追憶

「そういえば新しい支店に移った、って言ってたっけ」

「ああ、まぁ。最近は特に何もないっていうか、普通に仕事してるって感じ。最初の頃はバタバタしててもうヘトヘトで……」


 母に出迎えられた僕は、居間で向かい合って座りながら近況報告をしていた。近況報告といっても、仕事のこととか、あとは友達と遊びに行ったことぐらいだ。多分、母にとっては期待外れもいいところだと思う。母はきっと、伴侶となりそうな女性の話でもしてくれることを望んでいるはずだ。でも残念ながら、その期待には添えない。


「あ、そうそう健太けんた、あんた香奈かなちゃん覚えてる?」

「香奈ちゃん?」

「ホラ、幼稚園から一緒だった赤崎あかさき香奈ちゃんよ」

「あ、ああ」

「香奈ちゃん結婚してて、息子さんが生まれたんだって」


 その言葉に、僕の眉は自然にぴくりと動いた。


*****


 赤崎香奈。僕の初めての、想い人だといっていい。


 彼女とは幼稚園の頃、よく一緒に遊んでいた。近くに同い年の男の子がいなかったのと、彼女自身が男子っぽい遊びを好んでいたせいだろう。


 やがて小学校に上がると、クラスが別になったこともあって関わりはほとんどなくなった。もう彼女のことはほとんど忘れかけていた。家は近いけど、別に一緒に登校するような間柄でもない。


 再び関わりが生まれたのは、小学五年生の時だった。一緒のクラスになって、委員会も一緒になった。僕と彼女は鶏舎で飼っているニワトリや、教室の水槽で飼われているメダカの世話をした。水槽の水換えなんかは重たいバケツを運ぶことになるから、そういう力仕事は積極的に引き受けていた。ええかっこしい、とはこのことだ。彼女からもらえる「いつもありがとう」が妙に心地よかったから、というのもある。


 彼女のことをとして意識したのは、中学に上がってからだったと思う。中学一年に上がっても、奇跡的に僕たちは同じクラスだった。


 きっかけは、些細なことだった。すれ違ったとき、たまたま彼女の二の腕に僕の指が触れた。たったそれだけ。


「女の子の肌って、こんなに柔らかいのか」


 あの感触が、ありの一穴になった。堤にあいた穴から水があふれ出すように、僕の頭は妄想の洪水に支配された。彼女と手をつないだり、キスをしたり、その先に進んで、ゆくゆくは二人の子どもを……止まらなかった。止めようがなかった。僕は煩悩の虜になって、脳内に都合の良い像を作って、その中で彼女と僕の幸せな関係を夢想し続けた。


 「一番好きな人では抜けない」という男がいるけど、僕は違った。僕たちは脳内で肌を重ねて、果ては子をもうけるための行為もしていた。も含めて、僕は彼女を求めていた。「彼女を汚している」なんて感覚はない。だって好きな人とはセックスしたいと思うし、頃合いになれば子を産んでほしいものじゃないのか。


 ……とはいえ、そんな下心が知られたら、もう気色悪いでは済まないだろう。その頃の自分でさえ、そういう分別はついていた。


 僕はいつでも、機会をうかがっていた。まるで草むらからガゼルの群れを狙うライオンのように、虎視眈々と彼女との関係を進める機会をうかがっていた。僕の脳内は常に「今だ、行け」「慎重になれ」「逸るな」「急いては事を仕損じるぞ」「虎穴に入らずんば虎子を得ず、というだろう」と、てんてんばらばらな指令が飛び交っていた。


 結局、僕は頭でっかちな男だった。シミュレーションは完璧でも、少しも実行に移せなかった。彼女の前では善人として振舞った。ただそれだけだった。もし変に踏み込んで、品のない下心を悟られて、彼女に嫌な思いをさせてしまったら……そう思うと、最初の一歩が踏み出せなくなってしまう。


 結局、二人きりでどこかに出かけることもないまま、中学を卒業して疎遠になった。


 それからも何度か、「この人いいな」と思える相手には巡り合った。僕は小賢しいことに、努めて善良に振舞った。善人たることに努めれば、いずれ何か実りがあるだろう。そう思ってはいたけれど、期待は外れた。結局、自らリスクをとって行動する気概のない男に、女は靡いたりしないのだろう。


 受け身ではだめだ。リスクを負ってでも行動しなければならない。それに気づいたとき、僕はすでに社会人となっていた。仕事は忙しくて、色恋を求める余裕なんてなかった。加えて性体験のないことが、ますます僕を守りに入らせた。「彼女いない歴イコール年齢の気色悪い童貞男が自分から女の人に話しかけたりしたら、下手すればセクハラ扱いで一発アウトだ。人生のレールを転げ落ちて、そのまま社会的な死を迎える」と思うと、何もできなかった。負うべきリスクが大きすぎる。


 結局、僕は守りに入るしかなかった。今の生活を失いたくはない。確かに独り身だけど、稼ぎはちゃんとあるし、アニメを見たり娯楽小説を読んだり、忙しい中にあっても程々に趣味を楽しめている。わざわざリスクを負って変化を求めるインセンティブがほとんどない。今さらどうして、こんな生活を手放せようか。

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