01-02

 ベッドサイドに置いていた携帯用端末が音を鳴らした。

 着信だった。


「応答を許可」


 端末に向かって無機質に声をかける。


 ピコンと音を鳴らして、着信音が途切れた後、一瞬の間を置いて、端末から人の声が響いた。


「おはようサトル。寝坊してないか心配で電話しちゃった。寝てた?」


 聞き慣れた幼馴染の声だった。


「おはよう、ヒカリ。起きてたよ、今日の講義は一限からだってちゃんと認識してる」


「そう、なら良かった。先週は随分と寝坊してたからね」


「ヒカリが起こしてくれなきゃ、一限どころか二限もすっ飛ばして昼まで寝ていただろうな……助かったよ」


「ううん、大丈夫。昨日は先週みたいに仕事、無かったんだ?」


「ん、まだ継いだわけじゃないしな。先週は月イチの手伝いが偶々一限の日の前日になっただけ」


 答えながら、目玉焼きとベーコンの乗っていた皿をシンクに置く。


 今日の朝食も我ながら美味だった。塩加減が絶妙だった。

 まぁ、それしか加減するところはないんだけど。

 あ、火加減もあるか。



 彼女は幼馴染のヒカリ。


 人類の逃避先――いや大多数の人達の名誉のために、移住先に訂正しよう――電脳空間「ボックス」の住人だ。



 物理空間上の肉体は、もう、ない。



「なぁ、ヒカリ」


「ん?なに?」


「 ……いや、なんでもない」


 もし、俺がそっちに行ったなら……なんてたらればを言おうとしてやめた。

 ヒカリは端末上の小さな画面の中で首を傾げている。



 それが見えなかったフリをして、シンクの蛇口を捻る。

 思ったよりも勢いよく水が出てしまい、反射的に蛇口を閉めた。

 無意識に力が入ってしまったのかもしれない。



 顔に跳ねた水を拭ってから、あらためてそっと蛇口を開いた。

 ちょろちょろと水が出てきたのを確認して、皿を洗い始める。


 相変わらず水は温かった。



――――――



 人類にとっての転換点。



 ある企業が打ち出した画期的なソリューション。

 開発した電脳空間「ボックス」への移住。


 移住と言えば聞こえが良いが、その実態は先にも述べたとおり逃避行。

 肉体を捨てる片道切符だ。


 身体を生かしたまま脳だけ電脳空間に繋ぐのでは、資源の消費を抑えられない。

 結局、肉体の維持のために食料や医療資源等が継続的に必要になるからだ。



 そこで取られた方法は、その人そのものを――思考パターンも、記憶も、なんなら身体的特徴も、遺伝子情報も、その人を特徴づける全てを――物理空間上の肉の器から電脳空間上の器、平たく言えば電子基板に移行することだった。



 最初は肉体を維持したまま、言うなれば夢を見るように、脳を電脳空間に接続する。

 電脳空間には物理空間と全く同じ世界が仮想的に構築されていて、"夢"を見出した人々は物理空間にいたときと何ら変わらず、何のギャップも覚えずに電脳空間で生活できる。



 電脳空間上で見る"夢"の時間が長くなり、物理空間と電脳空間、どちらが夢かわからなくなった頃合いで次のステップへ進む。

 脳を含み、人体の機能をひとつひとつゆっくりと機械へと置き換えていくのだ。



 身体の機械化が全て完了すれば移住プロトコルは大詰め。

 機械化した各臓器および、それらと脳を繋ぐ神経回路をプログラムに置き換えれば全プロトコル完了。

 人がサーバの電子基板上に収まる。



 その間、本人は自身の身体がどの程度移行しているかなんてわからない。

 本人にとって"現実"となった電脳空間で、物理空間にいたときと同じように生活している。

 学校で学び、就職し、恋人を作り結婚して、子供を授かって……同じ電脳空間で暮らす人々とともに、物理空間でそうしていたのと同様に暮らしていくのだ。




 電脳世界「ボックス」への移住が提案された当初こそ、人類はこの革新的なソリューションに対して否定的だった。


 遺伝子の乗り物としての本能か、肉体を捨てることへの拒絶感、恐怖感が拭えなかったのだろう。


 だが、どんどんと縮小していく生活圏に、襲ってくる異常気象、兵糧攻めかと疑いたくなるような食糧不足が襲ってくれば、肉体などもはやお荷物でしかなかった。


 次から次へと電脳空間への移住者は増え、最終的にほぼ全ての人類が移住した。



 物理空間に残ったのはごく一部。

 苦しい思いをしてでも肉体を持つことにこだわる信念をもった人たちか、特殊な事情のある人たちだ。



 ヒカリも、電脳空間に移住した一人。

 彼女の場合は少し特殊だが。


 そして俺は珍しい方の一人。

 固い信念などは持っていないが、とある事情で物理空間を離れられない。



 ――だから、意味のないたらればを考えるのはやめたのだ。




 「あーっ!!」


 端末からヒカリの大きな声が響いた。


「どしたー?」


「もうこんな時間! サトルが起きてたので安心しちゃって、自分の準備するの忘れてた! 電車に遅れちゃう! じゃ、また大学で!」


「なんか申し訳ないな、気をつけ……って切れてるし」


 ヒカリは早口言葉のように一息で状況を話すと、こちらの返答を待たずに通話を切ってしまった。



 そう、彼ら電脳空間の住人は"現実の世界"を生きている。


 電脳空間上にある大学に、電脳空間上にある自宅から通わなければならない。

 電車だってある。バスも、タクシーも。






 しんと静まった部屋で、ひとり。


 蛇口から流れる水の音だけが響いている。


 俺は大学には通わない。通えない。

 電脳空間には行けないから。

 21世紀初頭に一気に浸透したオンライン会議のように、カメラを通してリモートで講義に参加する。



 通学に費やす時間がないから、講義が始まるまで1時間程度の余裕がある。



 蛇口を捻って水を止め、ベランダに出た。


 生暖かい風が頬を撫でる。



 高台にある小さな一軒家の、二畳ほどの小さなベランダ。


 南側を見やれば、少し離れた町がよく見える。いや、かつて町だったものがよく見える。



 壁にヒビの入った高層ビル群。

 ほとんどの窓は割れ、風通しが良さそうだ。 

 ツタをはじめとする雑草がいたるところに纏わりつき、灰色の街を彩っている。

 


 人の影はない。



 電車もバスも、公共交通機関と呼べるものは疾うの昔に消え去った。


 この町で人の活動の痕跡が増えることはない。


 かつての栄華が風化し錆びていくだけだ。



 ――どちらが本当の"世界"を生きているのかわからねぇな。


 額に伝う汗を感じながら、そう思った。

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