第21話・汚泥

 池の中から突き出された手は、どろどろとした濁った液体にまみれていた。

 さらに皮膚は灰色に変色し、半ば腐りかけている。池の周囲をもがくように動くと同時に、ずるり、と肉が欠落。初音の喉から、か細い悲鳴が迸った。


――な、な、なにあれ?なんで、うちの池に、へんなの、が。


 生きた人間ではない。

 生きた人間であるはずがない。

 そいつは縁石を掴むと、ゆっくりと池の中から這い出したのだった。


「ひっ……!」


 逃げなきゃ。

 そう思った瞬間、初音は足がもつれて転んでしまう。どしゃっ、と音を立てて土の上に尻餅をついてしまった。恐怖で、まったく足に力が入らない。ひ、ひ、ひ、と音にもならない息が喉から漏れるばかり。じりじりと、しりもちをついたまま後ろに下がるだけで精一杯。


――なにあれ、なにあれ、なにあれ!?ななな、何が、ほんと、何がっ……!?まさか、まさか、あれが、下蓋村の地下にいるっていう、怪物なの……!?


 その人間の上半身が、ついに池の上へ這い上がった。しかし、立ち上がる様子はなく、ずり、ずり、と四つん這いで前へ進もうとする。

 長い長い黒髪。しかし、映画で見た幽霊のような、艶やかで綺麗な髪ではない。泥と汚物と汚液にまみれ、ぼさぼさになった髪だ。もろに顔にかかっているせいで顔は良く見えないが、紫色の唇からこぽこぽと茶色い液体が溢れ出しているのが見えて泣きたくなった。

 多分女、だということしかわからない。

 茶色の着物のようなものを着ているが、それは汚い水が染み込んで染まってしまっただけなのかもしれなかった。立ち上がることができないのは向こうも同じのようで、極めて緩慢な動作で、四つん這いになってこちらに近づいてくる。動くたび、ぼたぼたぼた、と汚い水と固形物を全身から垂れ流しながら。


「アア、ア……ごぼごぼ、ごぼごぼ……」


 何かを訴えたいのだろうか。しかし、女の喉から溢れるのは、低いうめき声と水音のみだった。肺の中まで、汚い水で満たされてしまっているのかもしれない。


――怪物、じゃないかもしれない。そういえば、聞いたことが、ある……!


 痺れた頭の隅で、初音は香苗が言っていたことを思い出した。かつて、この下蓋村では生贄を使って、怪物を封印する儀式が行われていたのは事実らしいということ。

 その生贄を殺すやり方が数年ごとに変わっていって――中でも一番残酷だったものの一つが、はじめに殺された女だったということ。

 彼女は生きたまま汚物が満たされた井戸に落とされて、沈められて殺された。井戸に落とされた後、女がどれほど助けを求めても容赦なく井戸の蓋が閉められ――女は真っ暗闇の中、独りぼっちで、汚物の海に溺れて死んでいったのだと。

 もしかしたら、目の前のこの怨霊は。


「いや、い、い」


 逃げなければ。きっと、こいつは自分を池に引きずり込むために現れたのだ。村の人間を、自分を残酷に殺した者達を恨んでいるのだ。


「いや、いやいやいやいや!わ、わたし、違う!む、村の人じゃないの!た、ただの、ホテルの人で、だ、だから、だから!」


 どうしようもない言い訳が喉から漏れる。しかし、そんな言葉が怨霊に通じるはずもない。汚物まみれの女は、凄まじい臭いと水音とともに、ずる、ずる、ずる、とこちらに這いずってくる。明らかに、初音の方を目指している。


「助けて!お願い、お願いっ……!お願いだからっ!」


 仕事だとか、そんなことはもう考えられない。頭を満たすことは一つだけ。

 逃げなければ。

 一刻も早く逃げなければ。

 逃げなければ、逃げなければ、逃げなければ、逃げなければ、ニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバニゲナケレバ――!




「やだ、いやっ……死にたくないの!」




 とっさに、初音がそう叫んでしまった、その瞬間。


「ア、アアアア、アアアア……!」


 女が、頭を抱えて悶えだした。長い髪を振り乱すたび、びちゃびちゃびちゃ、と汚水があたりに飛び散る。そして。


「ごぼぼぼぼ、ぼぼ……ジニダグナイ」


 確かに、聞こえた。


「ジニダグナイ、ジニダグナイ、ドウジデワダジガ、ア、ア、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」


 先ほどまでの緩慢な動作が嘘だったかのよう。女は虫のように素早く初音の前まで這ってくると、初音の右腕に思い切り噛みついてきたのだ。


「きゃあっ!?い、痛い痛い痛い、何すっ」


 不満を訴えることもままならなかった。女は初音の腕に噛みついたまま、力いっぱい引っ張ってきたからである。正確には、そのまま四つん這いになって、元来た方へと引きずりだしたのだ。――そう、あの汚泥が詰まりに詰まった、池の方へ。


