第4話

「このままでは、かくの傘下になりかねぬ」

 庭に梅が香るその日、朝政ちょうせいが終わり、こうが退出した後、欒成らんせいはぽつりと呟いた。他の臣が、どうすべきか、と口々に述べるが、具体案は無い。政堂には、早春らしい薄寒さが残っている。

「……私が儀を戦勝ではなく天への祀りに持っていったことが、少々ややこしくなった」

 隰叔しゅうしゅくがため息をついた。闊達な彼らしくなく、憂いを帯びた顔であった。彼は、しんの失態を覆い隠すべく咄嗟の知恵を働かせた。隰叔が儀礼の差配に最初から関わっていれば、失態そのものが無かった、という仮定は意味をなさない。そもそも、彼は末席に連なる外様とざまであり、諮問機関に近い。似たような立場の氏族より口が多いのは、欒成との相性の良さであった。

 この件について隰叔を責めるものは、光を含めて誰もいない。あの宴席で下手すれば虢公かくこうの怒りに触れ、難癖をつけられさらなる進物を要求される可能性もあったであろうし、最悪、手慰みに兵を向けられる可能性もあった。しゅう室重席に対する無礼があった、とでも言えば、ことたりる。疲弊したよくなど一晩でかたづけられたであろう。実際、悔いが色濃い隰叔の言葉に、その場にいる臣も欒成もあれはあれで良かった、と言い合った。

 しかし、その会話自体、不毛と言える。みな丸く収まる良かった探しで落ち着くのは、現実逃避にすぎない。

「今年は、虢の助け無しに曲沃きょくよくと対峙せねばならぬ。君公くんこうもそれをお望みだ。各々、心してほしい。鄙邑ひなゆうのものどもの助けにもなっていただきたい」

 欒成は、朝政に出ている臣たちを見回し、言った。

「曲沃が先年のように打って出れば、我らで対処できるのか」

 指摘したのは、公族の一人であった。不安の吐露とも言える。その不安を小さく撫でるように欒成は穏やかな目を向けた。

「虢は曲沃の領地にまで入り、伐った。そうなれば、あちらも立て直すのに時間がかかる。曲沃は桓叔かんしゅくからわずか三代の家、身を寄せた氏族は数多いが日が浅い。不用意に立ち回れば集まった氏族たちは霧散する。そこに不利がある。我らはその点、結束は高い」

 この欒成の言葉を引き継ぐように隰叔が、よろしいか、と発言を請うた。

「曲沃は、我らが取り戻そうとしたゆうを引き止めるためにも、派手に荒らし回った。どのような国でも大きく攻勢に出れば、翌年も同じように動く事は難しい。問題の邑に圧力をくわえ、協力いただいている氏族や邑の負担を減らすのがまず肝要」

 するすると抜け出ていった氏族に手を伸ばすこともできなかった過去がある。が、ここに来て腰を据え、逃さぬとし、他の氏族にも見せつけろ、というのが隰叔の案であった。

「曲沃の状況をしかと確認せねば、隰叔の案も砂上の楼閣というもの。私の手勢にて、情報を探り、改めて議にあげよう。曲沃を封じ、鋭気を養い、虢と距離を空ける。そのためにも今年一年、各々励まなければならぬ。晋のため、君公のため務めよう」

 欒成の言葉に、一同頷いた。

 結局、この一年は波乱のないものとなった。期待どおり曲沃は動かず、翼は問題の邑への圧力を強めるとともに、荒らされた領土の回復をはかった。

 そして秋――

くだったか!」

 報告を受けた光が、喜びに満ちた声をあげたあと、飛び上がった。

 二年前の暮れに曲沃へ降った邑が、音を上げ戻ってきたのである。

 光は飛び跳ねて喜び、興奮しさらに跳ねた。君主としてだけではなく、当時の文明人としてもありえない行儀の悪さであったが、誰も咎めなかった。この少年の苦しさは誰も代わることはできない。気鬱のひとつが晴れたのである、おおやけの場でハメをはずし、飛び跳ねても仕方があるまい。

