3 - 7 田淵駒乃、或いは昔話 ④

 全員自腹合宿が行われた年、田淵たぶち駒乃こまのは年上の二回生・はやし壮平そうへいと交際していた。交際を始めた、と鹿野は田淵から直接聞き「そうなんだ、よかったね」と当たり障りのない返答をした。林は以前より田淵に片想いをしていたのだという。『演劇講座』の第一回公演で客席案内をしていた田淵に一目惚れした、とかそういう理由で。鹿野が通っていたL大学には不田房の『演劇講座』は授業として存在したものの、所謂劇研・演劇研究会と称される集団や、サークルはなかった。鹿野の在学中にはなかった、という意味ではなく、L大学の歴史を遡っても、そういったものを設立した先輩はいなかった。演劇に興味がある者が極端に少なかったのだと鹿野は解釈した。

 一方、演劇講座を受講する学生の一部は、近隣の大学にある劇研に顔を出したり、他大学でも興味のある者なら誰でも歓迎という看板を掲げたサークルに入る者もいた。不田房にも不田房の生活がある以上、授業として公演を打つのは年に一度が精一杯。物足りない、と感じる者が出てきても仕方がなかった。

 田淵駒乃、真小田崇、高居侑宇、それに林壮平は、L大学からほど近い場所にあるY大学の演劇サークルに出入りしていた。


「鹿野ちゃん、良ければ見に来てよ」


 喫煙所に現れた田淵に、チラシを差し出された時には驚いた。Y大学で六月末に行われる公演で、田淵は主演に抜擢されたのだという。


「見る目あるよね、さすがY大は違うっていうか」


 鹿野は眉を顰め、キャスト一覧は無視してスタッフの名前を確認した。


(──やっぱり)


 舞台監督として、佐伯さえき弘幸ひろゆきの名前がクレジットされていた。


 佐伯弘幸は前年、不田房栄治が舞台監督指導者として連れてきた人物であり、僅か一回の公演で指導者としての任を解かれた。理由は簡単。彼は指導するべき相手、学生と肉体関係を持っていた。それはもう呼吸をするように自然に、女生徒とセックスしていた。

 舞台美術班に属していた中村なかむら香織かおり西にしさや子、それに衣装班に属していた桃野ももの里英りえ──舞台監督指導・佐伯弘幸が手を付けた女生徒は『舞台班』に配置された女性、ほぼ全員だった。衣装班の田淵駒乃もそのひとりだった。

 すべてが露呈したのは、公演の僅か一週間前のことだった。ホールを借り切り、公演のための仕込みを全員で行っている最中、不田房はカフェの喫煙席で頭を抱えていた。


「マジ、かよ、クソッ……」


 クソ、という短い響きではあったが、不田房が誰かを罵倒するのを新鮮な気持ちで聞いた。


「佐伯さん、有り得ねえ、学生だぞ相手は」


 鹿野に、最初に佐伯弘幸との関係を告白したのは誰だったか。美術班のふたりのうちのどちらか──いや、両方だ。碌に口を利いたこともない中村香織と西さや子が、休憩中、神妙な表情で話しかけてきたのだ。


『鹿野さん、あの、こういうこと不田房先生に相談してもいいか分からないから先に聞いてほしいんだけど──』


 不田房の知らないところで、最悪なことが起きていた。とはいえ、中村・西両名は「合意だったから訴えたいとかではない」「ただ、セフレにされてる学生が複数名いると知ってしまった以上、正直授業中も気まずい」ということで、別に事態は好転しなかったが、鹿野の気持ちはほんの少しだけ楽になった。裁判を起こすのは大変だと、身を持って知っていたからだ。後日、衣装班の桃野里英からも同じような告白を受けた。なんでも、美術班のふたりに「一旦鹿野さんに相談してみたら?」と背中を押されたらしい。三人分の秘密を抱えた鹿野は初めて自分から不田房を呼び出した。大学から歩いて十分ほどの場所にある古本屋街。その中に点在する純喫茶で、演出家と演出助手は向かい合っていた。佐伯のご乱行を耳にした不田房は「嘘でしょ」「マジかよ」「学生だぞ相手」「冗談……」と立て続けに呟き、「冗談でそんなこと言いますかね」という鹿野の言葉を耳にするなり文字通り両手で頭を抱えた。


「いや……知ってたんだ、俺も……」


 罪の告白をするかのような台詞に、鹿野は黙って首を傾げる。


「佐伯さんが手ぇ早いっていうのは……でもまさか、そんな、娘ぐらいの年齢の学生にまで……」


 犯罪だろうか。犯罪に当たるのだろうか。鹿野も、それに中村も西も桃野も成人している。学生ではあるが、大人でもある。相談を持ちかけてきた三人は三人とも「合意だった」と言っていた。でも、だが、佐伯は指導者だ。指導者が学生にそういうことをするのは──


