全神経へと伝播していく感触を求め、ユカちゃんは布団がこんもりと山をつくるベッドへと、近づいていきました。絨毯の上を歩くと、ペタペタと床を踏み鳴らす音は吸い込まれて、聞こえなくなりました。どこかで潮の流れる音が聞こえている気がしました。それにドクドクと脈打つ、自分の心臓の音も。

 加波さんは恐れをなしてか、頭の上から布団をかぶっているようでした。ユカちゃんは、その上に屈みこむと、胸の高鳴りに後押しされながら布団の端をつまんでそっとめくろうとしました。

 そのとき、ユカちゃんの指がふれるよりも先に、布団が勝手に勢いよくめくり上がったのです。布団の下にひそんでいた人影が、がばっと起き上がり、大声で叫びました。

 ――逃げろ、先生が来るぞ!

 その声を聞いた途端、女の子のからだは硬直し、動かなくなりました。時が止まったようでした。中にいるユカちゃんの心臓にまで強い衝撃が、まるで鋭利な刃物で内臓が抉り出されるかのように、刺し貫かれるように響きました。

 青い月の光のなかで、”わたしたち”と対峙していたのは、加波さんではなく――宇野くんでした。宇野くんはカッと目を見ひらき、全身をわなわなとふるわせながら、あからさまな敵意を見せつけていました。宇野くんは手に握りしめていた塩を、殴りかかるように”わたしたち”へと投げつけました。

「消え失せろ、化け物め!」

 女の子の心で強烈な情念が湧きあがり、その気持ちはあふれるように内側へと流れ込んできましたが、ユカちゃんがそれを感じるよりも前に、女の子のからだごとその存在が溶けだしてしまっていました。炭酸が泡となって消えるように、からだが透き通り、ユカちゃんと同化していた力といったものが、急激に存在をなくしていったのです。

 ぷつん、と糸が切れたみたいに視界は抜け落ち、いきなりすべてが闇と化し、なにも見えず、なにも聞こえない沈黙のなかに放り出されました。それは完全な孤独でした。光がすぐ隣りにありそうな気配が伝わるのに、絶対にそこには辿りつけないのです。それは絶対の静寂、完徹された滅亡、宇宙レベルに高水準の独房でした。生きているなら死ねば終わるわけですが、そこには生の輝きもありませんでした。輝くものはおろか、動くものさえありません。あらゆるものに宿っているはずの可能性は、あらかじめ陰険なやり方で叩きつぶされ、希望をかつて見た者は目を抉り出され、祈りをかつて聞いた者は耳をハサミで切り取られました。そこには明度もなく、高低差もなく、罪や罰もなく、ただ限度のない懲役、際限のない闇が口をひらいていました。無気力と無抵抗、そして枯れてしまった涙、日の目を見ることなく摘まれてしまった生命、そういったものがひしひしと感じられました。それらの空気の粒子は、互いに関係し、ひとつの絶望的な流れによってこの暗闇を満たしていました。それは理由のない破壊衝動、すべてを無意味へと強引に分解してしまう力、氷点下に冷えきったままでふれたものを一挙に火傷させ、二度と喜びを感じられなくなるまで内破してしまう、そんなぎっしりした混沌の、なにも存在することを許されない自己崩壊的な沈黙でした。

 その状態がどのくらい続いたかは分かりません。

 ハッとして、身を起こすと、ユカちゃんは自分の部屋にいました。外はまだ暗く、時計は午前三時を過ぎたところでした。宇野くんは対処法を知っていたのだ、とおぼろげな頭でユカちゃんは思いました。そうしてあの女の子、アカクビさんを追い払ったんだ……。

 喉から大きな息が洩れました。これで助かる、これで解放される、と快癒への望みが波となって胸の内側に打ち寄せていました。

 ……しかし、どこかであの濡れた女の子の姿がちらつくのも事実なのです。解き放たれたい、関係を断ち切りたい、と頭では思ってはいるのに、どうしてか彼女の姿が大きくなって、消えようとはしないのです。

 その姿は、小さく、頼りなく、残酷な暗闇のなかでひとりぼっちでした。

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