 しかし、その後はよろしくなかった。

「邑の大夫たいふどもを奴隷とし、各邑へ分配せよ。その長は処刑し贄とする」

 落ち着いた光は、威儀を正したあとに、強く言い放った。精神の荒廃であったのか、それとも少年の気負いか。政堂は緊張に包まれた。非道の行いを数え十三の君主が言い放ったのである。

 ――大人に従順な子供がここまでの発想になるとは。

 成人前にあった歯がゆさ、成人してからの苦しさは、怨毒となったらしい。光の顔は誇らしげで、己が毅然とした君主らしいことをしている、と思い込んでいるようであった。

 欒成は、

「我が君、その議はなりませぬ」

 と、即座に返した。前置きも無く、全否定してきた重鎮に、光が引きつった顔を向けた。崩れる瞬間の土塀のような顔にも見えた。欒成は、光の屈折した心がわかっていたが、それを押しつぶすように言葉を続ける。それは容赦の無い、説教でもあった。

「おそれながらあえて諫言申し上げまする。の邑には、戻れば許す、罪は問わぬとおおやけに告げております。それを違えるは我が君の軽重問われ、ひいては我が晋の威光の失墜となりましょう。すぐさま人心離れ、民は逃げ、国の亡びに向かいます。我が君のお言葉は、約定を蔑ろにし、大夫、人民を粗末に扱うことを是となされる、おおよそ徳があるとは申せませぬ。夏書かしょにございます。皇祖こうそに訓あり、民は近づくべく、下すべからず。また、一人三矢いちにんさんし、怨みはめいなるのみにあらんや。――かの禹王うおうは人民は親しむべく、蔑み粗末に扱ってはならぬと訓示なされました。また、三つの過失あらば怨みを招くとも仰っております。今、我が君は、ご自分の命じられたお言葉を虚偽とされる過ち、約定を破り棄てる過ち、人民を粗末に扱い蔑ろにされる過ちを犯しておられる。三つの過失はいかに従順で貞節な民も怨みをいだくでしょう。その怨みは国全体に広がります。謹んで申し上げます。君公の言葉は絶対のものなれど、これを棄て改めることを願い申し奉ります」

 あくまで、穏やかに、優しい声音で欒成は語りかけ、拝礼した。が、苦言を越えて言葉による折檻に近い。光は青ざめ唇を震わせた。二人きりの時にこの言葉を投げかけられれば、光も素直に反省し頷くだけで終わったであろう。しかし、みなの前で完膚無きに叩きのめされたのである。

「ゆ、許すと言ったは、一年前だ。あの時、あやつらはこの翼を天と仰がぬ、曲沃を主にするとした。約定を、破ったのはあれらだ」

 光が、へりくつを言った。欒成は、

「なりませぬ。そのような虚言で己をごまかすのは君主の行いとは申せませぬ」

 とはっきり返した。ここで光に恥をかかせていることはわかっていたが、みなのいる前で前言を撤回させないと意味がない。あやまちを認め諫言を受け入れることこそ、君主にとって大切なことなのだ。

 押し問答にはならなかったが、双方黙った。誰も、口を出せぬ。君主と臣下というだけではない。と教え子である。諫言であり、教育であった。

 息の詰まるような沈黙のあと、光が、悪かった、約定のとおりにせよ、と呻くように呟いた。崩れかけた顔のまま、欒成を見てくる。

「その言葉は晋の栄えとなりましょう」

 そう返して欒成は拝礼した。降った邑は丁重に迎えられた。ここでこの邑を罰してしまうと、曲沃から改めて帰ってくる氏族がいなくなる。そう、利で諭すことは容易い。しかし、怒りにまかせての命令を利益で撤回させても、同じ事をくり返す。君主は民を養わなければならぬ、忘れるな。それを欒成は強く言い、光は受け入れたのであった。

 ――どうも、君公に迷いが出ている。

 たった十三才の子供である。惑うことはあるであろう。しかし、欒成はゆっくり土台を積み上げるように光を指導した。傅として厳しく、時には優しく、そして少年の心を壊さぬよう、守ることにも務めた。が、成人の儀、初陣と挫折、虢公への失態で、光にひずみが感じられる。それが気負いとなり、実像以上の発言をしてしまっている。それは、道に迷いがあると同じである。欒成も、己に欠損があることに気づいてしまった。少なくとも、典礼を正しく知っていない。傅はひとつも間違ってはならない。君主の道しるべなのである。父である欒賓は桓叔の目付であった。目付はもっとも透徹が要求される傅である。

