アカクビさん

四流色夜空

第1話

 倉敷ユカは、決してクラスでは目立つ方ではありませんでした。

 家が裕福でもありませんでしたし、勉強も中の上くらいなものでした。運動神経も並み程度、だけど特に個性のない自分の運命を恨むこともない、言ってしまえば普通の女の子でした。仲の良い友だちと怪談やオカルトの話をするのが楽しみでしたが、その友だちは一〇歳になると同時に引っ越してしまい、それっきりでした。ユカちゃんはそれを寂しがりながらも、慎ましく教室のなかで過ごしておりました。

 しかしクラスのなかで長い時間を過ごしていれば、多少なりとも、衝突まではいかなくても、すれ違い程度は起きてしまうものです。たとえば美術の時間に、偶然組んだペアの似顔絵を描かなくてはならなくなり、倉敷ユカ本人は一生懸命に描いたつもりでも、それを見た相手がわざと醜悪に描かれていると怒り、根にもってしまうとか……。そういったわけで、クラスメイトの加波さんが倉敷ユカのことを良く思っていなかった、という背景はありました。可愛い子ぶってるとか、偉そうだとか、そんな他愛もないわだかまりがあるとき、きっかけを見つけて爆発したのです。理由はなんだってよかったのかもしれません。

 ガサガサと引き出しに手を入れていた加波さんは、はたと辺りを見渡し、叫びました。

「きっと倉敷さんだわ!」

 加波さんの声は大きく、芯の通った強さをもって響きました。運動神経のすぐれた加波さんの周りには、いつも女の子が数人ついています。人徳というよりは、いわば街灯に蛾が寄り集まるように、みんな加波さんの強さに引きつけられていたのでした。

「さっきまでちゃんとあったもの。給食費のお金を封筒に入れて、わたし持ってたのよ。ちょっと席を外したときになくなったの。そのあいだ、倉敷さんがなにしてたか知ってる人いる? あの子、この頃わたしに嫌がらせばかりしてくるんだもの。とうとうやらかしたんだわ!」

 もちろんユカちゃんは否定しました。

「わ、わたし、そんなことしてないわ……」

 けれど加波さんは、聞く耳を持たず、色々とユカちゃんのありもしない悪口を並べ挙げた挙句に、泣き出してしまったのです。涙こそ、観衆の心を揺さぶるものはありません。周りの女子は加波さんの肩をやさしくさすり、慰めの言葉をかけながら、チラチラとユカちゃんの方を疑いのまなざしで見つめました。女子たちの疑いの目は、真実以上のものを語っているようでした。

 帰りの会が終わると、ユカちゃんは先生に呼び出されました。女子たちが告げ口をしたにちがいありません。ユカちゃんは小さい肩を落としながら、担任の藤崎先生のあとについて、生徒指導室のかび臭い部屋に入りました。向かい合って席に座ると、いきなり先生は切り出しました。

「加波の給食費がなくなったことは知っているか?」

 藤崎先生は、大学を出たばかりの若い先生です。いつも正義感に燃えていて、クラスメイトの団結を第一に考えてるような人なのです。先生が今回の事件を重大なこととして考えてるのは、明白でした。

「知ってますけど、わたしじゃありません……」

 ユカちゃんの声はふるえていました。緊張で声がうまく喉から出ませんでした。

「加波はこの頃、いろんなことに悩んでいたそうだ。友だちとうまくいかなかったり、勉強にもあまり身が入らなかったりとかな。倉敷、お前、そういうことは聞いていなかったか? 大切な友だちだろ? 身近なクラスメイトじゃないか」

「……いえ、そんなこと」

 ユカちゃんは消え入りそうな声で呟いた。

 美術の似顔絵の一件以来、まともに加波さんは口をきこうとしてくれなくなっていました。ことあるごとに、敵意のまなざしを向けてくるのは加波さんなのに、とユカちゃんは苦い気持ちで思いました。けれど当然、藤崎先生はそんなことは知らないふうでした。痛ましい表情をしながら、目の底でひたと見据えてくる先生のことを、ユカちゃんは憎らしく思いました。どうしてなにも知らずに、わたしを吊るし上げるような真似ができるのだろう、と。