「いやああああああああああああっ!」


 逆らうこともできないまま、初音の体は池の中へ落下した。慌てて縁石を左手で掴み、抵抗する。


「やめて、やめてやめてやめて!やめてえええええええええええええ!誰か、誰か助けてっ、誰かああああああああああ!!」


 香苗がまだ事務室にいるはずだし、ホテルの中には客だっているはずだ。しかし、初音がいくら叫んでも、誰かが駆けつけてくれる気配はなかった。ぶちぶちぶち、と噛みつかれたままの右腕から嫌な音がする。激痛と、水が沁みる悪寒。皮と肉が噛み千切られているのか、そう思って目の前が真っ赤になった。

 しかもそれだけではない。池の中から次々と、何かが飛び出してきて自分の服や髪、足までもを引っ張るのだ。それは、誰かの腕であるようだった。しかも本数がおかしい。一本、二本、三本、四本。何本ものぬるぬるとした腕が、背後から初音の体を掴む。池の中へ引きずり込もうとする。

 縁石に捕まって耐えられた時間は、あまりにも短かった。スーツの左手が、あっけなく石から剥がれてしまう。


「ああああ、ああああああああああっ」


 どぼん、と。あっという間に顔まで浸かってしまった。びりびり、と眼球のみならず皮膚までもが、汚水に刺激されて痛みを発する。とっさに口を閉じることもできなかったので、口の中にも汚水が入り込んできた。恐らく、誰のともしれぬ排泄物まみれの水。凄まじい苦みと生理的悪寒に、思わず嘔吐してしまう。

 そして、吐いてしまえば当然、呼吸などままならないわけで。


――苦しい、苦しい、汚い、苦しい……もういや、なんで、わたしが、こんな目にっ……!


 浅いはずの池で、どこまでもどこまでも体が沈んでいく。体の中までもが穢されていく感触に絶望しながら、初音の意識はゆっくりと遠ざかっていったのだった。




 ***




「あ、あああ、あ……!」


 間に合わなかった。紬はずるずるずる、とベランダに座りこむ。

 女性の従業員は、あっけなく謎の女に――池の中へと引きずり込まれてしまった。


――何あれ……!なんで、なんであんなものが?何かのドッキリ?まさか、本当に、下蓋村のお化けが出てきちゃったってこと!?


 悪い夢でも見たと信じたい。だが、実際今、自分は女性が悲鳴を上げながら消えていく様を見てしまったのだ。何かの撮影でないならば、これはまごうことなき現実のはず。

 何かが、自分達のすぐ傍まで迫っている。目に見える脅威として、命を脅かそうとしているのだ。


――だ、誰かに助けを求めなきゃ。さ、さっきの人もまだ、た、助かるかもしれないし……!


 いや、何よりもまず。こんなところで怯えてへたりこんでいる場合ではない。まずは立ち上がるところからだ。初音はベランダの柵に捕まって、無理やり足に力をこめた。がくがくがく、とまるで全力疾走したあとのように両膝が笑っている。柵の錆びが両手を汚すのもいとわず、どうにか体を持ち上げるところまでは成功する。

 心臓が、ばくばくと煩い。恐怖でじわりと涙が滲み、全身が冷たい汗で濡れている。

 なんとかしなければ。どれほど泣いても喚いても、この場には自分一人しかいない。自分のことを守れるのは、自分だけなのだから。


「!」


 やがて、気づいてしまった。従業員を飲み込んだ池が、再び波打っているのを。ごぼぼぼ、ごぼぼぼ、という音とともに――小さなあぶくが浮いてきて。そして。

 また、灰色の腕が、飛び出してきたことを。


――い、池からまた出てこようとしてる!


 その腕は、スーツではなく着物を纏っていた。さっきの従業員が、自力で這い出してきたわけではないのは確定。

 まさかまた池から出てきて、誰かを襲うつもりでいるというのか。また人を見かけたら、その時は――。


「!さ、紗知ちゃん……!」


 そうだ、紗知と合流しなければ。とっさに紬はそう思ったのだ。

 彼女の方が低い階にいるし、不安から部屋を出てしまうことも十分考えられる。今、あの少女を助けられるとしたらそれは自分だけではないか。


――い、行かなきゃ。


 震える体に鞭打って、紬は部屋に飛び込んだ。そして、それができる自分に少しだけ安堵もしたのだ。

 己はまだ、誰かのことを考えるだけの力がある。それならきっとまだ、状況を打破することもできるはずだと。

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