雨音の二重奏が響いていた。どこか遠くで続く雨音と、近くで嵐のように激しく地面を打つ音。おかしな雨だと思いながら菜々歌は瞼を開き、身を起こした。

 高校時代にタイムスリップしてしまったのだろうか。まるで保健室のような光景があった。白いパイプフレームのベッド、ベッドを囲むカーテンレール、壁に並ぶ木製の棚。白衣を着た女が椅子に座っている。校長先生が座りそうな革張りの椅子だ。

 菜々歌は勘違いに気づいた。雨音ではなく、キーボードの音だった。物凄い速度で女はキーを叩いている。スチール机の上、やけに横長のディスプレイにいくつもウィンドウが表示され、ソースコードと思しき文字列がびっしり並んでいる。

 ポニーテールの女性が右手で最後のキーを叩いた。「実行、と」左腕をマグカップのほうへ伸ばす。視界の端に入ったのか、菜々歌をふりかえった。

「いいですか、落ち着いて聞いてください」

 眠たげな目をした女は薄く笑みを浮かべて言った。壁のほうへ顔を向ける。いかにも学校の教室にありそうな、シンプルなデザインの丸いアナログ時計が天井際にあった。

「あなたが眠っていたのは、九時間くらいかな」

 そんなに時間が過ぎたのか。言われてみれば窓の外は真っ暗だ。驚くと同時に菜々歌の右膝に鈍い痛みが走った。思わず顔をしかめる。

「無理しないでね、春洲さん」

 ポニーテールの女が立ちあがった。サンダルを履いた足で歩き、ベッド脇の丸椅子へ腰を下ろす。菜々歌の間近に細面の顔が迫った。アンダーリムの眼鏡をかけており、白衣のせいか女医のような印象だ。優しいけれど、冷たく観察しているようでもある。

「あの、どうして私の名前……」

「ごめんね、ちょっと持ち物を調べさせてもらったの。女子大生なんだね」

 あらためて菜々歌は自分の格好を見下ろした。この女性のものなのか、ピンク色のジャージに着替えさせられている。

「初めまして、私は平目ひらめ千香。遠慮せずチカって呼んでね。るららテラスのIT担当ってとこかな」

「るらら?」

「シェアハウスの名前。ここって昔は小学校で、隣には公民館だった建物があってね、みんなで共同生活してるの。四人、じゃなかった、いまはあの子もいるから五人か」

 しゃべりかたが速い。一・五倍速で再生しているような調子だ。改めて部屋を見渡し、菜々歌は理解した。ここはかつて本物の保健室だったのだろう。

 お腹が鳴る音がした。菜々歌は頬が熱くなるのを感じた。

 千香はサイドテーブルに置かれていたカップうどんを手にした。日本全国どこのスーパーマーケットにも並んでいるものだ。「こんなのでゴメンね」ラップと蓋を剥がす。スープの素を入れる。電気ケトルで沸かした湯を注ぐ。豪雨なのか強い雨の音が響いている。

「運が良かったね」ぽつりと千香が言った。

「こんなひどい雨、まだ歩いていたら死んでたかもよ?」

 寒気がした。菜々歌は掛け布団を胸元へ引き寄せた。

「あの、私」

 遭難した事情を少しずつ説明した。菜々歌には海亀史郎という交際相手がいる。社会人で、世間に名の知られた外資系企業の営業マンだ。昨日は丹沢湖周辺のドライブに誘われた。今年は春の訪れが早く、御殿場線沿いの桜がちらほら咲きにかかっていた。途中、休憩のため蛟ヶ谷みずちがたににある展望台に立ち寄った。

 菜々歌の説明に千香は相槌を打ち、ときおり簡単な質問を挟んだ。蛟ヶ谷という言葉に千香は深く頷いた。ここから近いのだろう。

「うっかり転んで、手すりを乗り越えて落ちてしまって」

 古びたコンクリート造りの建物だった。他に誰もおらず、廃墟じみた雰囲気がした。階段を上ると屋上のような空間があった。四方を柵に囲まれている。道路側からすれば二階の高さだが、菜々歌が落ちた側はもっと高低差があった。命に別条がなかったのが不思議な高さだった。落ちる途中で何度か枝にぶつかり、衝撃が緩和されて助かったのだろう。

 身体中の痛みをこらえながら顔を上げた。枝や藪に遮られ展望台は見えなかった。史郎が何度も菜々歌の名前を呼んでいた。展望台へ戻ろうとしても、そこは道と呼べるものさえないところだった。流れの速い沢に行く手を阻まれ、戻ることを余儀なくされた。戻るつもりが見覚えのない場所に踏みこんでいた。

 焦り、頭が混乱していた。闇雲に歩き続けた。次第に辺りが暗くなってきても地を這うようにして歩き続けた。菜々歌は頭こそ赤い毛糸の帽子をかぶっていたが、アノラックにデニムパンツという格好で充分な防寒はしていなかった。三月下旬で夜になっても零下を下回らないとはいえ寒さが身に沁みた。まるで獣になった気がした。空腹を抱えながら血眼になって獲物を探し、深い森をさまよい続ける狼だ。

 いつの間にかスマートフォンで設定していたらしい。タイマーが五分経過したことを告げた。千香は急須から湯呑みにお茶を注いだ。

 痛む膝を慎重に動かし、菜々歌はベッドの横に足を下ろした。割り箸を手にし「いただきます」と千香に向かって頭を下げた。サイドテーブルからカップうどんを手にとる。蓋を開けると懐かしい匂いがした。麺を箸で持ち上げ、口元へ運ぶ。少しだけ汁を啜る。単調な動きが少しずつ速くなっていった。鼻を啜りそうになり、また恥ずかしさを覚えた。それでも食べる手をとめることができなかった。

 助かった。自分は助けられたんだ。無我夢中で食べながら菜々歌は自分が涙ぐんでいることに気づいた。慌てて食べているせいでも湯気のせいでもない。自分は生きているという実感に声をあげて泣きだしてしまいそうだった。

 明日は病院で検査を受けようね、と千香が言った。頭を強く打ったときは自覚がなくとも容態が急変することがあるそうだ。

「忘れるところだった」

 千香が屈みこんで、電源タップからなにかを外した。ベッドまで戻ってくる。手にしているのは見覚えのあるスマートフォンだった。

「充電が切れてたから、助けを呼べなかったんだね」

 え、あ、はい。しどろもどろな返事をして菜々歌はスマートフォンを受けとった。

「連絡したほうが良いね。恋人さん、きっと心配してるだろうし」

「ここって山奥なんですか」

「うん、住んでるのは私たちだけ。いちばん近い他の集落まで車でも三十分はかかるね。まあ、体調さえ問題なければ明日にでも送るから」

「ありがとうございます。本当に助かりました」

 深々と菜々歌は頭を下げた。「困ったときはおたがいさまだよ」千香は微笑みながらベッドから離れ、机に戻った。雨音のような打鍵音が再開された。

 千香の背中に向かって、菜々歌はもう一度頭を下げた。ごめんなさい、助けてもらったのに嘘を吐いて。そう心の中でつぶやいた。

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