「友だちが苦しんでいたら手を差し伸べてやるべきだと、そうは思わないか、倉敷?」

「……はい」

「たとえばお前はスーパーの棚にあるお菓子が欲しいとして、それを勝手にポケットに入れたりするか?」

「……しません」

「それはつまり、倉敷は加波のものを盗んだりしてないと、そういうことなんだな?」

 確かめるように、先生は目線を一ミリも外さずに、ユカちゃんに訊きました。

 ユカちゃんは力なく頷きました。どうしてこんな喋り方をするんだろう、とユカちゃんは考えました。本当に何もかもが嫌いになってしまいそうでした。

「そうか、わかった。一応、親御さんには連絡させてもらうが、倉敷のことを疑ってるわけじゃないんだ。お前だって、いま誠実な態度で俺に話してくれたんだろうからな。しかし分かってくれよ。俺だってこんなことしたいわけじゃない。だが、クラスメイトの大事なものがなくなったんだ。悪人がいるかどうかは分からないが、少なくとも悪事は働かされたんだ。さあ、……もう行っていいぞ」

 ユカちゃんは顔を赤らめながら、自分が恥をかかされたことが納得できない様子で椅子から立ち上がると、廊下へと向かいました。その表情は歪んでいました。こんなとき、人はどんな気持ちを抱くのでしょう。ユカちゃんの場合は、自分以外のすべてが消えてなくなればいいという、やりきれない憎悪の感情でした。



 アカクビさんについての話を聞いたのは、引っ越してしまった友だちからでした。ユカちゃんはとぼとぼと歩きながらそんなことを思い出していたのです。加波さんでも、クラスの女子でも、藤村先生のことでもなく、アカクビさんのことを考えていたのです。

 アカクビさん、というのはこんな話です。

 その女の子は目を覆うくらいの長い前髪を垂らし、しわくちゃのセーラー服を着ています。上履きは真っ黒に汚れ、濡れているためか鼻に突くほどの臭いがします。姿勢は猫背で、いつも床の方を眺めています。首に真っ赤な痣があるために、アカクビさんと、そう呼ばれています。

 一説にアカクビさんは、二十年ほど前にクラスの男子たちに暴力をふるわれて死んだ女の子の幽霊だ、と言われています。当時男子のあいだでは、何人かでだれかの首を絞め上げ、何秒まで持ちこたえられるかという、いわばチキンレースのような遊びが流行っていました。そんな遊びが流行ってるときに、その前髪の長い女の子は主に女子たちからいじめられていたのです。あくどい男子たちが目をつけないはずがありません。

 女の子は数人の男子に囲まれて、男子トイレに連れ込まれました。放課後で、廊下に生徒たちの姿はありませんでした。首を絞める遊びというのは、普段は男同士でやるものですから、女の子相手には加減が分からなかった、ということもあるかもしれません。それに男の子たちは、いじめられっ子とはいえ、ひとりの女の子を数人で囲んでいる、いまなら何をやってもだれにもバレないという、極度の緊張や興奮からでしょう、つい遊びの範疇を超えて、首を強く絞めすぎてしまったのです。アカクビさんの首に浮き上がった真っ赤な痣は、そのときに複数の男子の手によってつけられたものが、いまだ燃えるようにして残っているのです。

 その始終は、三階にある男子トイレで行なわれました。なるべく職員室から遠く、目に突かない場所を男の子たちは選んでいたのです。恐怖のせいでろくに反抗したり、声をあげたりすることもできず、女の子は四方を囲まれた状態で、生温かく好奇心を剥き出しにした指が、喉の薄い肉に食い込んでいくのを感じました。軽い冗談のつもりだった男子たちは、無表情な女の子の顔が自分の握力によって歪み、醜くなることに興奮し、我を忘れていきました。力を入れた腕を離したとき、いやらしく喘ぎながらタイル張りの床にくずおれる様子も、彼たちを楽しませました。男を相手にするのとはわけのちがう昂揚感が、窓を閉め切ったトイレの空間の端々まで充満していきました。顔面を鬱血させ、よだれを口の端に滴らせ、顎にも力が入らなくなった女の子の、そのだらしなく開いた口が、どこか笑っているような、まだ余裕のある印象を与えてしまったのも、男子たちが歯止めを失ってしまった原因かもしれません。いずれにせよその事件のせいで、女の子は脳の血管のある部分に損傷を受け、数日後には死んでしまったのです。ですから、そういったわけで、アカクビさんを招き呼ぶ場所というのが、三階の男子トイレだというのも理由ない話ではないのです。



 ユカちゃんはだれもいなくなった放課後、三階の男子トイレの前まで来ると、きょろきょろと辺りを見回し、そっと扉を開けてその隙間に身を滑りこませました。もちろん男子トイレに入ることは初めてで、ユカちゃんの心臓は大きく跳ね上がりました。けれど引き返すわけにはいきません。傷ついた心を元に戻すためには、これ以外の方法はありませんでした。アカクビさんが本当には存在していなくても、”復讐する”というポーズを取ることが必要だったのです。三つある個室のうち、ユカちゃんは一番奥のドアを開け、中から鍵をかけました。中に入ってしまえば、来慣れた女子トイレとさほど変わらないような感じがします。うす暗くて、じめじめしてて、かびた臭いが籠っていました。目を閉じて息を整えながら、以前に聞いたはずの必要な手順を頭のなかにきちんと並べ直し、ユカちゃんはうっすらと目をひらきました。

