第7話 記憶がない前夜

「やばい、記憶がない」


 今日は朝一からのバイトで、七時前にはバイト先に着いていなければいけない。


 時間はまだ六時なので少し余裕はある。


 だから今の状況がなんなのか考える時間があってしまう。


「右には下着姿と汐音。左には抱き枕ちゃんロリモード。俺はいつ寝た?」


 昨日は確か、深夜の二時ぐらいまで汐音にいじめられて、自分の理性と戦っていたところまでは覚えている。


 その後に記憶がないのが、理性が飛んだせいなのか、寝落ちしたせいなのかがわからない。


 律儀に毛布を掛けているのを見ると、理性が飛んだとは考えにくいが、覚えていない以上は何も言えない。


「ちょっと失礼」


 決して下心はなく、自分の無実を証明する為に毛布をめくって、汐音の身体を見る。


「綺麗な身体……俺は変態か」


 実際、汐音の身体は、触らなくてもわかるぐらいに抱き心地がよさそうだ。


 白い柔肌、それに華奢で触れるのが怖くなる。


「これが愛おしいなのか?」


「女の子の身体を凝視する変態がいる」


 見なくてもわかる。


 左からジト目を向けられている事が。


「俺が汐音に何もしてないか確認してただけだよ」


「覚えてないの?」


「何も」


「ふーん」


 抱き枕ちゃんが何やらニマニマしだした。


「昨日はあんな事をしてたのに覚えてないんだ」


「なにをしたんだ?」


「それはもう……あれだよ」


 どうやら何も考えていないらしい。


「どれ?」


「……れいじ嫌い」


 抱き枕ちゃんが拗ねてそっぽを向いてしまった。


「可愛い奴」


「うっさいし。黙れし変態」


「口調はそれにしたんだ」


 昨日までの変な喋り方はやめたらしい。


「なんかあなた達見てたら、演技するのも馬鹿らしくなってね。だからやめた」


「なんで演技してたんだ?」


「舐められないため」


 抱き枕ちゃんは未だにそっぽを向いているが、その言葉には強い気持ちを感じた。


「頑張ったんだな」


 俺はそう言って抱き枕ちゃんの頭を撫でた。


「撫でんなー。そういうのが舐めてるって言うんだー」


 抱き枕ちゃんが暴れながらも、声は少し嬉しそうだ。


「お前も大概可愛いよな」


「そうやって手当り次第に可愛い可愛い言ってると、本命に嫌われるか刺されるよ」


「本命って汐音?」


「そ。その子、嫉妬深そうだから『あなたを殺して私も死ぬ』とか言いそうじゃない?」


「そんな事はない」と言いたかったが、言ってるところが想像できてしまった。


「汐音を悲しませる事はしないよ。現時点で一番大切な人だからな」


 俺はそう言って汐音の頭を撫でた。


「好きなんでしょ?」


「多分。よくわかんないんだよな。好きって言ったら、俺はお前も好きだし」


「でも、その子のは私を好きってのとは違うんでしょ?」


「そうだな。俺は汐音の全てを受け止めたいし、汐音とずっと一緒に居たいと思う。だからただの片思いだな」


「はっ」


 何故か抱き枕ちゃんに馬鹿にされるように笑われた。


「その子はれいじの事を好きじゃないと?」


「好かれてるとは思いたいけど、恋愛感情なのか? 友達の延長線上だと思うけど」


「はっ」


 何故かまた笑われた。


「根暗なのか卑屈なのか鈍感なのか変態なのか馬鹿なのかわからないね」


「なんか絶対関係ない悪口入ってたろ」


「れいじはその子を信用してないの?」


「汐音の事は信用してるよ。ただ、俺に好かれる要素ないだろ?」


「うわぁ……」


 今度は呆れたような視線を送られた。


「れいじはもう少し自分を客観的に見た方がいいよ。謙虚は美点かもしれないけど、何事もやりすぎはよくない」


「昔何かあったのか? 相談ぐらいは聞くぞ」


「そうやって話を逸らすのは自覚してる証拠」


(中身は長生きの吸血鬼だから、見た目とのギャップがすごいな)


 見た目はロリなのに、とても大人びた事を言うので少し違和感を覚える。


 実際、抱き枕ちゃんの言ってる事は正しい。


 俺は自分で見た自分しかわからないから、汐音が見た俺というものを知らない。


 それなのに自分の事を決めつけるのは確かによくはない。


「汐音が居なかったらお前が一番だったろうな」


「私に無自覚攻撃しても無駄だよ。一番はその子ってわかったから、勘違いなんてしないし」


 そう言う抱き枕ちゃんの声は少し嬉しそうだ。


「努力はするよ。でも、客観的に見た結果、やっぱり俺は汐音と釣り合わないって思ったら……まぁ、あれだな」


「諦める?」


 抱き枕ちゃんが真面目な顔で聞いてくる。


「それが出来たら苦労はないな。そこでやっと自分磨きを始める。それで俺が汐音に釣り合うってなったら……」


「なったら?」


「やばいな」


「なにが?」


「時間」


 不意に気になって時計を見たら、既に六時半になろうとしていた。


 バイト先にはすぐに着くが、準備をしていない。


「血を飲ませる時間がない。休憩になったら帰って来るから我慢できるか?」


「大丈夫大丈夫。れいじの血が至高だけど、そっちのでも」


 そう言って抱き枕ちゃんは汐音を見た。


「汐音の綺麗な肌に傷を付ける気か?」


「睨むな、怖いから。何? その子から初めて血を出させるのは自分だって言いたいの?」


「じゃあそれで」


「変態。でも、傷物にしたら女の価値は下がるって言うし『その時は俺が』って言えるよ」


「は? そんな理由で汐音に傷なんて付けられる訳ないだろ。まぁ、傷があっても汐音の事が好きなのに変わりはないが」


 見えるところに傷はないが、汐音にはに傷がある。


 本人は隠してるつもりらしいが、見ていればわかる。


「汐音の傷は俺が全部受け止めるよ」


「恥ずかしい事を普通に言うよね。もう満足だから遅刻する前に準備しなさい」


「そうだな」


 俺はいつも通りの準備を済ませ、アパートを出た。


 バイト先に着いた時に、顔が熱かったのは、きっと走ったからだ。

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