「父上ならいかがなされるか」

 欒成が呟きながら、ようやく覚悟したのは、襟足を身を切るような風が通り抜ける冬であった。彼は、隰氏しゅうしの邸に訪ねた。政堂での相性は良けれど、個人的に訪ね合うことはない。先触れされた隰叔は驚いたが、受け入れた。

「我が晋にて教養深い汝と見込んで頼みがある。隰氏が受け継いでいる周の儀礼を我が君にご教示いただきたい」

 傅として為さねばならぬことであったが、己にはもはや届かぬ。欒成は悩み抜いた上に、隰叔へ頭を下げたのである。

「我が君はお許しか」

 隰叔の問いに、欒成は首を横に振った。政堂で光に願い出て隰叔に問うのが筋である。

 先に約を取り付けるのは、臣として僭越であった。が、傅として力及ばぬのであれば、賢人を推挙するという理には適っていた。今、欒成は傅として隰叔の前にいる。

「……今すぐ答えは出せぬ」

 その声には苦味が含まれていた。

 欒成の求めに応じるとなれば、隰叔は欒成の代理として光に対することとなる。そうなれば、隰氏が欒氏の与党とみられるであろう。この異姓の氏族は立場をわきまえている。どことも近くならないからこそ、隰叔の言葉は受け入れられているのである。その均衡が崩れれば、一つの氏族として立ってられず、最悪自壊し近づいたものに喰われる。それが欒氏でもどこでも、晋公であっても、である。

「当然だ。即答はいらぬ。……いや、私は立場を利用して汝に申し上げた。卑しいと我ながら思う、すまぬ」

 うっかり、弱音を吐き、欒成は再びすまぬ、と言った。これでは縋って脅していると同じである。頼んでいるていで、上から脅し、縋って下から脅すような己に、欒成は恥じ入った。隰叔が苦笑する。棘のある空気がふわりと溶けた。

「迂遠な命令などとは思っておらぬよ。あなたは真っ正面を見ている時は強いが、横道を歩くにはいささか不器用な方だ。さて……即答はできぬと申し上げたが、忠告はする。欒叔らんしゅく、あなたは己に責を置きすぎている。確かにあなたは責任をとることができる、耐えることもできる。君公があなたに信を置くも当然です。しかし、それでは国は立ちゆかぬ。難と責は皆で分かち合うものです」

 思いやりに溢れた声音であった。誠実な拒絶もあった。欒成は拝礼し、

「汝の訓戒を我が喜びとしよう」

 と穏やかに返した。

 その後、日が経っても欒成は話を蒸し返さなかったし、隰叔もはっきりと答えなかった。

 翌年。曲沃は傷が癒えたらしく、夏に攻めてきた。邑をとるというより、耕作地を荒らしに来ている。翼を立ち枯れさせようというのであろう。

「我が所領にも近い。我ら隰氏しゅうしも出陣の許しを願います」

 欒成に討伐の任が命じられたその時、隰叔が許しを請うた。

「隰氏は武門の家とは聞いておらぬが大丈夫か?」

 光が不安そうに聞いた。この子供は欒成の武を絶対視しているが、隰叔は知恵者という印象で止まっている。戦場ではどうなのか、と本気で思った。

「我が君。隰氏は杜伯とはくが言われもなく時の周王しゅうおうに殺されたため、武によってかたきを討ちました。儀礼あり知恵ある方々ですが、武にもお強いのです」

 欒成が、口添えすると、光がそれは心強い、と手を打った。晋への亡命を進めつつ暴君に逆襲したわけであるから、苛烈な氏族でもある。隰叔が、お許しありがとうございます、と美しい所作で拝礼した。