「私の感想としては、最・悪」

「だよね。俺もそう思う。ああダメだ、佐伯さんにはもう降りてもらおう」


 不田房の判断は早かった。そしておそらく、正しかった。しかし。


「待ってください先生」

「何? 俺もう今からガッコ戻って佐伯さん馘にするよ」

「いや、でも、佐伯さんが抜けたら仕込みどうなるんですか。かなり中途半端なところで止まっちゃいますよ」


 佐伯の肩を持つつもりなど毛頭ない。そもそも愛想のない鹿野は佐伯には好かれていなかった。稽古の合間に時折開かれる飲み会で、佐伯は今までに手掛けた大きな舞台についての自慢話をした。五〇絡みのいい大人が、自慢話を。それでも彼に擦り寄る学生はそれなりにいた。佐伯に気に入られれば、いつかプロの舞台に──と夢見るのは自由だ。しかし鹿野にとってのプロの舞台はお金を払って見るもので、参加するものではなかった。

 嫌われていて良かったな、とミルクティーを飲みながら鹿野は思った。あんなおっさんを同期の学生とするなんて、絶対にごめんだ。


「そうか、仕込み……今どこまで?」

「舞台上は五割。美術が間に合っていないので、組み立てながら仕上げると。そこの指導は佐伯さんにしかできません」

「クソッ」

「それから──これは別の部署の話ですが、灯体とうたいが足りていません」

「照明? マジで?」


 灯体──読んで字の如く、板の上を照らすための照明部の大切な道具だ。舞台の天井に吊るす形のものもあれば、舞台上や舞台袖、更には客席に設置する場合もある。その灯体の数が、予定より一〇個ほど足りていないと照明指導の道原みちはら克夫かつおが漏らしていた。その相談もしたくて、わざわざ不田房を構内から連れ出したのだ。


「音響は? 音響はなんも問題起きてない!?」

「私の見る限りでは……あそこはチーム仲も良いですし」


 音響指導をしているのは海野うんのすみれという名の女性技師だ。不田房が音響担当として指名した学生は全部で四人、真小田崇を除く三人が女性で、常に和気藹々とした雰囲気があった。


「良かった……いや良くない……さすがにこれは……」

「辞表出しますか」

「俺が? まあ最終的にはそうなるかもね。でも今は灯体だ。道原さんのとこのじゃ足りなかったか」


 道原克夫は良い照明技師ではあったが、株式会社啄木鳥キツツキ舞台照明という比較的大きめの企業の社員であり、彼の一存で多くの灯体を大学に持ち込むのは不可能だった。それでも、少ない灯体で道原はどうにか舞台上を照らそうとしてくれていたのだが。


「……うん。仕方がない」


 スマホを木製の丸テーブルの上に起き、不田房は言った。


「一旦全部まとめて解決しよう。泉堂せんどうさんを呼ぶ」

「は?」


 また知らないキャラが出てきた、としか、当時の鹿野は思わなかった。


 構内に戻った不田房は、


「今日は一旦解散とします。みんな早めにうち帰って飯食って寝て」


 と言い、強引に仕込みを止めさせた。大多数の学生は、灯体が足りないからだと思っていた。照明班の学生たちが「灯体っていくらぐらいするんだろ」「経費じゃ無理だよね」と言い合いながら帰路に着くのを、鹿野は黙って見送った。


「鹿野も今日はもう上がって」


 不田房が言った。


「帰りますが……?」


 最初からそのつもりだった。不田房が灯体について道原と話し合いをするにせよ、学生に手を出した佐伯を糾弾するにせよ、その場に居合わせるつもりなど毛頭なかった。


「明日にはなんとかなるから」

「はあ……分かりました。明日はちょっと、早めに来ます」


 そんな魔法みたいなこと、起きるはずがないと思いながら言った。不田房は何度も頷いて「頼むよ鹿野、俺の味方でいてくれよ」と呟いた。味方だなんて。そんな、大仰な。


 ──翌日。


 日曜日だった。本番直前ということで、土日をフルに使って仕込みを行っていた。公演は二日間行われる。この週末金曜日と、そして土曜日。両日昼夜2公演を行うので、役者は十二分に体力を温存し、台詞をきちんと頭に入れ、その上で仕込みも手伝うようにと不田房は無茶苦茶を言った。仕込みに対して抵抗がある役者も、少なからずいた。役者様。と鹿野は呼んでいた。板の上に立つ人間がいちばん偉いと思っている連中。スタッフがいなければ、彼、彼女らは全員裸の王様なのに。