 鞄のなかから手鏡を取り出すと、便器の上に屈みこみました。足をたたみ、膝を床のタイルにくっつけると、不気味な冷たい感触がぞわっと広がり、ユカちゃんの肌のあちこちに鳥肌が立ちました。便器に溜まった水をふれるのは、さすがに抵抗がありました。ユカちゃんは鼻をつまみ、ゴム手袋でもあればいいのに、と思いましたが、詮ないことです。アカクビさんを呼び出すのには、あくまで素手で便器の水をすくい上げねばならないのです。派手な汚れがないのを入念に確かめると、ユカちゃんは執拗に、口角泡を飛ばして責め立ててくる加波さんの顔を思い描き、息を止めました。どうにでもなれ、という捨て鉢の精神でユカちゃんは便器に手を突っ込み、水をすくうと、手鏡の上にそれを垂らしました。それからその水に指先でふれ、手鏡の鏡面に満遍なく広がるようにと、薄く伸ばしていきました。水は透き通っていましたが、鏡のなかは次第に曇っていきました。手の脂か、水の汚れか、原因は分かりません。

 ユカちゃんは鍵のかかった扉に向き直ると、手鏡を顔の前にかざし、アカクビさん……と唱えました。

 ――アカクビさん、アカクビさん、アカクビさん、アカクビさん、アカクビさん、アカクビさん、アカクビさん……。

 ユカちゃんが黙ると、不気味な沈黙が四方からどっと押し寄せました。やっぱり噂は噂かもしれないと、諦める気持ちが胸をよぎりましたが、ここまで来たのだから、と強く思いました。だから儀式を続けたのです。

「たすけてください、たすけてください、たすけてください」

 ユカちゃんは鍵のかかったドアを内側から、コンコンと二回、それから四回たたきました。それから目を閉じたまま、じっとみじろぎをせず、祈るような姿勢を保ちました。

 そのときです。たしかに扉が軋む音が、ユカちゃんの耳に届きました。廊下側の扉が、ギイッと重い軋みを立てて開かれ、そして閉まりました。一瞬外の雑音がふわりと室内をよぎり、そして消え失せました。何者かがタイルの上を歩く気配がしました。痛いほどに神経を張りつめるユカちゃんは、それを扉一枚隔てて強く感じました。ユカちゃんはノックを待っていました。侵入してきた何者かがするノックの音を待ちわびていたのです。しかしそれはいつまで経っても訪れませんでした。

 ノックの音が聞こえるはずなのに、とユカちゃんは訝しみました。ノックの音が鳴ったらわたしは出迎えるのだ、そうすれば、アカクビさんにお願いをして、加波さんを殺してもらうことができる。

 ユカちゃんの胸は大きく脈打ち、ドア一枚隔てたトイレ内の物音を聞くのに邪魔になるほどでした。さあ、とユカちゃんは汚れて冷たい床に膝小僧をくっつけながら、期待して待ちました。

 けれど、じきに物音はすっかりやんでしまいました。

 さっきはたしかに聞こえたタイルの上を這いずるような物音も、気配もまったく感じられません。窓の向こうからは、微かに運動部の歓声が聞こえています。ユカちゃんはそろそろと立ち上がろうと腰を上げたものの、足が痺れていたため、倒れそうによろけました。体重を預けようとして、隣の個室との仕切り壁に大きく腕をぶつけてしまい、その音がトイレ中に反響するのを、じっと固まったまま聞きました。やがてなにも起こらないことを悟ると、ため息をつきました。

 それは安堵の色をしたため息でしたが、心のなかは不満でいっぱいでした。

 なぜアカクビさんは、ドアをノックせずにどこかに行ってしまったのだろう。それとも全部やっぱり噂話に過ぎなくて、アカクビさんなんて実在しないのだろうか?

 ユカちゃんは男子トイレを出ると、もう日の暮れた暗い廊下を歩いていきました。明日からどんな目で見られるだろう、クラスの中心にいる加波さんにあんなふうに糾弾されたわたしをみんなはどう思ってるだろう、やっぱりわたしが犯人なんだとそう思うにちがいない……。

 ユカちゃんの心は来るときほどドキドキしておらず、反対に暗く沈みきっていました。なにも動くものがない夜の湖みたいに、ユカちゃんは陰鬱とした表情で、重い足を引き摺っていきました。



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