 夏は雨期である。曲沃との戦は、途中から大ぶりの雨となった。ど、と流れ落ちる滝のようなしずくに矢は飛ばぬ。ぬかるみのなか、のろのろと馬は走り、兵車へいしゃは泥に車輪をとられ、兵は泥まみれになりながら殴り合った。がぶつかるたびに飛沫しぶきがとび、目の前は泥と水にまみれて敵味方の区別さえ無くなっていく。

 機転を利かせた隰氏の軍が、曲沃の横合いに突っ込み、散らした。旗を振り、太鼓の音で撤退しろと伝えてくる。欒成は頷き、泥まみれの軍勢を静かに引き上げさせた。そうして、隰叔の帰りを手勢のみで待つ。欒成が去れば、隰叔たちは曲沃に囲まれて潰されてしまう。ゆえに、将として圧をかけ、隰叔が戻るのを待った。

 隰氏は戻らなかった。曲沃のものどもが、さも当然と整然と並び、隰氏の軍を守るように立っている。ひとつの兵車が少し進み、止まった。欒成は、御者に命じ、やはり単身進んでいった。

 はたして、隰叔がいた。雨に濡れ、泥にまみれたその姿でも常の笑みを浮かべ、飄々とした空気を醸し出す。

「あのまま撤退なさればよかったものを」

 言いながら隰叔は肩をすくめていた。欒成は隰叔を見据えながら返す。

「汝であれば儀礼を忘れぬであろう。いまだ、汝は我が翼の臣だ」

「そういうところがずるいと以前も申し上げた。それでは改めて言上つかまつる。我が隰氏は翼に天命なしと断じ、曲沃へと身を委ねることとした。天はたかく地はひくい。翼はもはや、天になり得ぬ。国を捨てるに喪服を着て儀を行うが本式なれど、戦場にて許されたい」

「……汝は翼によく尽くし、私も幾度か助けられた。去る理由を伺うのは非礼であるが、あえて伺いたい。利によるものか」

 欒成は言いながら、腹の奥が重くなった。隰叔は少々稚気めいたことも言うが、慎み深い理の男である。欒成は彼の言葉に、幾度か助けられ気も楽になった。他の臣も、そして光もそうであったろう。そんな隰叔に、利に走ったのか、と問うのは苦しいほどであった。

 隰叔は首を横に振った。そろそろ雨は、小降りとなってきていた。

「義があるとは言わぬが、利ではない。申し上げた、翼に天命なしと。私は異姓の新参です。たとえ、周室の儀を多く学んでいたとしてもそれは変わらぬ。その私に、君公へ教示を頼んだ。情としてわかるが、翼の理ではない。分家を退け、長子を掲げ続ける翼は、順逆を間違えてはならなかった。儀礼をただしたかったならしゅうを頼るが翼の理であろう。序列を守れぬ翼に価値があろうか。あなたも無理を押しているとわかっておられた」

 そこまで言うと、隰叔は小さく笑んだ。

「そう、あなたは無理をなされるほど、責を負いすぎている。あなたに翼は小さすぎるのだ。共に曲沃へ参ろう。あなたの家族を連れ出すことさえ曲沃はできる」

 欒成は息を飲んだ。翼に曲沃と繋がっているものがさらにいる、ということであった。

 手を差し出した隰叔は、本気で欒成を労っていた。傍らのぎょが、迷う視線を欒成に送ってくる。欒成は一瞬、御の肩に手を置くしぐさをしたが、やめ、隰叔をまっすぐと見た。

「隰叔。私は君公に帰ってくるよう命じられている。汝に頷けぬ。……大夫として恥ずべきことだが、私は一瞬だけ汝に同意したふりをして、討とうと考えた。あきれた徳の無さだ。私はまず汝から正しき儀礼、そして徳を学ぶべきであった。では永の別れだ、健勝を」

 肌を滴り落ちるしずくを拭うことなく、欒成は静かに言い切って立礼をした。隰叔が手を下ろして、はは、と乾いた笑いをもらした。

「そういうことろが、ずるい。それではごきげんよう」

 隰叔が軽く礼をしたあと、兵車を返し、去っていく。欒成は軍勢が遠くなるまで、動かなかった。感傷ではない。曲沃の退却をはっきり見定めねば復命できないからだった。

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