 午前十時にホールに顔を出すと、佐伯弘幸率いる舞台班は全員総出で舞台上の飾り付けを行っていた。佐伯弘幸が普通にホールにいるという現実に、鹿野はかなり強めにうんざりした。


「あ、演助!」


 舞台上から佐伯がこちらを指差している。人を指差すな。失礼な男だなと思った。


おせえよ! とっとと道具持ってこっち手伝え!」

「はあ……」


 不田房はどこにいるのだろう。味方でいるも何も、現状鹿野が孤立無援だった。仕込み用にと不田房があちこちから集めてきた道具──金槌ナグリを手に、それからメジャーを首から下げ、釘の入った袋を持って舞台上に向かう。美術班の中村と西が困惑した目でこちらを見ているのが分かった。


「どこ叩きゃあえんです」

「ああ? 口の利き方なってねえなあ? 不田房に甘やかされやがって、使えねえガキが!」


 突然の、流れるような罵倒であった。鹿野は、反射的に佐伯を睨み付けていた。目付きが悪いと良く言われる。そんなことはない。つもりなのだが。


「んだぁおまえ……一丁前に金槌ナグリなんか持ってんじゃねえよ、養生持って来い!」


 今ここで金槌ナグリを振り上げ、目の前の不遜な男の頭をかち割っても良いだろうか。そんな風に思った、瞬間。


「お待たせしましたー! 照明班来てる? 来てない? 灯体追加来ましたよーっと!!」


 ホールの扉を大きく開けて、不田房が現れた。佐伯は不田房によって命を救われたのだ。


「おうフサちゃん、照明班は揃って……って!?」


 道具の足りない照明チームは、調光室にて調光卓の操作方法を再確認していたらしい。ホールの二階にある調光室から降りてきた道原の声が裏返るのを、その場にいた全員が聞いた。


「泉堂さん? なんで?」

「おう。仕事しに来た。しっかし、聞いてたよりだいぶ広いホールだな〜。こりゃ灯体も足りなくなるわ」


 浅黒い肌にがっしりとした体付き。ベースボールキャップを深く被った男・泉堂せんどう一郎いちろうはホールを見回して呵呵大笑した。

 見れば、泉堂と呼ばれる男の後ろには揃いの黒いTシャツに身を包んだ男女が五名ほど付き従っており、その全員が両手に灯体を三個ずつ引っ提げている。ひとつひとつがかなりの重さだと鹿野は認識しているのだが──


「こんだけあれば足りるかぁ? 道原」

「いやじゅうぶん過ぎるほどですよ、でも、なん……」

「おう佐伯ぃ! 久しぶりだなぁ!」


 道原の問いかけを最後まで聞かず、ホールの真ん中を突っ切って泉堂は仕込みの真っ最中である舞台へと向かう。鹿野は泉堂とすれ違うようにして舞台を降り、金槌や釘を元あった場所に戻して不田房のもとに駆け戻った。


「あの人なんなんですか!?」

「見てなよ」


 小声でやり取りをするあいだにも、舞台上の力関係があっという間に変わるのが目に見えて分かった。


「いや……泉堂さん……驚いたな……」

「そうか? 俺ぁ不田房のバカタレが灯体の数間違えたから助けてくれって言うもんで、届けついでに現場覗きにきただけなんだが」


 髪を撫で付け、口髭を生やし、精一杯に若造りをした服装と良く回る舌で舞台班の女性たちを惑わしていた佐伯弘幸の姿はどこにもなかった。金槌を片手に中腰で視線を彷徨わせる佐伯を見上げた泉堂は白い歯を見せて笑い、


「俺の持ってきた明かり、無駄にすんなよ」

「はい……それは……もちろん……」

「特別サービスでうちの若いのも連れてきたからな。おい道原、吊るせるとこ吊るせ! 早めに場所決めないとリハに間に合わんぞ!」

「あっはい! 行くぞ! 照明班!」


 まるで夢から覚めたばかりのような声音で、道原克夫が学生たちに声を掛ける。鹿野の頭の中には、正三角形が浮かんでいた。


 すなわち、このホール内に於けるヒエラルキー。


 唐突に現れた、あの泉堂という男は圧倒的な強者だ。年齢やキャリアの問題もあるだろうが、そういうものを除いても彼は強い。佐伯弘幸の化けの皮が、ベリベリと剥がされていく。

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